4.思い出
町にひとつしかない神社に賑わいが戻ってきたのは、ここ数年くらいの話だ。それまでは、皆生きていくことに必死だった。土砂を免れた神社に、神頼みしにくる人はいたのかもしれないけど。だけど、お社村のように、あっけなく人に捨てられる神様もいる。
そう考えると、こうやって秋祭りの準備をしている光景も、神様はありがたく見守っているんじゃないかなと思ったりする。トンカチの音や町の人たちの声で、静謐な場なんて思えないくらい賑やかだけど。
そんな賑やかな場に似合わない男が、櫓の柱を運んでいた。神社の中央に柱を置いたのを見計らって、その背中をつんと突く。
「また手伝い頼まれたの、兄さん?」
「鈴」
「家で父さんがひとりで籠作ってたよ」
ちょっといじわるな言い方になってしまった。多分、我聞さんに追い出されて思うことがあったんだろう。わざわざ家から出て神社まで来たのに、そこは秋祭りの準備中で、人の良い兄はつい手伝ってしまった。そんな流れだろう。
「切りがいいならもう帰ろ?話したいことがあるんだ」
「話したいこと?」
「……あやめさんのこと」
やっぱり、他の人の口から聞かされるよりは、あたしが伝えた方がいいだろう。それで、兄さんがどっちを選択しても、あたしはそれを手伝う。もちろん、安全優先で。とりあえず、それでいこうと決めたのだ。
あとは柱を運ぶだけだったらしく、櫓を組んでいる人たちに挨拶をすると、兄さんは鳥居の方へと踵を返した。
ここは賑やかだから、神社を出てからの方がいい。そう思って踏み出した足は、一歩目で止まってしまった。組み立てられる屋台を見ながら、あたしは幼い頃のことを思い出していた。
「どうしたの、鈴」
「小さい頃、母さんが祭りに連れてきてくれたこと思い出したの」
赤い暖簾の下で、当日は何が売られるんだろう。まだ形になっていない木枠の向こうに、あたしは過去を見ていた。
「花の飴細工、とっても綺麗で美味しかった。その時にね、母さんが言ってたの。ここにいる神様は豊作の神様だから、鈴はこれからもお腹いっぱい、美味しいものが食べられるのよって」
食料が安定して流通するようになり、商いもぽつぽつと再開を始め、ようやく飢える心配をしなくてよくなった。
お腹いっぱいは食べられないけど、飢え死にせずに済んだと思う度に、母の言葉を思い出す。
もう顔も思い出せない母が、「大丈夫だったでしょ?」と微笑んでいるような気がして。
「ごめん」
「どうして謝るの?」
今の話のどこに、謝らなければならないところがあったのか。とんてんかんと快活な音が響く中で、兄さんの顔だけが暗い。まるでそこだけ雨が降っているように。
俯いたままの兄さんは、やっぱりろくなことを言わなかった。
「母さんが生きてたら、今も鈴は母さんと祭りに来られたのに」
空は晴れているのに、ここの空気だけ湿気ている。
母さんの笑顔と、目の前で俯く兄さんの顔が交差して、胸が苦しくなった。これは怒りだ。
「やめてよ」
「鈴?」
「あたしにとっては数少ない母さんとの思い出なんだよ。楽しかった話を、そんな風に聞くのはやめてよ!兄さんは、あたしよりもっと持ってるはずでしょ?それなのに、なんで火事の話ばっかりするの」
あたしは、母さんが死んだのが兄さんのせいだなんて思ってない。あたしは母さんと過ごした時間が少ないから、本当はもっと生きていた頃の母さんの話をしてほしいのに。
「そんな顔で母さんのことを思い出すの、やめたげてよ。母さんが可哀想だよ」
きっと兄さんの頭の中では、火事と土砂崩れの記憶がずっと流れ続けているに違いない。風化しないまま横たわった傷は、いつまでも乾かない。瘡蓋を自分で剥くことが罰だと思っているようじゃ、きっといつまで経っても未来には進めない。
「母さんや、あやめさんたちとの楽しい思い出を、なかったことにしないでよ」
「別に、なかったことになんかしてない」
兄さんは、握りしめた拳をふっと緩めた。
「なかったことにしたくない。だから、ぼくはあやめさんと潮さんを探しに行くんだ」
縋るように、祈るように、兄さんは声を絞り出す。
「だって、約束したんだ。また会うって。だから、きっとまた会えるって、ぼくは信じてる。諦めたくないんだ」
停滞して暗い影が沈んでいた瞳に、仄かな火が灯るのを見逃さなかった。
生きていると限らなくても、宙ぶらりんな状況から兄さんが脱しようとしているのはわかった。
いや、違う。生きていると盲信していると言った方が正しいのかも。だからこそ、張り詰めたその糸が切れそうで、少し怖い。
彼らが死んだと知った時、彼らの思い出まで辛い記憶に変わってしまうような気がして。母さんと同じように。
それでも、兄さんがその道を進むと言うなら、あたしはその姿を目に焼き付ける。
「あのね、町でこんな噂を聞いたの」
そうして、あやめさんに繋がる手がかりを兄さんに話した。
登山当日。雲の多い空を横切りながら、あたしたちは村の跡に向かっていた。
事件のこともあるから人数は多めに。とは言っても、兄さんと父さんと真之介さん、そしてメルさんという変わらない顔ぶれだけど。
最初、あたしは留守番を言い渡されていた。人殺しがでるような山だから、危険があることには変わりない。でも無理矢理着いてきた。あたしだって、潮さんとあやめさんがどうなったのか知りたかったから。
「安心せい。儂は鼻が効く。血や人間の匂いがしたら教えてやる」
渋い顔をする男たちに、籠で寝そべるメルさんはそう言い放った。余裕な表情を浮かべているけど、危険な状況で一番無防備なのはメルさんなんだけどな。
山に続く川沿いの道は10年前の土砂崩れでなくなってしまったから、ひたすら獣道を進んでいくしかない。メルさんが幼児体型でよかった。男が3人いるとは言っても、踏みならされていない道を、籠を担いで行くのは相当な体力がいる。
剪定も伐採もされていない山は、昼でも薄暗い。太陽の光から遠ざかった地面はぬかるんでいて、立ち止まると蛭が音もなく食いついてくる。
そんな中、蛭も撥ねのける勢いで土に足を食い込ませて、前に進んでいくのはやっぱり兄さんだ。
あの話を聞いても、ちっとも躊躇した様子がない。人を殺している可能性よりも、生きている痕跡の方が兄の心を揺り動かしたみたいだ。
「あやめさんが殺すはずない。もしそうなら、何か事情があるんだ」と落ち着いた声で言った兄さん。
たった数日しか会っていない人のことを、どうしてそこまで信用できるのか、あたしにはわからない。
そもそも、どうして兄さんはそこまであやめさんに執着しているんだろう。
無言で進んでいると、頭の中で色々と考えてしまう。そんな中、父さんが背負った籠の中から、おもむろに苦情が上がる。
「暗い」
「籠の中にいると、余計に暗いでしょう」
「そうではない。ただでさえじめついた空気の中で何を考え込むことがある。こんな日光も当たらぬような場所でいくら考えても、ろくな答えなど見つかるはずあるまい」
ふんと鼻を鳴らして、メルさんはあたしを見た。もしかしてあたしに言ってる?
いや、獣道に集中する一方で、みんなが胸の奥に沈む不安と向きあっていたのかもしれない。父さんだって、潮君やあやめさんのことを心配していたんだから。
でも、何も知らないで担がれている人から、そんな風に一方的に言われるのも、なんだかなぁ。
「じゃあ、メルさん。ひとつ明るい話でも話してくれませんか?」
肺まで秋の冷たい空気が入り込む。肩で呼吸をしながら、凪いだ海の色をする瞳をじっと見つめた。
籠の中で肘をついているメルさんは、あたしの提案に「ほう」と声を漏らす。
「儂に明るい話をしろとな?」
「先人の知恵で、暗い気持ちを吹き飛ばしてもらえませんか。海から帰ってくる度に、頭に変なもの乗せてくる男の話とか」
笑いを通り越して憑き物を疑い始めた身内の話だけど。
メルさんは、気分を悪くした様子もなく、唇に指先をあてて考え込んだ。
「ふむ……。土産は乗せておらなんだが、陸から帰ってくる度に、別人になっておった男の話でもするか」
そう言うと、メルさんは両手をぱんぱんと叩いた。あたしの後ろを歩いていた真之介さんが、息を弾ませる。
「さあてお立ち会い。今から話すのは、陸で生きる変わり者の人魚の物語ぃ~」
妙に芝居がかった様子で、メルさんは声を大きくする。後ろから拍手が聞こえた。
もしかすると最初の拍手は拍子木の代わりだったのかもしれない。
「その昔、まだ山の神がお怒りになるより、ずっと昔の話。この世の全知と美貌を兼ね揃えたひとりの人魚が、あるややごと出会った。ややごと言っても、人間で言えば、15、6の頃合いであろう。ではあるが、数百年生きる人魚にとっては、少年はややごでしかなかった。言葉は達者でも、世界のことは何も知らない、生まれたての同族であった」
メルさんと潮君の馴れ初め話かな。あまりにも自分を自我自讃しすぎじゃないかという気持ちは、そっと胸に秘めておく。確かに、黙っていれば、国ひとつを傾けそうな美貌を持っている。
「だがしかし、少年は世界のことは知らずとも、己が人間とは違うこと、そして、人間に裏切られる痛みはすでに知っておった。例え半身が同じでも、言葉を交わせても、人とは同じ目線で語り合えぬ定めを理解しておった。通過儀礼を済ませたややごは、海の底のような、仄暗い光を灯しておったそうな。そうとも、我ら人魚の故郷は母なる海。陸ではなく、海を見つめておれば、問題なく生きてゆけることを、ややごはすでに知っておるはずだったのだ。優しい人魚は、少年を慰め、海へと誘った。傷心の少年は、顔に能面を貼り付けたまま海での生活を始めた。だが、少年はすぐに陸へと帰ってしもうた」
メルさんの顔から呆れが滲み出ている。頭を撫でたり、顔を覆ったり、メルさんが激しく身振りをする度に籠が大きく揺れるので、父さんが苦笑していた。
「それから数十年後、人魚は偶然、少年と再会した。人魚は始め、それがややごと気づかなんだ。背丈すら変わらぬものの、向ける顔は小面ではなく、恵比寿であった。朗らかな笑みを浮かべ、犬のように戯れてくる様は、見る者に福を呼んだ。驚くのはまだ早い。船底にしがみつく少年は、これから異国に行くのだとほざいた。この国だけでなく、世界を見るのだと」
「世界……」
この町を出たことのないあたしにとっては、途方もない話だ。あたしだけじゃない。この国にいる人たちはみんな、この十年間生きることに必死だったから、もし土地を離れるにしても、楽しむ余裕なんて全然なかったに違いない。
毎日見ている海が、ずっとずっと遠くまで続いているのだと教えてくれたのも潮君だった。山に囲まれた暮らしをしていた小さなあたしにとって、その海を泳ぎ歩く潮君は自由の象徴だったと言っても過言じゃない。
別に今も昔も、暮らしに不満があるわけじゃない。でも、人なら一度は思ったことがあるはずだ。
鳥のように飛べたら、魚のように泳げたらって。
なんのしがらみもなく遠くへ行くことは、本能に近い一種の憧れなんじゃないかな。
もちろん、人魚にしがらみがないなんてことはないだろう。話を聞く限り、彼らにとっては存在そのものがしがらみになってしまうことも多かったんだろう。彼らが仲間に会うのは、長い一生の中でも数度だと聞く。
どこまでも泳いでいけるのに、一緒に泳いでくれる人は早々見つからないのかもしれない。
ああ、それはきっと辛いことだな。
メルさんは、潮君と一緒に行かなかったんだろうか?こっちが振った手前、話の腰を折るのも悪いと思ったので、大人しく続きを待つ。
「次に会ったのは、二百年後。なんと少年は子持ちになっておった!」
「は!?」
と思ったら、予想もしない方向に飛んでった。
全員が一斉に振り返る。
「少年は会うなり、娘の話をし出した。出るわ出るわ、賛美と愛の叫び。やれ、小さくて可愛いだの。やれ、赤い目が綺麗だの。聞いてもないのに語っては、自分の言葉に悦に浸っておった。しかも、人間の幼子ぞ」
「あ、あやめさんか」
「ほんに、迷惑じゃった」
思いっきり顔を顰めてさらっと本音をぶちまけた。
よかった……。一瞬、育児放棄とか、死別とか悲しい事情でもあるのかと思った。
だって、潮君はいつもあやめさんのことを一番に考えていたから。
「なんの因果か、そこは初めて少年が人間と関わりを持った場所じゃった。人は裏切る。裏切らずとも、同じ時は生きられない。数百年生きておれば、いくら阿呆でも身に沁みて理解しておろう。にも関わらず、そやつはまた人と繋がりを持った。恵比寿の面は翁に変わり、被嗜虐趣味と罵ろうとも、奴は笑うばかりじゃった。そうして、一丁前に儂にこう申したのじゃ」
話の佳境に耳を傾ける。そうして一歩踏み出した瞬間、くるりとメルさんの顔があたしの方へ向いた。険しい表情は、すぐに山の斜面に向けられる。
次の瞬間、何かが草むらを突っ切って飛んできた。
「え」
黒い影が、足下を走り抜けたかと思ったら、足首に強い痛みが走る。その存在を追う前に、痛みを伴いながら足を後ろに引っ張られた。
後ろは急斜面。胃が竦んで、両手を伸ばす。景色がゆっくり後退する中で、先に手を掴んでくれたのは兄さんだった。
「鈴!」
でも、掴んだところで勢いは止まらない。兄さんの焦った顔は、すぐに森林の緑で覆い隠される。
がっしりとした腕が、衝撃に備えようとするあたしを抱き寄せた。
獣の匂いが鼻を掠める。恐怖で目を瞑るあたしの耳に、もうひとり誰かがこっちに飛び降りてくる気配を感じた。




