2.噂話
あの火山が噴火してから、潮君も、一緒に暮らしていたあやめさんも一度も見ていない。
そう伝えると、メルさんは顔を伏せて、「そうか……」と呟いた。
「あの脳天気な顔を、久しぶりに見たかったんじゃがの」
メルさんがそう言ったきり、狭い家の中に沈黙が続いた。まるで黙祷しているみたいに。
いや、まだ死んだと決まったわけじゃない。まだ、二人はどこかで生きているかもしれない。
兄さんも、きっと同じ気持ちだったんだろう。眉に皺を寄せていた兄さんは、おもむろにメルさんの近くに寄った。
「メルさん、ぼくたちは今もその人たちを探しています。メルさんは、潮さんの匂いを辿ることはできますか?」
「近くにいればわかるがの」
「なら、ぼくたちと一緒にあの人たちの住処へ行ってくれませんか?何か手がかりが欲しいんです」
いつになく真剣な顔で、兄さんが頭を下げた。
「ぼくは、またあの人たちに会いたい。だから、どうか力を貸してください」
「あたしからも、お願いします」
隣に寄って、あたしも頭を下げる。
しばらくした後、柔らかい声が降ってきた。
「まあ、儂も会えるものなら会いたいしのう。可能な限り手を貸してやろう。山まで担いでいってもらえるならの話じゃが」
「即席でいいなら、悪くない席を作っておきますよ」
ずっと会話を眺めていた父さんが、袖を捲り上げた。メルさんを乗せられる籠でも作ってくれるんだろう。家にある押し車も、仕事に使う船も、全部父さんのお手製だ。大雑把な性格だけど、漁と大工はお手の物なのだ。
「ただ2~3日時間が欲しい。それまでは、どうかお疲れになった身体を癒やしてください。手伝ってくれるお礼に、出来る限りのもてなしはさせてもらいますよ」
「ありがたい限りじゃ」
メルさんは、満足そうに頷いた。
あたしは隣にいる兄さんは覗き見る。相変わらずの無表情だけど、口角が少しだけ緩んでいるのがわかった。これは嬉しい時の顔。
近所にいる人たちは、兄さんを能面と呼ぶ。でも、ちゃんと感情を顔に出す人だと、あたしは知っている。人よりも、ちょっとわかりにくいだけで。
「それじゃあ、お言葉に甘えて、傷を癒やさせてもらうかのう」
そう言って、メルさんは桶に寝転がる。兄さんはあたしに、「夕飯に栗ご飯の準備をしておいてあげて」と言うと、ゆっくりと立ち上がった。
台所で、煮物を包む背中を眺めながら声をかける。
「今日も我聞さんのところへ行くの?」
兄さんが頷く。我聞さんは、長屋で一人暮らししているお爺さんのことだ。息子夫婦と一緒に暮らしていたが、あの土砂崩れで亡くなってしまったらしい。
足を悪くして不自由しているその人の家に、兄さんは毎日通っている。
「風邪気味らしいから、粥ももらってく」
「それなら、柿も持っていってやれ。軒下に干していたのが、良い感じになってたぞ」
お土産をたくさん携えて、兄さんは出かけて行った。
食べ終わった食器を片しながら、真之介さんが扉の方を見る。
「一馬さん、ちゃんと休んでるのかな。寝てる時以外に、義兄さんが休んでるとこ、見たことないんだけど」
「兄さんは倒れるまで学ばないよ。あたしたちがいくら言ったところで、昔から変わんないんだもん」
誰よりも率先して働いて、家でも家事を先回りして、身寄りのないおじいさんを支える兄さんの一日に、休みなんてない。
いや、きっと隙間を作りたくないんだろう。
「多分、倒れても働こうとすると思うよ。さすがにその前に止めたいけどね」
「なんでそこまで……」
「不安なんだろうさ」
頭をがしがしと掻きながら、父さんが言う。
「いつだってあいつは自分より他人だ。無理矢理にでも動いてないと、色々考えちまうんだろうなあ」
「色々?」
顔を顰めるあたしたちの不安が伝染したように、真之介さんも迷子の子どもみたいな顔をした。
暗闇にひとり放り出されたような顔。山が崩れた時、兄さんも同じような顔をしていた。
「母さんが死んだのも、潮君とあやめさんがいなくなったのも、兄さんのせいじゃないのにね」
兄さんは、崩れた山を見上げながら思ったんじゃないだろうか。
ああ、また救えなかった。って。
身の回りで起こる不幸は、まるで自分が原因だと言わんばかり。その贖罪のように、兄さんは常に誰かに尽くし続けている。
たったひとつの不幸な事故が、兄さんの心をそういう風に変えてしまった。歪まされた心までは、あたしと父さんの声だって届かない。
きっとあの耳には、失った人たちの怨嗟の声ばかりが届いているに違いない。本人たちは、絶対にそんなこと言わないのにさ。
ああ、いけない。また、死んでしまった前提で話を進めてしまった。あの災害で、あの二人が死んだなんて限らないのに。
それでも、その可能性を捨て切れないのは、その事実に直面した時、あたしだけは冷静に対処しなきゃいけないと思っているからだと思う。
盲目に、生きている可能性に縋る兄さんがいるから。その心が壊れてしまわないように。
「さてと、それじゃあ帰ってきた兄さんから少しでも家事を遠ざけるために、あたしは買い物に行ってくるよ。帰ってきたら栗を剥かなきゃ」
「家でお父さんの手伝いをしているから、しておくことはあるかな?」
「本当?助かるなぁ。じゃあ、栗を水に浸けておいてくれる?」
頷く真之介さんに後は任せて、あたしも家を出る。煮物で野菜を使い切ってしまったから、少し買い足さなきゃいけない。町に行くついでに、長屋によって兄さんと我聞さんの様子も見てこようっと。
土砂崩れで半壊した町も、10年もすればその面影は薄くなる。むき出しになった山肌だけが、当時のままあたしたちを見下ろしている。兄さんからは、睨み付けているように見えるんだろうか。
豆腐屋のおかみさんの声が響いて、昼から飲んだくれたおじさんが地面に転がっている。身体の横を子どもたちが駆けていき、進むごとに真新しい木材の匂いが鼻を掠める。
目の前には平穏な日常が広がっている。
あたしは目の前に広がるその光景を、じっと見つめる。真新しい木材の匂いが、頭の中に霧を広げていく。あたしは、胸に垂らした髪をぎゅっと握りしめる。自分を立たせる、手綱の代わり。
この町は、いや、この国は、一度大きく傷ついた。誰かが大切な人を、大切な身体を、大切な財産を失った。
それでも、誰かの手を借りながら、どうにかこうやって生活を建て直した。日常という空間を作り上げた。誰もが、その光景を切望していたから。
過去に想いを馳せることはきっと悪いことじゃない。みんな痛くて、辛い思いをしたくないから、がんばると思うから。
でも、今と自分を犠牲にしてまで誰かのために尽くそうとする兄さんを見ていると、なんだか腹立たしくなる、気がする。
「我聞さんとこの長屋を建て直す時だって、すっごくがんばってたのに……」
この町で兄さんを悪く言う人は、随分と少なくなった。当然だと思う。復興の時に、誰よりも率先して動いていたのだから。誰かが泣いて落ち込んでいる分も、怪我をして動けなくなった分も、ひとり黙々と土を移動して、木を運んで、誰かの寝床を作っていた。
帰る場所を失った人たちが、少しでも安心して眠れるように。
賞賛されるはず行動が、本人の中で贖罪になっているのは、やっぱりなんだかもったいないと思う。
「あら、鈴ちゃん、こんにちは。一馬くんがさっき長屋の方へ向かってたよ」
茶店から馴染みの女将さんが出てきた。長椅子に置いてある湯飲みを片しながら、笑顔を見せた。
「また我聞さんのとこだろう?えらいねえ、別に親戚ってわけでもないだろうに」
「我聞さんも、足が悪いのにひとりで大変ですからねぇ」
「でも、あそこまで献身的にしてくれる子はいないよ。災害からこっち、毎日通ってるんだろう?我聞さんにとっても、もう我が子同然じゃないかねえ。なんて言ったら、信親さんの怒られるか」
快活な笑いを見せて、女将さんはあたしの背中を叩く。かと思ったら、羨ましそうな顔を見せて、長屋の方を見た。
「あたしも娘を亡くしちまったからさ、あんな風に毎日顔を見せてくれる子がいたら、そりゃあ可愛いだろうね」
「可愛いんですかね」
「あたしらにとっちゃ、子どもはいてくれるだけで可愛いんだよ。もちろん、あんたもね」
「えへへ、くすぐったいですよ」
女将さんは暗さをすぐに引っ込めて、明るい顔で頭を撫でてくる。
確か土砂崩れで亡くした娘さんは、兄さんと同い年だったと思う。生きていたら、きっと女将さんと一緒にこの店を繁盛させていたんだろうな。
「ああ、そうだ。あんた、これからあの山に入ったりしないだろうね?」
「え、どうしてですか?」
まさにこれから入る予定だったなんて言えないような怖い顔で、女将さんは詰め寄ってきた。
「人殺しがでたんだよ!先月くらいだったかね。田淵屋の夫婦が、山にキノコを採りに行ってね、途中で旦那さんが奥さんと離れちまったって言うんだよ。そんで探してたら、奥さんが廃村の前で亡くなってたんだって」
「ええっ」
山に廃村はふたつある。でも、神社がある方は皆お社村って呼ぶから、今言ってる廃村は多分あやめさんたちがいた村だ。
「全身泥だらけで、足に傷もあったから、最初は滑落したのかと思われてたんだけど、どうやら首を誰かに締められた跡があったらしくてねえ」
「首を絞められて、突き落とされたってことですか?」
「奇妙なのはそれだけじゃないよ。口の中にびっしり土が詰め込まれてたって」
女将さんは、ぷくりと頬を膨らませた。滑落して口に入ったっていうより、わざと誰かが口の中に土を詰め込んだみたいな言い方だ。
「最初は田淵屋の旦那さんが、奥さんを殺したんだって言われてたんだけど、お役人に詰められてる時も、同じような事件が起きてねぇ。それからもう何件も!いつかその人殺しが町に降りてくるんじゃないかって話してるところさ。いいかい、間違っても山に入ろうなんて考えるんじゃないよ。それでなくとも、夜に出歩かないこと!」
「でも、なんでそんな事件が」
「さあねえ。でも、死んだ人たちには申し訳ないけど、廃村かお社村の祟りじゃないかって噂も出てるんだ」
「廃村とお社村の近くで起こってるからですか?」
「それもあるんだけど」
女将さんは口ごもる。まるで後ろめたいことでもあるみたいに、あたしから目を逸らした。
「おまえさんは覚えてるかね。山が崩れる前までは、廃村の方から、異国の血が混じった女の子がたまにこの町に来てたんだよ」
どうして、ここでその話がでてくるの。
冷たい汗が背中を流れていくのを感じながら、あたしは女将さんの声に耳を傾けた。
「血みたいな赤い目をした女の子でね、気味が悪くてあたしらも近づかなかったんだが、どうやら村の方でも迫害まがいの扱いを受けてたみたいでねえ」
女将さんの歯切れが悪いのは、他ならない女将さん自身もあやめさんを避けていたからなんだろう。身近な人が親しかった人を避けていたなんて知りたくもなかったけど、しょうがない。悲しいけど、あたしの家が特殊なんだ。
父さんも兄さんも、あたしも、幼い頃から人以外の生き物が存在するって知っていたから、多少、自分たちと容姿が違っても、あまり気にならないのだ。
長い時間を生きている人魚なんて、物知りで面白い話ばかりしてくれるのに、あたしたち以外の人は、人魚を見つけるとすぐに食べるか、捕まえようとする。
同じ心を持って、話ができる存在なのに、どうしてそんなことができるのか不思議でたまらなかった。でも、成長するにつれて、あたしの方が特殊な考え方をしてるんだって気づく。それでも、あたしたちの生き方や考え方が間違ってるなんて、微塵も思わないんだけど。
「覚えてます。すごく綺麗な長い髪をしてた」
あたしがそう言うと、女将さんはますます顔を曇らせた。意地悪かもしれないけど、あたしは女将さんが困るってわかってて言った。
あやめさんのこと、忘れてほしくなかったから。少しでも罪悪感があるのなら、それを持っていてほしかったから。
「あ、ああ、そうかい。10年も前のことなのにね」
「それで、その人がどうしたんですか?」
物騒な事件の後にあの人の話題があがることに胸騒ぎを感じながら、あたしは続きを急かした。案の定、女将さんの口から信じたくないような話がでてきた。
「その遺体の近くには、いつもその女の姿があるらしいんだよ……」
こんな形で、あやめさんの話題を耳にしたくなかったな。兄さんになんて説明したらいいんだろう。
10年探し続けていた手がかりが、思いも寄らない形で舞い込んできた。




