最終話.永遠の途中で
初めてあの美しい宝石と出会ったのは、熱い夏の日だった。
おれは、よく晴れた日の海の中で目を覚ました。温い海から身を起こすと、眩い光で目が眩んだ。地平線に、太陽が光を発しながら沈んでいく最中だったのだ。
残滓がちらつく目で海中を見ると、虹色の鰭が瞬いている。そして、それはおれの腰から伸びていた。
周りを見渡しても、自分と同じ存在が見当たらないことに不安を感じた。だけど、白い砂浜の中に、やたらと目立つ色があった。砂浜に打ち上げられた古びた小舟の淵に、その色を瞳に宿す女が座っていた。その瞳といい、夕方にひとりで海にいるところといい、不思議な存在感を持つ女だった。
その視線が、すっとおれの方へ向く。そして、おれの姿を見て泣きそうな顔をした。
白いスカートが濡れることも気にせずに海の中に入ってきたそいつは、おれの前にやってきてこう言った。
「潮」
感極まった様子で、そう呼ばれた。
なんのこっちゃわからない。どうやらこいつとおれは深い間柄らしいが、困ったことに目覚める前の記憶が全くない。これは一体全体どういうことだよ。
女には2本の白い足がついていた。おれとは違う、地上を歩く足が。それなのにこいつは、明らかに海の生物らしきおれを親しげな声で呼ぶ。でも、おれの上半身は確かにこいつと同じ種族のもので、だからこそおれは混乱してしまっていた。
一体おれはなんなんだ。どうして、人間の胴体と魚の鰭がついているんだ。なんで急に目が覚めたと思ったらろくな記憶がないんだ。
広い海の中で、縋れるものはなにもなかった。手に馴染む砂はすぐに指先から溢れて頼りないことこのうえない。
だから、おれのことを知っている様子のこいつに、頼ってしまったのもしょうがないことなのかもしれない。
「おれの名前、潮って言うの?」
初めて発した声は、思っていたより高かった。
女は困ったように眉を下げた。自分で言ってきたくせに。
女は、唇に指をあててしばらく考えこむと、おずおずと言った。
「今のあなたが、それでよければ」
なんだそのふわっとした答え。あんたおれのこと知ってるんじゃないのかよ。
とはいえその答えは、「お前は潮だ」と言われるより気が楽な気がした。今ここにいるおれは、そいつを知らない。記憶が曖昧なおれにとっちゃ知りたいと思うけど、果たしてそれはおれ自身になり得るのだろうか。
この女も、それをわかったうえでそう言ってきたのだろう。
とはいえ……。おれは腕を組んだ。
刷り込みというやつだろうか。それとも、おれの秘められた記憶が求めているのだろうか。縋るような女の視線を見ていると。それに応えてやりたいという気がしてこないわけでもない。
別に同情ってわけじゃない。それでも、最初に呼ばれた名前の響きは、思った以上におれ自身に馴染んだ気がしたのだ。
まるで、欠けていたピースが埋まるみたいにさ。
「じゃあ、それでいいや」
何者かわからない自分に名前がついた。そうしただけで、足に地がつく安心感がある。鰭だけど。
とりあえず、周りに危険なものはない。そうして、おれのことを知っているらしき女がいる。それだけでとりあえずは生きられそうな気がしてきた。
女が身震いをした。体感的に夏みたいだが、夕方も近い時間に半身を海に浸けていれば、そりゃあ冷えるだろう。
おれの方はというと、特に問題はない。肌も鰭も、海に馴染んでいる。目覚める前からここにいたことを考えると、やっぱり海で生きる前提の生き物なのかもしれない。
それでも、この女はおれを見て地上から真っ先に駆けてきた。なんのためらいもなく海の中を走ってきた。
波打った髪が、潮風に揺られている。それも気にせずにおれをじっと見つめている瞳の色は、やっぱり赤色だった。気のせいじゃない。
「あんたの名前は?」
聞きたいことは色々あった。だが、とりあえず、呼び合う名前がなければ不便だろう。
目が覚めて真っ先に見たものは、夕日と変な女。水面が夕日の光を反射してきらきらと瞬く中で、女の目はまだ目に優しかった。同じ赤でも、仄暗い艶を纏っている。濁りや異物とはまた違う、透き通った深い赤。生まれたばかりのおれが見ても、それは唯一無二のものだと直感した。
座り込んで、見上げるおれに、女は白い手を伸ばす。
「私は、あやめ」
「アヤメ」
名前を呼ぶと、アヤメの目に薄い膜が張った。こっちは言い慣れていなくても、アヤメはそうではないらしい。まるで、そう呼ばれるのを待ちわびていたみたいに、嬉しそうな顔を見せる。
いくつか知らないが、頬を綻ばせる様は少女そのもので、可愛らしいとか思ってしまった。
「アヤメ。あんたに色々聞きたいことがある。……でもとりあえず、あんたは海から上がった方が良さそうだ」
水面が赤を通り越して、紫色に変わっていく。一日が終わろうとしている中で、長丁場になるであろう話を持ちかけるのは気が引ける。
「それとも、明日また来てくれる?」
だけど、アヤメはそんなことは些細な問題だとばかりに、笑顔を見せた。
「明日も、明後日もずっと来るよ。今日だって、まだ大丈夫。だから、教えてあげる。あなたが、どうしてここにいるのかを」
薄暗くなる中でも、アヤメの瞳は光を失わなかった。まるで洞窟の闇を柔く照らす宝石みたいに。おれは、彼女に向かって小さい手を伸ばす。細い指は、強く強くおれの手を握り締めた。
もうすぐ夜が来る。それでも心細いと感じないのは、紛れもなく柔らかい灯火が、おれを照らしているからだろう。
だが、誰かの温もりに飢えていたのは、どうやらおれだけではないらしい。
海水で冷えた手を握り締めて、彼女はその美しい瞳から涙をひとつ零した。
「ずっと待ってた」
目覚めて数十分。その言葉の重みを、理解したいと胸が疼く。
彼女がいなければ、今頃おれは自分の状況も理解できないまま、不安を抱えて夜の訪れに怯えていたことだろう。
その言葉を零した瞬間だけ、彼女が自分よりずっと幼い少女に見えた。
まだ何者でもない自分。なにができるのかわからない自分。それでも、おれを待ち続けてくれたこの少女のために、何かできればいいと思った。
おれは、そう思いながら、まだ無力な手で彼女の頭を撫でた。




