14.鬼の住む川辺
大切なものはいつも、目の前で失われる。
約束の浜辺は灰色に染まり、一緒に歩いた町は一瞬で泥に覆われた。
「一馬くん、信親さん、鈴ちゃん……」
突然襲った大規模な土砂崩れは、麓にある町の半分を飲み込んだ。それはつまり、山から麓に降りる手段すらもなくなったということだった。
いや、道はなくても、山を降りていけばそのうち麓にはたどり着けるかもしれない。でも、災害に見舞われた町に、どれだけ生きる術が残されているんだろう。
へたりこんだまま、土を掻きむしる。座り込んだ瞬間、身体の力が一気に抜ける。それでも、なんとかこの状況を切り抜けないと、ふたりとも死んでしまう。
「生きなきゃ」
せめて、海に潮を届けてあげたい。そのためには、やっぱり山を降りないと。それにまだ、彼らが死んだって決まったわけじゃない。
深く深呼吸をして、足に力を入れる。まだ背中に大切なものを抱えている。
「アヤメ……」
「海へ降りる」
「だが、道がもう」
「山の中を降りたらいい」
「お前、そんな身体で、保つかもわかんねえのに」
「やだっ」
胸いっぱいに溜め込んでいた不安や怒りが、止まらない雨で溢れ出した。
「やだ、やだやだっ、絶対に海へ行く!潮を助ける!」
「……アヤメ」
「潮まで失いたくない!死にたくない!嫌だ!嫌だ!嫌だ!!」
冷静でいないといけないのに、溢れ出した気持ちは止まらない。
ただ、あの川辺で穏やかに暮らしていければそれでよかった。たまに、海に行って、一馬くんたちと交流できたらいいと思っていた。あの前髪に隠れた瞳を、真っ直ぐ見られる日を待っていたのに。
そんなに大層なことを願ってたわけじゃない。それなのに、どうして、こんなにも奪われなきゃいけないの。やっとできたもうひとつの居場所さえも、どうして奪っていくの。どうして、私の愛して人たちはいなくなっちゃうの。
「なんで!?どうして!?」
「アヤメ、落ち着け」
「どうしてみんないなくなっちゃうの」
「アヤメ!」
潮のそれは悲鳴だった。我に返って振りかえった先で、鈍色の塊が飛んでくるのが見えた。
咄嗟に身体をねじる。だけど、鈍器の端は、私の頭に強い衝撃を与えた。そのまま、身体の感覚が保てなくなり、潮を落としてしまう。痛みに耐えかねて、気が付けば私も地面に崩れ落ちる。
「アヤメ!」
「うっ……」
頭がズキズキする。瞬きをするうちに流れてきた液体は、血だろうか。
上半身を起き上がらせている潮の後ろで、いくつかの足が見えた。
「これは……」
ひとりが目の前に広がる景色を前に絶句する。
「どうするんですか、村長!これじゃ、町に人魚を連れてったって、ろくなもんももらえませんよ!いや、そもそも、町に降りられない!俺たちは閉じ込められたんだ!」
もうひとりが発狂したように叫んだ。そいつの持っている鍬が赤く汚れていた。きっと私の血だ。
「ああああ、なんで、どうしてこんなことに。食べ物ももうないのにっ」
もうひとりは顔を覆って、打ちひしがれている。町と山の断絶は、生命線の断絶でもあった。
それはかろうじて保っていた村人たちの理性の均衡を、崩しつつあった。
「潮……」
殴られたところから、痛みがどんどん広がって、身体の感覚を奪っていく。断たれた生命線を見るばかりで、地面に落ちた潮は放っておかれていた。
早く逃げて欲しいのに、鰭を地面に擦りつけながら私の方へ這ってこようとしている。
「アヤメ!アヤメ、しっかりしろ!」
私の大好きな黒い目が、赤く染まった。目だけじゃなくて、景色全部が真っ赤になっていく。瞬きする度に、目に滲みる。私の目と同じ色。大切なものを汚していく忌々しい赤。
「はやく、逃げて」
意識がぼんやりしていく。叫んでいる潮に、たくさんの手が伸ばされる。
「はや、く」
大声を出したいのに出せない。彼を守りたい手は動かない。だから、何度も呟いた。
瞬きする度に、状況は悪化していく。
泣きそうな顔のまま取り押さえられた潮を最後に、私の意識は落ちた。
夜の海にいるような、浅い眠りから覚める。
ばくばくと激しく脈打つ心臓は、水面で空気を吸おうとずっと藻掻いていたみたい。
張り付いた瞼をなんとか開いてみるが、目の前は薄暗い。目が慣れてくると、天井に木目が見えた。
足も腕も重くて、寝返りを打つのも辛い。からからに乾いた喉は、唾液を飲み込む度に痛む。なんとか反対側に向くと、四角く区切られた光の線が見えた。扉だ。埃っぽい部屋には、農具が置いてある。多分、誰かの納屋だ。
起き上がると、ひどい頭痛がして呻いた。血は止まっていたけど、傷口自体はまだ湿っていた。意識を失ってからそんなに経っていないのかもしれない。というか、そうでないと困る。
潮が捕まってしまった。麓に行けなくなった以上、残された道はひとつしかない。
立ち上がるだけで息切れがする。それでも、どうにか扉の前まで行く。わかっていたけど、内側からは開かない。外から閂をされているはずだ。
私は、納屋にある農具の中から鍬をひとつ借りた。そして、思い切り扉に向かって振り被る。
がたんっ
振り下ろす前に、身体が固まる。私がこじ開けようとする前に、閂が外される音がした。
ぎぃ、と軋んだ音を立てて、ゆっくりと扉が開かれる。
入ってきたのは、よく井戸の前で話をしている女性だった。彼女もまた、骨に薄皮を一枚だけ纏ったような病的な痩せ方をしていた。窪んだ目の中で、ギラギラとした欲が滲んでいる。
そして、彼女は片腕に赤ん坊を、もう片方の手に鎌を持っていた。
私が起きていることが、完全に想定外だったんだろう。目を見開いた彼女は、何かを発する前に鎌を私に向かって振り下ろした。
「っ」
なんとか除けたものの、姿勢を崩して倒れ込む。頭が痛い。ひどい目眩がする。でも、でもっ。
「やめて!」
落とした鍬に手を伸ばしながら叫んだ。
「私を殺したって、どうにもならないでしょ!」
「ちがう!」
喉がすり切れそうな声が納屋に響いた。
「米も、草も、虫もいない。おっぱいもでない。だから、あんたを食べて、この子を……この子を守るの……っ」
彼女が動くたびに、赤ん坊の腕と頭がぶらぶらと揺れた。細い腕に抱かれたその子は、生きているようには見えなかった。
ぶるぶると身体を震わせて、彼女は目を醜く歪めた。
「町に、町に降りれば、食べ物が手に入るはずだったのに……っ。あんたがいたから、山が崩れたんだ!このっ、忌み子!あんたのせいだ!あんたのせいだ!」
「違う!私のせいじゃない!」
「黙れぇぇえ!!!」
怒りを深く深く煮詰めたような、ギラギラした炎。濃い血の色によく似た光が、黒い眼に混じる。理性も、常識も、信仰もかなぐり捨てて、欲のままに光る獣の瞳。
吐き捨てた唾が頬にかかって、私は恐怖した。
橙色の光が、一瞬脳裏をちらついて、止まらない刃先を前に自分の存在価値を思い出した。
欲に塗れた目と、命を刈ろうとしてくる一方的な暴力。
そうだった。最初から、私と兄はこの村にとって食料以外の価値なんてないんだった。
「ぐぅ、」
びちゃり。
生暖かい液体が、顔にかかる。不明瞭な視界で前を見ると、女の頭が赤く染まっていた。頭には、赤く染まった鍬と、それを握る自分の手。
「あ」
間違って蟻を踏み潰したような咄嗟の声が、自分の喉から漏れた。
頭に鈍器を刺したまま、女の身体は横に倒れる。投げ出された赤ん坊は、やっぱりぴくりとも動かない。そのことに、安心している自分がいた。
目に滴る血を拭うと、手が赤く汚れた。ぬるぬるしたそれは、服で擦ってもなかなか落ちなかった。
微かな喪失感と、圧倒的な安心感が胸を満たす。でも、それはすぐに、心配でかき消されてしまう。
「う、潮……」
動かない女を跨いで、外へ出る。
村は閑散としていた。虚ろな目で座り込む老人が数人いるだけ。それも納屋で起きた騒ぎに反応する様子もない。
動けない弱者が取り残される現場は、嫌でも隣の村の悲劇を思い起こさせた。なら、動ける人たちはどこへ行ったの?麓の町にも行けないこの状況で。
私は、すぐ近くで座り込む老人の肩を揺さぶる。
「ねえ、他のみんなはどこへ行ったの?」
「ぅ、あ……」
「ねえ!」
しばらく揺さぶると、意識が朦朧した様子で老人は言った。
「肉……わしにも、人魚の肉を」
「みんなはどこ!?」
「肉……水……っ」
それきり、黙り込んでしまう老人。
人魚の肉。それを聞いた瞬間、頭の中が熱くなる。感覚の鈍かった四肢に、電流が流れたような衝撃が襲い、私は走り出す。
心臓の音が、頭の痛みをかき消す。耳から飛び出そうな音の合間に、彼の名前を呼ぶ。
潮!
「潮!」
潮!
「潮!」
潮!
「潮ぉ!!」
返事をしてお願い!小さな声で「こっちだ」って無事な姿を見せて。
そんな大層なことを祈っていたつもりなんてない。兄の時も、潮の時も、ただ穏やかに生きていけるだけでよかったのに。どうして、またこうなるの。どうして、私は大切な人を見失ってしまうの。守りたいのに。そばにいたいのに。
いつもいつもいつもいつもいつも!!!!!
周りの人間が、環境が、奪っていく!なんで私ばっかり!嫌だ嫌だ嫌だどこにも行かないで誰にも奪われないで守らせて!ひとりにしないで。だって、まだ約束を守れてない。
そう、永遠を、
「……………………ぁ、ヤメ…………」
かつて人形を拾った、川辺のほとり。
そこには、鬼に囲まれた潮の姿があった。
その乳白色の身体は、絹糸のような髪は、赤く、赤く染まっていた。
宝石が、私を見上げる。絹糸から滴る血が、その黒を汚した。
まだ、永遠を見つけられていない。
「ああぁああああァあああああぁあああああああぁぁああああああ!!!!!!!!!!!!!」
そこから先の記憶は曖昧だ。
ただ、もう二度と大切なものを奪われたくなかった。
橙色に満たされた部屋。大勢の人の動きが、蝋燭を揺らめかせる。それだけの動きを生み出す人の群れが、ひとつの部屋に集められていた。
「いや、よかったよかった」
心底安心した様子で、部屋の真ん中にいた叔父が息をつく。
「あの宝石が売れたおかげで、なんとか食いつなげそうだ」
叔父を取り囲むように村人たちが座っていた。その内側には、麻袋に入った野菜や米、魚の干物なんかが置かれている。
周りの人たちが、うんうんと頷いた。
「ついでに厄介払いもできて」
「初めは奴らもあいつの目を嫌がっていたが、生け贄には丁度よかったじゃないか。あの神司曰く、宝石に匹敵する価値があると」
「本当ですかねえ、俺には血の色にしか見えねえ」
「まあおかげで私たちは食べ物を買えたし、雨も降った。最後くらい役に経ってもらわなきゃ、なんのために今まで養ってきたのかわからないよ」
格子窓の向こう、雨が降りしきる中で、それを聞いていた。人魚は、私を村の近くの川まで送り届けてくれた。胸に抱えた人形は、そのほとりで見つけた物だ。どうしてなくなったはずの祭具がここにあるのか。嫌な予感がして村に帰ってきた私を待っていたのは、残酷な真実だった。
一言一句、聞き漏らさないように耳を押しつける。
「本当に、嫌々でも養ってやってよかったなぁ」
穏やかな笑みを浮かべて、叔父は言う。
「盗人の不名誉も被ってくれて、生け贄になって雨も降らせてくれた。お陰で私たちは生きられるよ」
内側の生ぬるい風に混じって、奴らの口臭が漂ってくる気がした。肉を食い荒らした口の臭い。猛烈な吐き気がして、その場で胃の中のものを全て吐き出す。吐くものなんてなにも出てこない。だって、しばらく何も食べていないから。
奴らは旅人の宝石を盗んで、それを食料と交換した。そして、その罪を兄に擦り付けたのだ。そのせいで兄は死んだ。
奴らは、まるで金貨と品物を交換するような感覚で、兄を生け贄として差し出した!
「ふ、ぅ、うっ……!」
泣いたら、身体の中の水分がなくなる。雨が降り続いているから、水には困らないかもしれない。でも、これは兄が捧げられて降っている雨だ。そんなもの、そんなもの!
「今度食べるもんに困ったら、妹の方を売るか」
そんな言葉を聞きながら、自分たちの命の軽さを実感せずにはいられなかった。私たちはこの村にとって、物以外の何者でもない。生きるための手段であり、人間として認められない。
床に散らばる食料が、兄の残骸のように見えたのはその時だ。村人たちによって食い荒らされた兄は、人としてではなく、食料になって死んだ。
優しく、誠実な兄は、血に汚れて死んでいった。
その血の色は同じであるはずなのに、私たちは彼らにとっては豚や牛と同じなのだ。
ああ、なんて理不尽な死なんだろう。こんなに理不尽で横暴な死に方は、兄も浮かばれない。だから、幽霊になってでももう一度会いたいと願った。でも、同時に、兄は誰かを恨みながら死んだりしないだろうと諦めた。
兄はいつも優しい人だったから、石を投げてくる相手にさえも、時には同情と理解の眼差しを向けるような人だったから。
汚い言葉を吐き出して、理不尽な理由で石を投げる奴ら。欲に塗れた汚い鬼が歩き回る中で、兄だけが人間に見えた。兄だけが清くて正しい存在だった。
だから、あの何色にも侵されない黒い宝石が欲しかった。
あの高潔さ、強さがあれば、私も兄と同じような人間になれると思ったから。同時に、私には決して手に入れられない色だとわかっていたから尊かった。
だけど、兄も宝石も、どちらも失ってしまった。私は、強欲な鬼の手によって大切なものを奪われた。
殺してやる。
小さな身体を突き破るような殺意が沸き上がる。
あいつらいつか全員殺してやる。
そう繰り返すごとに、沸き上がった灰が身体の内側にこびりついて、汚れていって、なりたかったものからどんどん遠ざかっていく気がした。
優しくて、強くて、誠実な人になりたかった。あの何色にも侵されない宝石が似合う人になりたかった。
でも、それ以上に、もう誰にも大切なものを奪われたくなかった。
例え、その色が似合わなくても、その心を守りたかった。
どこに目を向けても、赤い。
寒気を打ち消す熱気と、鼻につく鉄の匂いで、身体の感覚がゆっくりと戻っていく。じわじわと感覚が戻るうちに、鈍い痛みがあちこちから襲ってきて、私は膝をついた。
右手には斧。左手には鍬。どっちも、元の色がわからないぐらい血が染みこんでいる。ついでに自分の身体を見渡すと、肩に包丁が刺さっていて、お腹から紐状の何かが飛び出していた。横に切れた隙間からは紐だけじゃなくて、どんどん血も溢れ出してくる。止まる様子はない。どう見ても致命傷だ。
だけど、どれだけ血を流しても立っているのは私だけだった。辺りは血の海で、同じ色に染まった村人と、大量の農具や刃物が転がっている。
全て、村の人たちが持っていたものだ。
潮を殺して、解体するために持ち寄った凶器だ。
彼らの身体からは、まだ暖かい湯気が立ち上っていたけど、それらが動くことはもうなかった。
血の海の中に、虹の花弁がいくつか転がっているのを見つけた。固くて小さなそれを拾いながら、這って前に進む。
もう痛いとも思わない。ただ、潮がどうなったのか。それだけが知りたかった。
散らばった花弁が増えるごとに苛立つ。いつも水面を叩いていた鱗だ。この綺麗な鱗を、奴らは魚を捌くように削ぎ落とした。水が揺れるごとに、光が差すごとに虹を映していた綺麗な鰭は、奴らに蹂躙された。
砂利の上に、筒状の物体が落ちている。同じように赤く染まったそれは、潮の腕だ。水をかき、優しい温もりを分け隔て無く与えたそれを、奴らは、容赦なく削ぎ落とした。
ようやく水辺に着く。
川の中にも、血が混じり込んでいた。その中には、潮の胴体から流れる血も含まれているみたいだった。乳白色の美しい腹に、奴らは長い包丁を差し込んでいた。
やっと潮の元に辿り着く。
目の前に広がる惨状を見て、涙が溢れた。絹糸のような髪も、柔らかい頬も、水で洗い流せないほど赤く汚されていた。
「潮、ごめん。ごめんね」
尾ひれはちぎられて、鰭は真っ二つに裂かれていた。そして水量が増えても浄化できないほどの血が、彼の中から溢れてくる。
薄く口を開けて浅い呼吸を繰り返す彼の頬に触れる。指に、固まった血の感触が伝わる。
「……アヤメ?」
瞼の隙間から黒い瞳が覗く。また声が聞けた事が嬉しかった。
潮は、私の全身にくまなく視線を巡らせて、くしゃりと顔を顰めた。そして、私と同じことを言った。
「アヤメ、ごめんな」
潮は悪くないと言いかけて止まる。
潮は泣いていた。喉をひくひくと震わせて、両目からぽろぽろと涙を流していた。
「傷だらけにしてごめんな」
綺麗な身体を傷だらけにしてごめんなさい。
「守ってやれなくてごめんな」
守ってあげられなくてごめんなさい。
潮が謝る度に、同じ反響音が、胸から溢れる。ぼろぼろの身体に縋り付いて、噎び泣く。
大切な、大切なあなた。何を犠牲にしても、どんな手を使っても、守ってあげたかった。
「アヤメ、俺は……っ……」
縋り付く私を見て、潮の嗚咽が急に激しくなった。
「しにたくない」
聞いたこともない狼狽した声だった。顔を上げると、彼はぽかんとしている。まるで、今自分が何を口走ったのか理解できないと言いたそうな顔で。
でも、涙と一緒に溢れた感情は、すぐに彼の表情も塗り替えていった。
残った片腕で私の頭を掻き抱いて、彼は叫んだ。
「まだ死にたくない。死にたくない、死にたくない、死にたくない!!!!!」
「潮」
「嫌だ、まだ俺は、お前と一緒にいたい」
顔をぐしゃぐしゃにして、死にたくないと何度も懇願する。
ずっとを否定していた潮が、私と歩くことに消極的だった潮が、まだ私と一緒にいたいと言ってくれている。
彼の胸の中で、私は震えた。死にたくないと潮が叫ぶ度に、私は死を目前にして散っていった欲がまた集まってくるのを感じていた。
やがて、その口からごぽりと血が溢れると、その声は止んだ。
「死にたく、ないんだ」
溢れ出る血に思いを邪魔されながら、もう一度潮は呟いた。
どんどん冷たくなる手を握りしめて、その抗いをじっと見つめていた。
町がなくなって、身体は死にかけで、潮さえも失いそうなこの状況で、小さな意志がもたげようとするのを感じていた。
潮は2、3度吐血した後、ぜいぜいと息を吐き出して、唇を閉じたり開けたりする動作を繰り返した。
そうしているうちに、太ももにあたる鰭が、先の方からゆっくりと固くなっていくのに気が付いた。鱗と尾ひれを失ったそこは、皮膚から殻へと変化しようとしていた。
ああ、ああ。目に見えてわかる終わりの予感に、私はただ潮の名前を呼ぶことしかできない。
鈍色の空を見上げて、息を整えた潮は、もう一度私の方を見た。
そして、海の底に似た黒い瞳でこう言った。
「ひとりにして、ごめんな」
反響音が止んだ。
全身を震わせて、海の底にいるような顔で、死の予感に怯える彼を前にして、私は首を横に振った。
「ううん、違うよ」
ひとりにしてごめんなんて、私は言わない。
「ひとりぼっちじゃないよ。言ったでしょ。私は、潮とずっと一緒にいるって」
ずっとを信じない彼に、私は言い続けた。それを反故にすることなんてできない。
「だから、ごめんね」
血で汚れた指を川ですすぎ、私は潮の瞼を撫でる。まだ血で汚れていない、高潔の黒。潮は目を見開くと、やがて安心した顔を見せた。
「……そっかぁ。そうだったな」
それが潮の最後の言葉だった。
微笑んだまま、潮は動かなくなった。ぽたぽたと温い涙が零れても何も言わない。身体は尾からどんどん固くなって、このまま蛹のようになってしまうのだろうか。
同じように、死が迫る身体を酷使して、固くなっていく身体に覆い被さる。
死んでもなお、黒い瞳の輝きは失われていなかった。世界と人を見つめ続けたその黒は、相変わらず美しいまま私に向けられている。それは、この身体にまだ魂が残っているからだろうか。彼が刻みつけた記憶は消えてしまうのに。
次にこの瞼が瞬いた時、潮はもういない。
でも、潮がいたことを、私は絶対忘れない。与えられた優しい手も、温かい言葉も、私は全て覚えている。
潮がいたことを覚えている。
だから、次に産まれたあなたが、ひとりぼっちにならないように。その長い道の傍らに、私を置いて欲しい。私は、あなたの全てを覚えているから。
そう決意して、まだ血で汚れていない柔い瞳に手を伸ばす。
あなたと共にいるために、今、私はあなたを手段にする。その罪悪感を抱えながら、それでも指を止めなかった。
潮がいなくなって悲しい。だけど、頬が緩むのを感じながら、こう思わずにはいられない。
生きることなんて苦痛なだけだった。だけど、潮といる時間だけは、私を強欲にさせた。生きて、そばにいたいと思わせてくれた。
鬼が蔓延る村の中で、私は兄のような美しい人間になりたかった。
だけど、私を見つめる黒く美しい宝石が欲しい。手に入らなくても、汚れる様を見たくはない。例えどんな手を使ってでも。
そう願った瞬間から、私は鬼だったのかもしれない。
そうして、私は永遠を手に入れた。




