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鬼の住む川辺  作者: 白河いさな
鬼の住む川辺
13/25

13.天秤の行方

 水かさの減った川沿いを走る。

 土砂で塞がったところは山沿いを越えて、畑へと向かう。どうか逃げ延びてと祈りながら。

 ここ二ヶ月、私は村を離れてずっと畑で暮らしていた。だけど、もし知らないうちに、見つかっていたんだとしたら?私が知らない間に、潮の存在が奴らにバレていたんだとしたら?

 私だけを引き離して、潮を手に入れようとするんじゃないだろうか。

 しばらく村を離れていた私は、村がどんな状況だったかなんて知りようがない。だけど、社のある村よりは、まだ理性的だった。少なくとも、人が人を喰らうような極限状態には至っていないように見えた。

 なら、まだ間に合うかな。それとも、潮は人魚だから、見境なく食べられてしまうかな。

 それとも、貨幣に代えて、食料を得ようとする?

 目の前が真っ暗になった。木に寄りかかって、息を必死で整える。落ち着いて、まだそう決まったわけじゃない。むしろ、運ぶ時間がある分、貨幣として売り払う選択肢の方が時間稼ぎができるはず。そもそも、麓の町に食料があるかどうかすら怪しいけど。

 だけど、畑と社の中間に差しかかった頃、岩陰の隙間から名前を呼ばれた。親しみのあるその声は、紛れもなく潮のものだった。


「潮!」


 再会して早々に怪我がないか確認する。幸い怪我という怪我はなさそうで、どっと身体の力が抜けた。


「よ、よかった……。本当に」

「お前も無事でよかった。あいつら、お前を追ったはずなのに、なんでか人魚がどうとか言い出してよ」

「潮。多分、あいつらは潮のことを知ってる。だから、私をあそこから遠ざけようとしたんだ。社のある村は……」


 迷った末に、言葉を濁した。自分の記憶さえも薄く霧がかかるように。


「村はもう、誰もいなかった。社も埋まってた」

「そうか」

「だから多分、本当の狙いは潮だよ。潮、早くこの山を出よう」

「出ようったって」

「もう村も畑も危険だよ。だったら、安全になるまで、海で身を隠してて」


 潮に背中を向けた。


「私が、潮を海まで送るから」


 それが一番安全な策だと思った。むしろ、早くにそうしておけばよかった。山を降りて、海でいてくれた方が、私も自由に動けたし、潮だって地上でいるよりずっと安全だったはずなのに。

 だけど、一緒にいたいという思いが、その選択肢を除外してしまっていたのだ。

 幸い、村から海までの道は森林沿いの川だ。誰にも見つからずに行ける可能性だってある。前回だってそうだった。


「水がないところは私が潮を背負ってく。だから早く!」

「だけど、お前だってもうふらふらなのに」

「このままここでいるよりずっとマシ!それに、麓ならここよりも食べるものがあるかもしれない。そうすれば、潮も、私も生き延びられる」


 私も、という部分を強調して言うと、潮は渋々納得した。


「畑にまだいると思うから、村を過ぎるまでは山を越えていこう」


 そう言って、潮を背負う。温もりが背中に伝わってほっとした。


「アヤメ、すまねえ」

「謝らないで。私は、潮と一緒に生き延びてやるんだから」


 いずれ私の村も、社の村と同じ末路を辿るだろう。それに巻き込まれるのは嫌だ。

 この狭い世界の中で、死んでしまうのは嫌だ。まだ、私は潮と世界を見ていないのに。

 ずっと一緒にいるって約束したばかりなのに。

 畑に近づけば、焦燥した男たちの声が聞こえた。大回りに獣道を下って、畑と村から遠ざかる。元々荒れ始めていたとはいえ、整地した畝を産み荒らされるのは心が痛んだ。

 何年も畑と村を往復していたので、ある程度の地理はわかっていた。


「アタメ、あの村から離れちまって本当にいいのか?」

「いいの。潮に海を見せて貰って心底思った。私は、あの村が嫌い」


 麓から帰ってきた私を、村の人たちは心底嫌そうに睨み付けた。まるで、そのまま帰ってこなければよかったのに、と言いたげな眼差しで。

 以前までは、どこか負い目があった。私が、この赤い目を持っているからと。

 でも、潮以外にも私の目を受け入れてくれる人がいた。堂々と歩けと見守ってくれる人ができた。

 私が私を否定することは、潮が自分は人魚だからと身を引いたのと同じくらい、周りにも自分にも失礼なことだと理解した。

 だから、私が私でいることを拒絶してくるような狭い世界はいらない。

 そして、もし彼らが手を差し伸べてきたとしても、私はその手を振り払っていただろう。


「それに、あいつらは私から大切なものを奪った」

「……お前の兄貴か」

「だから、私はあの人たちを絶対に許さない」


 せめて、兄の私物が何か残っていればよかった。村を離れると決めて、改めてそう思う。兄が埋まった社は土砂で埋まり、村も壊滅していくことを考えれば、兄がいた痕跡はなにもない。私が覚えていることしかでしか証明できない。

 もしも私が死んでしまったら、兄がいた事実すらも消え去ってしまう。兄がくれた優しさも、生け贄にされた怒りも、全てなかったことになる。誰も、覚えてなんていてくれないから。

 ぬかるんだ土に足をぐっと押しつけて、前へと進む。雨で湿った手は、何度も鰭を落としそうになった。首に回された腕が、申し訳なさそうに上半身にかけられているのがもどかしかった。


「雨で滑るかもしれない。しっかり捕まってて」


 そう言うと、潮はしぶしぶ腕の力を強める。

 雨脚はどんどん強まるばかりで、立ち上った霧も視界を悪くする。まだ昼前だと思うのに、辺りは夕方や明け方みたい。

 そんな中を慎重に、でもできるだけ速く進んでいく。村も大回りして、最終的に麓に続く川へ合流できればいいと考えていた。


「アヤメ。もし奴らが追ってきたら、俺のことなんて置いて逃げろよ」


 この後の及んでまだそんなことを言う潮に苛立つ。


「嫌。絶対、潮と生き延びる。言ったでしょ。潮が信じなくても、私は潮とずっと一緒にいるって」


 鰭を後ろ手で抱きしめて、私は自分自身を鼓舞した。


「私は、もう何も失いたくない」


 厄災が、人が、私の大切なものを奪っていこうとしている。それに追いつかれないように、山の中を進む。

 もうすでに、あの川辺での穏やかな日は失われてしまった。

 でも、潮がいればやり直せる。私と彼が生きてさえいれば。


「お願い」


 逃げ延びることに消極的な潮。自分を天秤の下の方に置いている彼に、私は懇願した。


「お願いだから、私をひとりにしないで」


 後ろで声を呑む音が聞こえた。

 やがて、肩の伸ばされていた手が頭に優しく触れた。


「ああ、そうだったなぁ」


 それは同意しているというより、自分が納得している声だった。

 わしわしと大きな手で頭を撫でながら、潮は感慨深く呟く。


「成長しても、お前はあの川辺で泣いてた頃となんら変わっちゃいねえんだな」


 そうなのかな。それは、事実というより、潮と、そして私自身の希望的な見方に見える。一馬くんに説明していた時と言い、彼は私を美化しすぎだ。もちろん、私は潮が大好きなままの私でいたい。

 でも、同時に、自分の中に見境のない欲望が渦巻いていることも自覚していた。

 例えば、私は人に斧を振るうことに、なんのためらいもなかった。自分でもびっくりするくらいに。

 大切なものを失った。その過去は、自分で思っているより深く深く、私の行動を強制してくる。

 無力で、泣くことしかできなかった私のままじゃない。

 でも、それを口にするほど野暮じゃない。言ったでしょう。私は、潮の前で、彼の好きな私でいたいのだ。

 代わりに拗ねた声で抗議した。


「潮だって成長したって言ってくれてたじゃん」

「だが、お前は相変わらず寂しがり屋だ。それに十代なんて俺にとっちゃ赤子だ、赤子」


 久しぶりに尾ひれが水面を叩くような快活な笑いを聞いた。肩を震わせてけらけらと笑った後、潮は声を潜めた。


「お前は信じないかもしれないけどよ、」


 頭を撫でていた手が、もう一度強く肩を抱き込む。


「初めてお前を見た時、まるで目覚めたばっかの俺みてぇだなって思ったんだよ。だから、放っておけなかった」


 目覚めたばかりの彼は、その掠れた声で誰の名前を呼んだんだろう。きっと、兄を求めていた私と違って、誰の名前も呼べなかったはずだ。

 目覚めたばかりの彼の周りには、彼の痕跡を示すようなものは何もなかっただろうから。

 名前を呼んで応えてくれる。それが、どれだけ幸せなことか。私に、それが幸せなことだと教えてくれたのは、他ならない潮だった。


「そのおかげで、私は生きられた。だから、今度は私が潮を守るよ」


 相変わらず彼は苦笑いを浮かべるだけだ。天秤は一向に傾いた気がしない。でも、前に伸びた腕は、さっきよりもずっと強く私を抱きしめていた。

 まるで山びこだ。同じ気持ちを抱いているはずなのに、一向に通じ合えない。

 潮が私を守ってくれたように、私は潮を守りたい。

 潮が私を孤独から救ってくれたように、私は潮を孤独から救いたい。

 まるで見返りを求めない潮に、もどかしさを感じる。これはもう彼が信じるまで叫び続けるしかないのかもしれない。


「私がいるよ。私が守るよ!」


 少なくとも、あの時と違って、大切なものはまだそばにある。

 だけど、この山はいつだって私を狭い世界に囲い込もうとする。踏み出した足を、掬い取ろうとしてくる。

 獣道を下り、川まであと一歩というところで、ずずずと地面が揺れた。

 そして、背中に木を生やした動物が駆け下りていくように、目の前で山の斜面が崩れ落ちていく。

 先日見上げた灰色のみみずのように、巨大な土の塊が、麓の町へと滑り落ちていく。川を遮るように落ちた地面は、麓へ続く道どころか、町すらも覆い隠してしまったのだ。

 間一髪、その流れから逃れたものの、見知った町の無残な結末を目の当たりにして、私はへたり込む。

 見晴らしのよくなった斜面の向こうに、海が見えた。だけど、凪いだ海は、潮の匂いも波の音も届けてはくれなかった。


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