12.地獄
※災害・カニバリズム描写があります。
一面の銀世界というには、輝きがなさすぎる。ただ、濁った白い残骸が、雪みたいに降り注いでいる。山も、屋根も、畑も平等に。もちろん、私たちの過ごした川にも。
それは、遠い山が噴き荒らした怒りの残骸だった。
遠いと言っても、ここから火柱が見えたくらいだ。それとも、それぐらい噴火の規模が大きかったってことなのかもしれない。
村に帰ってきて数日後の夜、大きな音がしていきなり床が跳ねた。耳を劈くような破裂音がして、直感的に死んだと思った。受け身を取る前に、赤い炎に巻き込まれて、焼け死んでしまうのだと。
だけど、そんなことはなく、ちゃんと次の瞬間も生きていた。だけど、空を振るわせる轟音は続いていた。どおおおんって、巨人が地面に拳を叩き付けるような音と震動が、何回も続いた。
扉が外れて、村の外からは悲鳴が聞こえた。私は這うように外に出て、空を見上げた。
そうして、いくつも連なる稜線の先に、赤い影を持つ巨大な雲を見た。雷と炎を纏いながら、空に昇っていく太い柱。空の果てに行き着いたそれは、傘のように広がる。まるで、大地から禍々しい大木が生えてきたようだった。
「こ、この世の終わりじゃ」
同じように家屋からまろびでてきた老人がそう言った。
それを聞きながら、私は潮の祈りは届かなかったことを悟った。音は、震動は、なによりも目に焼き付く光景は、紛れもなく私の常識を越えた規模の災害だ。きっとそれは、他の人たちにとっても。潮にとっても。
これだけの大きさの厄災が、これから私たちの生活にどう影響を及ぼしていくかなんて想像もつかない。
暗闇の中で、ぱらぱらと落ちてくる何か。これも、遠く離れたあの山から降ってきたものなんだろう。
怪我する前に、一旦家に戻ろうと山に背を向ける。
だけど、そうして振りかえった先には、また違う光があった。あの噴火が大地の怒りとするなら、そこにあるのは、人の怒りだった。
怒り、不安、憎悪、そう言った禍々しい光を含んだ視線が、一斉に私に向けられていたのだ。まるで、この事態は私がいるから起こったのだと言いたげな顔で。
常識を越えた規模の災害は、一瞬にして漠然とした不安と恐怖を、村人たちに植え付けた。そして、その矛先が、自分の向かっているのだと気づいた。
私は背筋が凍った。
穏やかな日は儚い夢のように過ぎ去って、この先にあるのは、生きるか死ぬかの奪い合いになるのだと予感せざるを得なかった。
そしてその予感は当たる。
まず、降り積もる灰と、日光を遮る雲のせいで、作物が駄目になった。しかも、それはここいら近辺だけじゃなくて、国のほとんどがそういった状況に陥っているらしかった。
雪のようだと思った灰だけど、実際太陽の恩恵を雲が遮ったせいで、日中は初冬の寒さだった。
そうなると、食べるものがなくなってくる。夏に植えた作物も、秋に実るはずだった米もなくなり、村全体で貯蓄していた食料も夏の終わりには食い尽くしていた。
襲い来る冬と飢えの予感は、村人たちを殺気立たせた。いつその矛先が襲い来るか気が気じゃない私は、一ヶ月を過ぎた頃から、川に入り浸るようになっていた。
その川も、ほとんど魚が取れなくなってしまっていたけど。麓から登る稚魚はここに来るまでに食い尽くされるし、噴火からこっち大なり小なり土砂崩れが頻発して水が濁っているせいかもしれない。
実際に、ここから上の土砂が崩れたせいで、川の水量は極端に減っていた。泳げるような水位も保てず、全身を水に浸けるには寝転がるしかない。それでも、上半身は外の空気にさらされる。潮は、鱗が乾いてしょうがないと愚痴を言っていた。
そんな状況だから、麓にも降りられない。いざという時、泳げなければ逃げられないから。そんな環境に、私も潮をひとりで置いていきたくないから。
「一馬くんたちは大丈夫かな」
「無事だといいんだがな。地震さえ逃れれば、あとはどうにかこうにか飢えを凌ぐだけだ。あの規模の噴火だ。火山の周りのあった町の被害に比べりゃ、まだこっちはマシな方さ」
昇りつめた灰色の雲が、やがて大きなみみずのように下へ這っていくのを遠目に見た。あの雲の行き先にあった町はどうなってしまったのか。考えるだけで気が重くなる。
「結局、栗もお土産も持って行けなかったな」
「次会うときに渡せばいい」
もしかすると次はないかもしれない。そんな予感を払拭する祈りだったのかもしれない。そして、私も、それに頷いた。
そしてそのためには、私も潮も生きていなければならなかった。
「潮、はい。魚で悪いけど……」
差し出した鰺の干物を、潮は拒否した。
「お前が食べろ。それ、もう数がねえだろ」
「でも、潮だって痩せてきてるよ」
倉庫にある食料でなんとか食いつないでいるものの、私も潮も体重が随分落ちた。ふたりとも、頬の肉をそげ落としたような顔になってしまった。
一日一食にしても、冬を乗り越えるには全然足りない。だけど、日光が遮られたせいで、秋の野菜はろくに実りもしなかった。貯蓄していた食べ物を、一馬くんにもらった干物を、ちびちびと舐めるように食べて、飢えを耐え凌いだ。生き残った雑草も、飛んできた虫も食べた。
だけど、もうすぐ冬がくる。冬になれば、寒さが身を削り、虫たちを地中へ遠ざけてしまう。数か月続くその飢えを、どう耐えていけばいいのだろう。
薪はたくさんある。だけど、熱だけでは生き延びられない。
「人魚は食べないと死ぬの?」
「そりゃそうだ。人間よりかは耐えられるが、緩やかにでも肉体が弱ってくりゃ、いつかは死ぬ」
畑もない。魚も釣れない。第一、それをする体力がないと来れば、あとはもう川辺に据わって、潮と話すだけだ。大きな石に私も背中を預けて、彼の言葉に耳を傾けた。
「そして、細胞が再生すりゃまた生き返る。日の光やら海水に浸ければ浸けるほど、再生は早い。飢えなんて外傷がないから、すぐだろうな。記憶はねえが」
「どうして身体は治るのに、記憶だけ受け継げないんだろう」
「死んだ時の衝撃で吹っ飛んじまうんじゃねえの」
「ざっくりした説明だね」
なんでそこだけ曖昧なんだろう。と思ったら、本人は至極真面目だった。
「俺たちの脳は人と近いだろ。そして、人は自分が死んだと思ったら、死ぬ生き物なんだと。例え外傷がなくてもな。だから俺たちも、死んだって認識すりゃ、一旦そこでそいつは終わっちまうんじゃねえかって思うんだ」
「でも、脳みそは再生するんでしょ?」
「死んだ時に襲った衝撃までは、なかったことにできねえんだろ。再生するのはあくまで肉体だけ。知らねえけど」
例えば、一度死んだ人間の身体を医者が完全に治したとして。その人は生き返るだろうか。いや、きっと生き返らない。
潮が言っているのは、きっとそういう話だ。肉体は再生して、人魚は自我も取り返せるけど、死んだと認識した前の意識までは取り返せない。
永遠と謳われる人魚も終わりはある。だからこそ、私は今の状況が怖かった。
飢えて飢えて、理性も見境もなくなった人間が潮を見つけてしまったらどうしようと。
ところで、人魚の不死は不完全なものだとしたら、それを食べた人間は不老不死になるっていう逸話はどこまでが真実なんだろう。
訊きたい気持ちはあった。でも、どうしてもその質問を投げかけられなかった。「あなたを食べたらどうなるの?」なんて、私だったら言われたくない。ましてや、冗談にも聞こえないこんな状況で。
「さあ、こんな辛気くさい話は終わりだ。もうちょっと腹の足しになるような話をしようぜ」
「食べ物の話はお腹が空くから嫌だな」
「それなら、俺の冒険譚でも聞かせてやろう」
日々、身体が重くなって、頭もぼんやりとしていく中で、潮の存在だけがやはり私の救いだった。そうして、動けない森の中で、迫り来る寒さの前で、あの約束をどう果たそうかずっと考えていた。
そんなある日のことだ。
寒さが床下から浸みる季節になった頃、倉庫で目を覚ました私は外が随分と騒がしいことに気が付いた。人がいる。私と潮以外の人間が。
そう理解した瞬間、体中の血の気が引いた。怒鳴り声の中に、しばらく聞いていなかった叔父のものが混じっているのに気が付いて、いよいよこれはまずいと思った。
でも、ずっとここにいるわけにはいかない。外には、潮がいる。あの水位じゃ逃げられない。あそこには身を隠せるような岩や蔦はあるけど、もしも狙いが潮なら、川の周辺を探し回るだろう。
倉庫を飛び出した先には、思った通り、叔父と村の人たちがいた。
ああ、ついに矛先がやってきたのだ。
「やっと見つけたぞ、あやめ!」
「叔父さん、一体なんの用ですか……」
今までろくに顔も会わせずに、放っておいたくせに、どうして今、この時期に私を探しに来たのか。わざわざこんな山奥まで。
横目で川の方を見るけど、目で見える範囲に潮の姿はなかった。それにほっと胸を撫で下ろした途端、両腕を村人たちに抱えられた。
「ちょ、何!?離して!!」
「村をあんな状態に陥れておいて、自分は暢気に食料を独り占めか。良いご身分だな」
村で貯蓄しておいた食料を私にくれもしなかったくせに、今更なにを言っているんだろう。
村人が、倉庫に置いておいた干物を取り出したきた。
「それに触らないで!」
「お前の兄といい、強欲な兄妹だ。7年前の盗みといい、私たちに迷惑をかけてばかりで救いようのない愚か者め」
「お兄ちゃんは、盗んでなんかない!」
「じゃあ、それはなんだ」
同じように倉庫から取り出されたのは、目の位置が窪んだ木彫りの人形。7年前の祭具だった。といっても、両目にはめこまれていたはずの宝石はなくなっていたけれど。
「お前の兄がいやしくもあの宝石を盗んだから、私たちは恥をかいたんだ」
「どの、口が……っ……」
頭の奥がじりじりと燃えて、身体が震えた。
頬のこけた叔父は(とは言っても、もう何年も顔を見ていなかったからろくに普段の顔なんて覚えていなかったけど)、ぎらぎらとした目で私を睨み付け、この山の奥を指す。村と畑の奥には、兄が生け贄になったもうひとつの村があった。
「だが、お前にも償いの機会はやってきたのだ。せめてでも村のことを思うなら、この地獄を収めるためにその身を捧げろ」
「生け贄ぐらいで、この災害が収まるわけじゃないでしょ!?」
「黙れ!いいから早くこいつを連れて行け!」
ぐっと身体を引っ張る力が強くなった。どうやら、叔父たちは極限状態を前に、神に縋ることを選んだらしい。
でも私だって、大人しく死ぬわけにはいかない。私は、無理矢理腕を振り払って、逃げ出した。筋肉が落ちても、まだそこいらの男たちに負けるようなやわにはなっていないようだった。
「村の方へ追い込め!」
その声に反応するように、川の方でぱしゃりと水飛沫が上がる。
駄目だよ。狙いは私なんだから、そこから動かないで。
そう叫びたいのに、できなかった。このまま私が森の中を駆けるだけなら、潮は隠れている方が安全なのに。
もどかしい気持ちを抱えたまま、森の中を走った。
7年前のあの日と同じように。
身体はまるで鉛のようで、一歩進めるごとに目眩がした。それでも、後ろから追ってくる声から逃れることに必死だった。
ここで死ぬわけにはいかない。
でも、その本能的な願いを持つのは、私だけじゃないのだと私は思い知った。
「っわ」
獣道を走っている途中、ふらついた足はぬかるんだ地面に耐えられなかった。長い坂を転がり落ちた先は、皮肉にも祭壇のある村だ。
村があるはずだった。
「え……?」
転がり落ちた先で、私は目を疑った。
あの男は、何を根拠に私を生け贄にしようと考えていたんだろう。
村の中央に位置する小さな社。神を祀るその場所は、土砂の中に埋まっていた。頻発した土砂崩れのせいだ。つい先日も、獣が這うような大きな音を発しながら、どこかの地面が崩れていった。一体いつのものかわからないが、祀られるはずの社はとっくに放棄されていたのだ。
最初、私は転がり落ちた先が本当に隣の村か疑った。
でも、社以外の家屋は7年前に来た時の同じものだ。そしてなによりも、人がいた。
正確に言うと、人だったものと、それにしゃぶりつく人らしき者がいた。どちらも、骨の上に薄皮一枚を羽織っているような有様だった。
倒れて動かない人、そしてそれに縋り付く人、どちらも白髪の老人に見えた。
信じられなかったのは、一方の老人が、歯茎しかない口で、もう死んでいる老人の足を囓ろうとしていたからだった。
「ひ……」
切れるような息が喉を走り抜ける。叫びそうになった口を必死に抑えた。がりがり、がりがり、歯茎を真っ赤に染めて、足にしゃぶりつく老人。強ばった頭を動かして、視線を逸らすと、もうすでに喰い荒らされた残骸、蠅の集る死体が、数は多くないがあちこちに転がっていた。肉がついているものは、全て白髪が混じっていた。ここにいたのは、いるものは、山を越えられない、年老いた人たちばかりだった。
信仰深いはずの住民たちは、神も身内も捨てて、自分が生きるために山を降りたんだ。
待って。動ける住民たちが、食料を求める状況で、近隣の村に寄らなかったわけがない。それなら、あの男だって、この有様をわかっていたはず。
それなら、なおさら、どうして私を生け贄にしようなんて言い出したの。
人気のない村は静かだ。人が人の肉を食べる音しか聞こえないくらいに。
畑からこの村まではそう遠くない。だから、私はこの村から遠ざかろうとした。それなら、追っ手の声が聞こえ初めてもおかしくはないのに。
「もしかして……」
やけにあっさりと離れた手。深く窪み、淀んだ瞳の狙いが、本当は私じゃなかったとしたら?
私は、畑に向かって走り出した。
その足を阻むように、雨が降り出した。




