11.異変
「まるで黒い真珠みたいだな」
亡くなる前日、兄はしみじみと呟いた。旅の人たちが厩舎へ行くところ見送った後、私たちは家に帰るところだった。
「しんじゅってなに?」
「海で産まれる宝石のことだよ。父さんが昔見せてくれたことがあるんだ」
伸ばされてくる兄の手に、私は額を擦りつけた。
「一万個の貝殻を探しても、見つけられるかわからない貴重な宝石だよ。牛の乳に虹を混ぜて溶かしたような、綺麗な白い色をしているんだ」
牛の乳に虹を溶かしたような白い宝石。土と草だらけの自分には到底触れないような、真っ白で艶々の石を頭に描いた。
でも、見たこともない石よりも、今目の前で見た美しいものの方が、私の関心を引いた。
「でも、私は真っ黒の方が好きだなあ。白だと汚れちゃいそう」
黒は、私たちの生活にありふれていた。身体についた垢、ぱさついた村の人たちの毛髪。そして、私たちを蔑む濁った眼。
でも、人形に埋まっていた黒い瞳は、何色にも汚されない強い意志を秘めたような、美しさを感じさせた。
誰にも蔑まれない、疎まれない、自分は自分だと主張するような、強い存在感。その圧倒的な美しさに焦がれた。
温かい兄の温もりに縋りながら、私は言った。
「ねえ、お兄ちゃん。あの黒い真珠を食べれば、私の瞳も真っ黒になるかな」
兄は、私と同じ赤い目を細めて、とても困った顔をしていた。
海へ降りてきてから2週間ほど経った。潮の傷も大分癒えて、一旦山に帰ろうかという話になった。
蝉が本格的に鳴き始め、太陽の熱さが肌を焼く。放置している農作物が心配という気持ちもあった。雨と熱さに促された畑は、きっと雑草と蔓だらけになっているはずだ。
包帯を外した背中には、斜めに走る一本の傷ができた。顔を顰める私に、潮はそのうち消えると苦笑した。
「お前らと同じように、俺たちの細胞も毎日生まれ変わってんだよ。むしろ人間より早いくらいだ。死んでも再生できんのは、そのおかげでもあんのさ。あと数十年したら、こんな傷綺麗さっぱりなくなる」
「つまりあと数十年は残るんだね……」
「まあ誰かに見せるような背中でもねえしいいだろ」
「私は毎日見てるよ」
「あやめさん、その発言は色々と危ないです」
鰺の干物を持ってきた一馬くんに、肩を叩かれた。
彼は、魚の干物や切り干し大根の入った麻袋を私に渡した。
「乾物ばかりで申し訳ないんですが」
「ううん。むしろお世話になったのに、またもらっちゃって申し訳ないくらいだよ」
「あやめさんのおかげで、冬を越せるくらいの薪ができたので」
早朝の浜辺には、彼以外にも信親さんと鈴ちゃんが見送りに来てくれていた。閉じそうな目を擦りながら、鈴ちゃんは対になった貝殻をくれた。ひとつは私に、もうひとつは潮に。
「綺麗な貝殻だね」
光沢のある白い貝殻だ。扇状のそれは、魚の尾ひれにも見える。首飾りにしたらとても綺麗だろう。
「きっとしんじゅをつくった貝殻だよ」
頬を紅潮させて、鈴ちゃんは貝殻を持った私の手のひらを包みこんだ。
「きれいなあやめちゃんに似合うと思う。うしおくんとおそろいなの」
「ありがとう。今度来た時は、私も鈴ちゃんに似合うお土産を持ってくるね」
頭を撫でてあげると、鈴ちゃんは嬉しそうな顔で頷く。さらさらとした髪が指に絡んで心地よかった。
「これから栗の季節だろう?山の幸でも持ってきてくれたら、伝手を紹介してあげるよ。もちろん、それ以外でもいつでも手伝い大歓迎だ」
「なにからなにまでありがとうございます」
町へ降りてきた時は、いつでも手伝いをさせてくれると言う。それだけじゃなくて、山の特産品を持ってきてくれたら、売買経路を紹介してくれるという信親さんの厚意に甘えさせてもらうことにした。
なによりも。他でもない私自身が、またこの家族に会いたいと思っていた。
「おっさん、ちょっといいか?」
海から私たちを見ていた潮は、話の区切りがついたタイミングを見計らって信親さんを呼び出した。妙に神妙な顔をしているのが気になったけど、隣に一馬くんがやってきたので、すぐにそちらを向いてしまった。
「色々お世話になりました。本当にありがとう」
「いえ、ぼくもあやめさんに会えてよかったです」
いつも通りの淡泊な顔で彼は続ける。
「力持ちでか弱い、寂しがり屋の傾国の美女とはどんなものかと思っていたもので」
咳き込んだ。
「ちょっと待って、それ潮が言ってたの?」
「要約するとそうですね。にしても多少の脚色はあるだろうなと思ってたので、実際に会えて確かめられたのでよかったです」
「想像と違った?」
「いえ、概ね合っていました」
また反応に困る答えを淡々と言ってくる、この子は。色々危ない言動をしているのは、一馬くんも同じでしょうに。
どういう返事をすればいいか迷っていると、彼ははっと口を薄く開いた。
「でも、か弱くはなかったですね」
「そこわざわざ私の前で訂正するんだ……」
そりゃ私、力は強いし、背は高いし、滅多に風邪は引かないし、か弱い少女からはほど遠いけど。
鈴ちゃんがお兄ちゃんの脛を蹴っていた。小さいけど、乙女心はしっかりわかっているようだ。
でも、一馬くんは不思議そうな顔をして、私と鈴ちゃんを見比べた。
「だって、あやめさんは強いじゃないですか」
一片の迷いもなくそう言い切った彼は、脛を蹴ってきた妹の頬を軽く抓った。
いつも思うけど、一馬くんの瞳と声には、一切の嘘がない。
「実際に会ったあなたは、真っ直ぐで強い女性だとぼくは思いましたよ」
「そ、そうなんだ」
一馬くんが背を向けていて本当によかった。顔が熱い。嘘じゃないとわかるからこそ、こういう時どういう顔をすればいいかわからない。
ぐにぐにと頬をされるがままにされている鈴ちゃんが、視線を送ってきた。うちのお兄ちゃんがごめんなさいと言っている気がする。
「だから、あやめさんはもっと堂々と歩くべきだと思います。今度来る時は、管傘なんていらないですよ」
「ここに来るまでに暑気にやられちゃうって」
「……それもそうですね。なら、海に入る時だけ外してください」
振り返った一馬くんは、春の日影のような柔い笑顔を浮かべた。
「ぼくも、次に会う時までに髪を切っておきます」
髪の隙間から覗く目尻が、甘く下がっているのがわかった。その瞳を、真っ直ぐ正面から見られる日が楽しみだ。
未来が楽しみだと思えるようになったのは、間違いなくここに来たお陰だ。
管傘を引っかけるように被った私は、潮と一緒に彼らに別れを告げた。
山に帰る途中、潮は度々泳ぎを止めて、川を覗いていた。最初は、背中の傷が痛むのかと思っていたけど、どうやらそうじゃないみたい。というのも、彼が止まる度に銀色の波が山から下ってくるのだ。太陽の光を反射して動くそれ、いや、それらは小さな魚の集合体だった。時には、鮎やヤマメが群れをなして通り過ぎていく様も見かけた。
「やっぱり……」
潮は、信親さんを呼び出した時と同じ顔を浮かべている。中腹で数十匹の鮎の見送った後、私は思い切って彼に聞いた。
「帰る時、信親さんとなんの話をしてたの」
一瞬、眉を潜めた潮は、「アヤメにも話しておいた方がいいか」と前置きをして話し出した。
「具体的にどうって話でもねえんだが……。最近、魚や動物たちがやけにざわついてんだ。だから、色々気をつけろよっておっさんに言ってきた」
「それって、今みたいな光景のこと?」
「明らかにいつもと違う行動をしてんだろ。まるで何かから逃げてるみてえだ」
魚たちは、決まって山頂から逃げるように海へと下っていった。
その話をする潮の声がやけに大きく聞こえて、私も違和感に気づく。村から海へ降りた時よりも、ずっと山の中が静かなのだ。海であれだけ蝉の声が聞こえていたなら、今頃、周りは蝉の大合唱で、私たちは大声で話し合っていてもおかしくないはずなのに。
村を越えて、その向こうにある山頂を眺める。木に囲まれた視界では、峰は見えない。だけど、遠くで灰色の煙が細くたなびいているのが見えた。
空に向かって伸びる灰色の柱。糸と言っても差し支えないぐらい細いけど、はっきりと灰色だとわかる濃い存在感。ゆらゆらと動くそれは、幼児が描いた一本の線みたいにしきりに歪む。
距離にしてみれば、いくつか山を超えなければたどり着けないような場所だ。全然煙の匂いはしない。
「あっちには、火山があったな」
低い声だった。懸念が肺を締め付けているような声だった。
「あれは噴火してるの?」
つられて不安の滲む声になる。
「小さいけどな。でも、最近やたらと地震が多い。動物たちも妙な動きをしてやがる」
彼の黒い瞳の中に、濁りが見えた。それは私が斧を人に振りかざした時と似た色をしていた。
「このまま大人しくしていてくれりゃあいいんだけどな」
その祈りは、虚しくも叶わなかった。
それから数日後、大きな地震を伴って、その山は怒り狂ったように大地に灰と炎を撒き散らした。




