10.告白
正直言って、いつかいなくなる可能性を考えなかったわけじゃない。だって相手は旅好きの人魚だ。四六時中子どもの相手をしているよりも、さっさと旅に出て自由気ままにしていた方が楽しいんじゃないかと何度も考えた。でも、潮は海にでることはあっても、必ずあの川へ帰ってきてくれた。
だけど、潮は言った。
「ずっと、なんてない」
「俺はアヤメを置いていくかもしれない」
お酒で吐き出していた気持ちを思い返すと、少なからず潮も私と一緒にいたいと思ってくれているはず。
それなのに、それを言うってことは、潮の意志というよりも、他からの要因でそうならざるを得ないということなのかな。
水槽の前で膝を抱えて、考え込む。ここ数日は色んなことがあって、寝付きが悪い。
桶で出来た水槽の中では、ぐったりした潮が横たわっている。風邪を引いていたせいかもしれないけど、元々お酒にも弱いのかな。それとも、たまたま飲み過ぎちゃったとか。
窓から差し込んだ月の光が、水面を照らす。光を纏った鱗が、よく晴れた日に見上げる天の川のように煌めいていた。まるで色とりどりの宝石がたくさん集まっているようで息を呑む。
足なんてもったいないよ。こんなに綺麗な鰭を持ってるのに。
本人には言えないけど、内心そう思わずにはいられなかった。
日に焼けていない象牙の肌。蚕の糸を染めたようなさらさらとした髪。そうして、何色にも染まらない黒真珠に似た瞳。
彼を構成するひとつひとつが美しくて、何時間でも見ていられる。
だからこそ、背中巻かれた包帯が目に入る度に、怒りを抱かずにはいられない。痛々しく滲む血を睨みながら、私は呟いた。
「潮に赤は似合わないよ」
例えば、新雪に落ちた足跡のような、下ろしたての服についた泥のような異物感。ありのままの美しさを、他の人の手で汚されたような嫌悪感。
悔しくて唇を噛む。無力な自分が情けなくて、心の中で潮に謝った。
その声が届いたわけでもないのに、俯く私の前でずっと横たわっていた身体が動く。
「潮、起きたの?」
焦点の合わない目が私を見つめる。起き抜けで状況を把握できていないのか、桶の底を見ながらぼそりと呟く。
「ここは水槽か?」
「ここは信親さんの家だよ」
噛み合っているようで、噛み合っていない気がした。やがて意識を覆っていた膜が弾けたのか、はっと顔を上げて家の中を見渡す。
「ああ、おっさん家。あれ、俺、酒飲んで、どうなったんだっけ?」
「酔い潰れて寝ちゃいました。ちなみに直前の会話は覚えてる?」
「服を駄目にしてすまんかった」
良かった。ちゃんと、意識を失う前の会話は覚えているみたいだ。
「これに懲りたら、お酒は控えめにね。せめて、健康な時だけにして」
「そうする。身体が温まるかと思って、一杯だけにしとこうと思ったんだけどなぁ。あー、頭痛ぇ」
底に肘をついて、やれやれとため息をつく。時々、頭痛がするのか、眉間に深い溝を作っている。
額に触ると、まだ少し熱かった。それでも、朝と比べたら、随分と下がった方だろう。自力でお猪口を持って叫んでいたあたり、夕方には回復しかけていたのかもしれない。
二日酔いと病み上がりに申し訳ないが、記憶があるなら訊きたいことがあった。
「ねえ、潮。覚えてるなら訊きたいんだけど」
潮はそらきたとばかりに苦笑いを浮かべる。
「俺も、お前に話しとかなきゃなんねえことがある」
「それって、さっきのずっとはないって話と繋がる?」
「ああ、お前が訊きたいことさ」
座り直そうとする潮を、そのままでいいと制して、私は水槽に近寄った。
月の光のお陰で部屋の中は明るい。反射した光で揺らめく黒い瞳は、言い出す瞬間を迷っているようにも見えた。
それでも、やがて諦めたように、決意を固めたように、潮は口を開く。
「お前はさ、たくさんのずっとを俺にくれようとしてるが、俺はそれに応えられるかわからねえ」
「どうして?」
「ひとつは、お前には寿命があること。そして、もうひとつは、俺たち人魚は不死なんかじゃねえからだ」
私が驚く暇もなく、彼は続ける。
「人間の想像する不老不死とは違う。俺たちは、歳は取らなくても、ちゃんと死ぬ。ただ、同じ個体として再生するんだ」
「再生と不死は違うの?」
「違う」
潮は強く言い切った。
「同じ細胞が再生するだけで、前の自分たちが持っていた記憶は消えちまう。永遠に生きているように見えるが、俺たちは死んで、生きてを繰り返してんだ」
そこまで話して、潮は溜めていた息を長く吐き出した。底に残っていた苦いものを口の中で咀嚼するように、声に悲しい色が混じる。
「気が付いたら、俺は金持ちの水槽で飼われてた。それ以前のことは覚えてねえ。何度死んで再生したのかも、前の俺がどう生きていたのかも、何もわからねえ。再生したばっかの時にゃ、周りは人間ばっかだわ、自分の記憶はないわで混乱したもんだ」
笑って話そうとしているが、頬が引き攣っているのを見逃さなかった。
「なんで自分に魚みてえな鰭がついてんのか、なんでいつまで経っても歳を取らねえのか、なんで周りのやつらと違うのか、運良く逃げ出して同族と会うまでは、めちゃくちゃ混乱したさ」
物心がついた瞬間から、自分が異物だと自覚する不安は、簡単に想像できた。
「雑にくくっちゃいけねえが、人間は、俺たち人魚を理想化しすぎだぜ。俺たちだって、忘れるもんは忘れるし、怪我すりゃ死ぬ。それなのに、永遠に覚えていてくれだとか、ずっと一緒だとか言われても、」
震える唇で喉の奥につっかえていた言葉を、彼は吐き出した。
「重くて受け止めきれねえよ」
そこに、私に対する批難の色はなかった。ただ、ずっとひとりで戦い続けてきた彼の悲しみだけが、滲み出ていた。
人魚に永遠なんてない。それなのに、私たち人間は、彼らを理想化して、自分たちの夢を押しつけた。
不老不死だと言われる彼らを前にして、死に怯える人間たちは、せめて自分たちをずっと覚えていて欲しいと願わずにはいられなかったのかもしれない。そうすれば、形はなくても、生きていられると信じて。
自分という存在が、世界のどこかに残ると安心して。
「ごめんね」
その痛みに、孤独に、気がつけなかった自分が恥ずかしかった。抱きしめた身体は、いつもより小さく感じて、血の滲む背中を私はゆっくりと摩る。
「アヤメ。俺はお前とずっと一緒にいられたら、そりゃあ楽しい日々を送れると思ってる」
「うん」
「だが、俺はいつかお前を置いて死ぬかもしれねえし、永遠にお前のことを覚えてもいられねえんだ。再生しても、きっとそれは別の俺さ」
抱きしめた身体は震えた。
「自分がなんなのかわからねえままひとりで考えて、大切だった奴らの想いを取りこぼしていることにも気がつかねえで、そうやって永遠に繰り返していくのさ」
再生した瞬間から、自分は異物だと突き付けられる恐怖。それは、不死という名の永遠の牢獄とも言える。
そんな恐怖と、彼はこれからも戦っていかなきゃいけないの?そう知っているからこそ、彼はいつか訪れる孤独に、怯えているんじゃないだろうか。
それとも、それは彼を自分の姿に重ねる私の都合の良い思い込みかな。
それなのに、大切な人たちに置いていかれた彼は、いつか置いていくかもしれない私の心配をしてくれている。
ああなんて、強くて、優しくて、ひとりぼっちな人。
「一馬くんが言ってた。人は死ぬけど、意志は引き継がれるんだって。そうやって、潮たち人魚を支えていきたいって」
「ありがてえ話だな」
「でも、潮たちには、引き継いでくれる自分と出会うこともできないんだね」
「死んだ自分には会えねえからなぁ」
死んだ瞬間に近しい人がいない限り、記憶がない状態でほっぽり出されるというわけだ。なんて心細いんだろう。
潮の話を聞いて、私は心の底から願った。
「私、ずっと潮をひとりにしたくないよ」
私が、じゃなくて、潮をずっとひとりにしたくない。永遠に、彼を孤独にしたくない。自分だけ死んで、潮を永遠の孤独の中に置き去りになんてしたくない。
「私、自分が寂しいからずっと一緒にいてほしかったの。でも今は、潮をひとりぼっちにしたくないから、元気で笑っててほしいから一緒にいたいって思う」
人はいつか死ぬ。それは人も人魚も同じ。でも、彼らは再生した瞬間から、自分が異端であることを突き付けられるんだろう。せめて、仲間のいる海なら、自分の境遇を教えてくれる人と出会えるのかもしれない。
でも、きっと人間が好きな潮は、最後の瞬間まで、地上で誰かを信じ続けているんじゃないだろうか。
彼が終わるその時も、彼が始まるその時も、そばにいてあげたいと願うのは、過ぎたわがままなのかもしれない。
私は自分の中に浮かんだ最適な答えを、潮に伝えることはなかった。反対されることが目に見えていたから。
その代わりに、曖昧で不透明な約束を交わす。
「私は潮に、私をずっと覚えていて欲しいなんて願わない。その代わりに、私が生きている間はあなたのそばにいさせてね」
「俺よりも、お前にはぴったりな相手が見つかるかもしんねえぞ」
「私は潮がいい。私は、潮がいなきゃ生きられなかった。世界が美しいって思い出すことも、人の優しさも気づかないまま死んでいくだけだった。もし潮が、自分が人魚だからって理由で引け目を感じてるなら、それは潮を大切に思ってる私への侮辱だよ」
潮がぎゅっと唇を噛んだ。
「潮は、私が自分の目が赤いから、あなたにふさわしくないからって去ろうとしたら、引き留めてはくれないの?」
「その言い方はずるくねえか?」
「でもそういう話なのかなって思って」
見た目や種族を理由にして離れようとされると、その人を大事に思っている自分の気持ちを踏みにじられたような気にさせられる。
「山から出たいとか、好きな奴ができたとかなら喜んで送り出すんだけどな。俺は、お前の赤い目のこと好きだし」
「私も潮の目が好きだよ」
月の光で光沢を増した瞳を見つめてそう言った。
「黒い宝石みたいだっていつも思うの。あとね、潮の虹を集めたような尾ひれも素敵」
「やめろやい。照れるだろぉ」
わざとらしく、水をかけられた。ふざけているように振る舞ってるけど、耳が真っ赤だ。
「だから、潮が一緒にいたいって思ってくれてるなら、私は潮から離れる気はないよ」
「まあ、聞かれてちゃ言い逃れできねえよなあ。いいさ、お前の気が済むまで好きにしたらいい」
いつ離れてもいいとも聞こえる言い方だ。
嘘でも、一緒にいてくれるとは言ってくれない。それぐらい、彼にとって「ずっと」は重い言葉なんだろう。
永遠を信じない彼は、未来の約束すらも疑ってみせる。彼は、人を信じると言うくせに、自分が関わる未来にはやたらと悲観的みたいだ。
7年も一緒にいて、初めて知った。
「いいよ。潮が信じなくても、嫌がっても、勝手にそうするもん」
虹を纏う鱗に触れて、私は笑う。
「潮が永遠を信じなくても、私は永遠を信じるよ」
裏切られても人を信じ続けた潮のように、ひたむきに共存を願う一馬くんのように、私も強くその願いを信じた。
「潮が私をひとりぼっちにしなかったように、私も潮をひとりぼっちになんかさせないから」
潮は苦笑していた。彼からしてみれば、非現実すぎて子どもの戯れ程度にしか聞こえていないのかもしれない。こっちは本気だって言うのに。
でもいつか、私が彼のひたむきさに救われたように、私の行動が、彼にも救いを与えられたらいいと思う。
「たった数日なのに、急に大きくなった気がすんなぁ」
「今までが知らなさすぎたんだよ。最初は怖かったし、潮が怪我して嫌だったけど、それでも、潮のことたくさん知れた気がする」
例えば、元気がないのを隠す時は、笑い方がぎこちなくなるとことか、お酒を飲むといつも以上に騒がしくなるところとか。そうして、彼が今までどんな風に生きてきたのかも、少しだけ知ることができた。
「卵粥。明日作るから食べてね」
「おう。よく考えたら高かっただろ。悪かったな」
「なけなしの貯金が役に立ったよ。やっぱり自給自足だけだと心許ないね。信親さん、今度から日雇いとかしてくれないかな……。潮、泳ぎ方とか教えてくれる?」
「山の川は浅かったもんな。海の泳ぎ方なら任せろ。まあまずはおっさんが雇ってくれるかどうかだが」
「薪割りと畑ならいくらでもできるんだけどね」
いちから漁を教わるのは、時間がかかりそう。それならまだ捌く方が得意だ。
ささやかななんでもない未来の話。それを潮は、和やかな表情で聞いていた。
「なんでもいいさ。お前が元気で暮らしていけるならそれで」
彼が思い描く未来の中に、できるだけ長く私がいればいい。永遠を信じない彼は、それでも今は私といてくれることを選んだ。私が彼との未来を語っても、彼はそれを否定しなかった。その選択は、孤独とは違う痛みをまた潮に与えるのかもしれない。
それでも彼は、私がどこかへ行くことを寂しいと言ってくれた。だから、私はその本音に寄り添いたい。なにより私自身が、彼の隣にいたいから。
月の光に満たされた天井が、桶の水面を映してゆらゆらと揺らぐ。海の匂いを感じながら、波の音を聞いていると、まるでふたり揃って海の中にいるみたいだった。




