妹の佳澄
『お兄さん、お兄さん』
小さな佳澄はおどおどとしながらいつも広隆を呼んでいた。目から完全に怯えの色が無くなったのは、いつだっただろうか。
馬鹿みたいに安心させるような事ばかり選んで、喋って、約束していた。馬鹿みたいに守ってやろうと使命感を感じていた。約束に約束を重ねて、佳澄が安心すれば良いと。笑えば良いと。
できることなら、佳澄を誰より安心させられる存在でありたかったのだ。そして佳澄を守ることで自分自身を守っていたのだ。
広隆と佳澄は同居人として節度を守り、やはり家族として過ごしてきた時間が長い分気兼ねがなく、お互い良い関係を築けているようだった。
一度、広隆は実家には戻り佳澄の両親、広隆の両親に抗議しに行ったものの、普通に丸め込まれた。今考えるとなぜ丸め込まれてしまったのか甚だ疑問だがそのときは本気で納得させられてしまったのだ。
姉と母親のコンビは、付き合いの長さに比例し簡単に広隆の意思を変える。後ろのほうで婿養子となった義兄の同情するような目が忘れられない。
佳澄の両親は30越えの独身男のもとに年頃の女の子を置いて本当にいいのだろうか。というかなんで俺が一番気にしているのか、納得いかない。広隆は眉間を抑えて疲れた声をだした。
それから一月で早急に進められる引越しの展開には広隆は目を丸くしているほか無かった。広隆(実際に住むはずの人間)以外ではもうすっかり話は付いていたらしい。
一緒に住み始めると、不思議と違和感がなかったのが逆にこわい。
料理は佳澄も広隆も問題なくできており先に帰った方が作る、というのが暗黙の了解となっていた。
特に決まりを作ったわけではなかったが、その他の家事もお互いが時間のあるときにやる、という形が自然にでき、特にストレスも無く同居におけるルールは作られていった。
半年ほどたつと、生活のサイクルもお互いになんとなく知り、気軽さに輪をかけた。
「ただいまですっ! 広隆兄さんっ」
息を弾ませた佳澄が仕事を終え、帰ってくる。玄関から聞こえた無邪気な声に、広隆は苦笑いを含んだような声で答える。
「おかえり。また早足で帰ってきたのか? 子どもみたいだぞ」
広隆は呆れるように言ったが、その表情はとても優しい。佳澄はそんな広隆にとびきりの笑顔を向けた。
「ふふ、駅からマンションの部屋に明りが付いて広隆兄さんがいるのかと思うと、嬉しくて。急いで帰ってきてしまいます」
そんなことを言われてしまうと広隆はさらに甘い顔になる。佳澄もそれを解って言葉を選んでいるのだろう。
あざといのに気付かないわけもないが、それを使うのが佳澄だと思うとどうしてもジャッジが甘くなる。
広隆は残業さえなければ、仕事場は電車も使わない方が楽に済む距離の為、佳澄よりも早く帰ることができる。
そんな時佳澄はいつも早足で帰ってきているようで、少し息が上がっていた。だがそんなところも可愛く思え、広隆はあまり注意もしない。
晩御飯の準備をする広隆に、佳澄はその近くに寄る。
「広隆兄さん、いつもありがとうございます。手伝います」
「お、サンキュ。ご飯はもうできるから、着替えてから洗濯の方を頼む」
「解りました。直ぐに着替えてきますね」
広隆はそんなに料理が上手いわけではないし、一人暮らしが長かったため無粋な男料理が多かった。肉が中心の。忙しいときなんて作ることもなく、コンビニ飯だ。
だが、佳澄にそんなものを食べさせるわけにはいかない。身体に悪いし栄養も取らせなければ、と必要に迫られた。
それに佳澄はどんな料理でも褒めておいしそうに食べてくれるため、非常に作りがいがある。
パソコンで料理のレシピを調べてみたり本屋で立ち読みしたりした結果、最近は急激に腕が上がっていた。
それでも、母親から丁寧に料理を教えてもらっていたらしい佳澄には敵わないが。残業にため息は出ても、佳澄の手料理が食べれるという喜びもある。
佳澄が部屋で着替えを終え、洗濯物をたたむ。同居にあたって一番大きな問題であったのは洗濯だ。下着等、どうするか悩んでいたが早い段階で面倒になり二人とも吹っ切れた。
女物の下着に対して広隆としては少しぎくりとするものがあるものの、佳澄は何も思わないかのようにトランクスを畳んでいる。
一つ補足をしておくならば、これは佳澄が男慣れしているとかそういうわけではなく、小さい頃から広隆の実家でお手伝いをしていた佳澄は今さら広隆のトランクス程度では何も思わないのだ。
妹の下着にぎくりと思うものがあることに微妙な気持ちを感じるため、さりげなく洗濯を広隆は避けているけれど。
「あ、俺明日飲みだから鍵かけて先に寝てろよー」
「解りました。それなら私も遊びに行くかもです」
何気なく入る会話と声は、何気無くてどこか暖かい。それだけで二人の気兼ねの無さが感じられる。
「あ。そういえば、広隆兄さん。会社のご令嬢様はどうなったのですか?」
キッチンから出来上がった料理をを持っていくのを手伝いながら、思い出したように佳澄が広隆に聞いた。広隆は微妙な顔で視線を上に上げる。
「あー……とりあえず、彼女と同棲することになったって伝えたら上司が引いてくれたわ。やっぱここに引っ越したってのが信憑性あって強いな」
住所変更を会社に申告するのに、この会社から近い新築マンションの名前は大いに役立った。それを聞き佳澄はふふっと声を出して笑う。
「私のお陰ですね」
悪戯っ子みたいな顔で佳澄は言った。
「はいはい」
そんな顔も可愛いと心では思うものの、広隆は聞き流すような返事を軽くうつ。
実際佳澄のおかげなのだろうが、広隆としては事情が事情だけに全く素直にお礼を伝える気にはなれなかった。このままこんな生活をし続けるとなると、真剣に結婚は諦めたほうが良いような気がする。
だが今の生活の居心地が良くなるにつれて考えるのも面倒になってきているのも事実だ。ダメだよなあ、と思いつつも根を張ってしまいそうだ。
「簡単に引いてくださるなんて羨ましいです」
「嫌味か! 嫌味みたいにきこえるぞお前!」
「あらやだ私ったら」
佳澄は頬に手をあてわざとらしく声を出す。理想が高い広隆とは逆に選びたい放題、ともいえる佳澄だが、そこに恋人の影は見えない。更に言うと、見えたことが無い。
さりげなく姉にも聞いたことがあるが姉も知らないそうだ。安心するような、不思議に思うような、微妙な気持ちだ。だがそれを佳澄本人に尋ねようとは思わない。
ふ、とカレンダーが目にはいる。黄色や茶色の葉が落ちる絵がついたカレンダーにもうすぐ12月か、と気が重くなる。
「もう12月だな……」
「まだ11月になったばかりですけど。12月になにかあるんですか?」
「俺12月なんてもう家に帰れる気がしない……」
情けない声をだし、自分の作った大雑把な味の料理を食べながら広隆は肩を落とす。
これから広隆の仕事は今から夜も眠れないほど忙しくなる。去年の事を思い出してか、広隆の目は死んでいる。
クリスマス? 何だそれ12月は忘年会だ。リア充は法律で規制されるべき。
「繁忙期ですか……」
佳澄は宏隆を痛ましそうな顔で見る。そんな顔も一段とかわいいと広隆は思う。
「お前は?」
「私はまあ……広隆兄さんほどではないと思います。まだぺーぺーですし」
控えめな佳澄の笑顔を見て、なにか引っかかるとは思いながらも、広隆は納得するようなそぶりで「そうか」とだけ返した。
「広隆兄さん」
「ん?」
「……いえ、やっぱり何でもありません。お仕事頑張ってくださいね」
言いかけてやめた佳澄に対し、広隆は聞きだそうかと思ったが佳澄が聞かれたくなさそうな顔をするのでやめて軽いお礼だけにとどめる。
あんまりつついて嫌われたくはない。
ただ、佳澄がつけている腕時計が自分の贈った物であることを今日もこっそり確認して、広隆は安心したようにまたこっそりと笑う。
―――
12月。広隆にとってのそれは、それはもうめまぐるしい、しんどいものだった。
仕事。仕事。仕事。あっちに行き仕事を増やされ、こっちに行き仕事を増やされ、気が付けば出張を入れられ、帰ってきても増えるだけの仕事。もうノイローゼになっても許される気がした。世間のクリスマス一色が憎くて仕方ない。
家に帰れてももう深夜で、電車に振り回されない分便利に使われている。家と仕事場が近いのも考え物だ。
帰れば佳澄が用意してくれた晩御飯があり、夜食としてそれを食べ、佳澄と顔を合わせることなく仮眠だけとりまた仕事場へ。たまにもらえる12月前半の休みは部屋で一日中寝ていた。じゃないと死ぬ。
佳澄は顔を合わせるたびに心配をしてくれたが、なさねばならぬのだ。がむしゃらに働き、追い詰められた将軍のように合戦に勤しむ広隆は、奇跡的に25日に昼から半休をもらえた。
同僚が忙しさにかまけていたためクリスマス前に振られたらしい。俺は仕事に生きるんだああ!! と広隆に代わり泣きながら仕事をがむしゃらにやっている。神はいた。広隆はその時ほど神の存在を信じた事はない。
25日。とりあえず寝ないと死ぬ。と思いながら、家に帰り仮眠をとった。だがせっかくクリスマスに帰れたんだと佳澄に連絡をしてみる。とはいえクリスマスだ。佳澄も友達と遊ぶなりなんなりで遊びに行く可能性は高い。
<今日、早く帰れそう。佳澄は?>
もう家にいるのに帰れそう、と嘘をついたのは見栄のためである。佳澄が遊びに行くと答えたならクリスマスは結局一日仕事だったと言い張るつもりだった。クリスマスにぼっちなんて兄としての威厳がなくなる。もとからない威厳を保つのに広隆は必死だった。
佳澄からの返信は早かった。
<いそいでかえります>
変換も使われず急いで打ったような文章は、見た目は落ち着いている佳澄らしくなくて広隆は笑う。
佳澄も早く帰ってくるなら、せっかくだしデパートに行ってクリスマスの惣菜でも買うかな。ケーキも買って、どうせならサプライズでもしてやろう。
広隆は簡単に用意をして駅と直結したデパートに向かう。マンションを出る時、常駐の管理人が会釈をしてくれたので、クリスマスまでお仕事お疲れ様といわんばかりに同情をこめて頭を下げた。人間は薄情に出来ているし、棚に上げるものだ。
最近は特にこの最寄の駅なんて使う事がなく、道のりが新鮮だった。駅とマンションは徒歩5分圏内。駅からは広隆たちが住む新築の綺麗なマンションが良く見える。
砂糖でできたサンタが乗った可愛い生クリームのホールケーキと、大きなローストチキン。他にもクリスマスっぽい惣菜をちらほらと。
クリスマスプレゼント、と思いついたときには両手は食料で埋め尽くされ、諦める他ないと思ったものの、やはり根性で買いにいこうと思い直した。
階も違う装飾品が売られている売り場まで足を伸ばし、手に食い込む重さにもかまわず佳澄へのプレゼントを探した。
大きく押し出されているペアリングには目をやらず、ネックレスやピアスを眺める。いやいやいや、これは妹に贈るには大層すぎるか? やっぱりマフラーとか、もっと無難に行ったほうが良いのだろうか。広隆は売り場を行ったり来たりと歩き回る。
いや、けれど今は家事も全て佳澄に任せている状況のお詫び代わりだ。少しくらい良いものを渡しても、お詫びだといえば通るんじゃないか? いやでも……
答えがでないまま歩き回る中で綺麗な、それはもう、広隆好みのネックレスを見つけてしまった。
雪の結晶のようなデザインでいくつか青い石がちりばめられている。それが広隆には周りの物よりもいっそうきらきらと輝いているように見えた。それを佳澄がつけているところを想像して、見たいと。そう思った。
思っていた以上の人がひしめくデパートからやっと足を遠ざけることができ、外に出た時広隆は心底ホッとした。外は寒いはずなのに、汗すらかいた室内からやっと逃れられ、空気が気持ちよく感じる。
ミリミリミリ、と、思ったよりも存在を示してくる食べ物たちに、徒歩5分圏内は近いどころか果てしなく遠く感じた。近くに見えるはずのマンションを、遠い目で広隆は見つめる。
けれど、何時もよりも不思議と足取りは軽い。疲れも取れておらず、睡眠は不足しているはずだったが、浮かれているのだと思い知り、広隆はなんだか恥ずかしくなった。
二人用のテーブルの上にケーキ以外の買った食べ物を所狭しと並べ、広隆は満足そうな顔をする。だいたい遅いときはこのくらいの時間か、と当たりをつけ、電気を消して佳澄を驚かすために広隆は自分の部屋に入っておいた。
部屋でのんびりとしていると、広隆はだんだんと眠気に負けてうとうととしてきた。佳澄が帰ってきたらわかるだろう、とベッドに横になる。
それから数十分――どたどたと、足音がする。これは、佳澄だ。いつも早足で返ってくるときの音だ。夢と現実の狭間で広隆はそう思った。
なんでそんなに急いでんの。頭の中で広隆は笑った。そういえば前に言ってたな。駅からマンションの部屋の明りがついてるのを見えると嬉しくてって――
ガチャガチャと荒い音が響き、そこで広隆の意識は覚醒した。佳澄は鍵が開いてるだなんて思ってないのだろう。そういえば鍵を閉め忘れていた。ドアノブから鍵のかかったままで回す音がする。
広隆は急いで玄関に行く。驚かそうかとしたところで、佳澄が鍵を開けてゆっくりと扉を開いた。
そして、佳澄は広隆の姿を見た瞬間、小さく悲鳴を上げた。
「っひ」
思ったよりも本気で驚いたような、おびえたような佳澄に、広隆は慌てて声をかける。
「佳澄! お帰り! 俺だから!!」
「ひっ、広隆、兄さん……?」
涙目の佳澄は、顔が青白く生気がない。広隆の顔を確認し、安心したのか佳澄の頬に涙が通った。
「ご、ごめん! ほんとごめん! そんなに驚くとは全然思ってなくて!」
「ひろ、たかにいさん、ひろたかにいさん、ひろたか、にいさん」
ボロボロと泣く佳澄に、広隆は何を考えていたか忘れた。今年最大の動揺とともに佳澄に近づく。
おそるおそる頭の上に手をおくと、佳澄は広隆に飛び付いた。背が伸びて大きくなったな、と思っていた佳澄の身体は広隆の予想よりも遥かに華奢だった。
折れそうとはこのことか、と変に冷静な自分がどこかにいる。が、表に出るのは情けないほどに慌てた声だけだ。
広隆は胸にぶつかってきた佳澄を受け止めることが出来ず、後ろに倒れて尻から落ちた。階下の人ごめん! 華奢だと思っておきながら支えきれなかった情けなさは忘れておく。
広隆の胸に佳澄がすがり付いている。広隆はもうどうすればいいのかキャパを越え、固まるしかない。
「か、カスミ?」
固い声が出るがそんなことはどうでもよかった。
少しの間、なにも出来ず、そのまま広隆は固まっていた。えっと、え、円周率でも数えておけばいい? 30を越えた男がわたわたわたと忙しなく小刻みに動く。まさに、情けないの一言だ。
おろおろとして手を上げ下げしている広隆の動揺は外から見ても明らかだった。そうこうしているうちに、どれだけ時間が経ったのか。段々と広隆がこれは夢かもしれないと現実逃避を始めていると、佳澄の声が明らかに泣き声ではなくなる。
「ふっ、ふふふ」
広隆の腕の中で佳澄が先程とは確かに違う声を出し、震えていた。
「あ、あの、佳澄、さん?」
「あははははっ、広隆にいさん、面白すぎです! あは、あははは」
……騙された!?
響く笑い声に、凍っていた広隆は騙された悔しさよりも佳澄が泣いていないという事に安堵し肩の力を抜いた。
「女の涙は武器ですよ、広隆兄さん」
「今その攻撃力をひしひし感じてる……」
聞いてまた可笑しそうな声をあげる佳澄の身体が広隆の胸でまた揺れる。広隆の行き場のない手は自分の体を支えるために床に下ろされていた。
「私にどっきりを仕掛けようだなんて50年早いです」
「……半世紀後に向けて精進します」
佳澄がゆっくりと身体を広隆から離す。目が合うとまだ少し目が潤んでいて少し赤い。
「広隆兄さん。……お仕事お疲れ様です。久しぶりにゆっくりお会いできて、とても嬉しいです」
意識を持っていかれるほど可愛いが、広隆は円周率を唱えた。
動揺したのは、記憶にあるよりも佳澄が大きくなっていたせいだ。妹が思ったよりも成長して焦っただけなのだ。
大丈夫大丈夫大丈夫。神に誓うが、邪な感情なんて持ってない!
広隆はもやもやとした感情を最近、もてあましている。しかしそれは見てはいけないものだったので、目の届かない奥の奥に閉まった。
クリスマスの半休が終わると、やはり広隆は忙殺された。幸いであったのは佳澄がクリスマスを非常に喜んだということである。
クリスマス惣菜とケーキを食べただけなのだが、いつも以上に佳澄は笑顔で可愛らしかった。ただ大きなファミリーケーキについては怒られた。二人で5号ケーキは、ない。
けれど笑いが絶えない楽しい時間に、就職してから初めてクリスマスも悪くないと思えたのは大きな秘密である。ちなみに去年まではリア充を呪い憎んでいた。
楽しく楽しく楽しく。あまりに楽しくて佳澄が可愛いものだから、広隆はプレゼントを渡すことができなかった。雪の結晶は、いまだ広隆の引き出しで眠っている。早く渡さないと、どんどん渡し難くなると思ってもどうしても渡せない。
渡せば、きっと佳澄は喜んでくれるだろう。
顔を赤くして、いつもの綺麗な笑顔で、おずおずとすぐにそれをつけてくれるだろう。目に浮かぶけれど、見たいけれど、どうしても先延ばしにしたくなる。
なぜか今は冷静で見つめられないのではないかと、そう思ったから。
佳澄と楽しくクリスマスを過ごせたおかげか、今年は精神的に元気だった。どちらかというと忘年会が続いて佳澄と会うことができなかったことの方がよっぽど堪えると思えるほど。
シスコンの前身邁進具合は絶好調だとため息とも解らぬ息が口からついてでた。なんだか最近はよく、落ち着かない気持ちになる。広隆は今年の煩悩今年のうちに、と違和感が消されることをただ祈ってみた。
年末から1月の3日まで休みもらえ、広隆は佳澄と元日の初詣の約束をしていた。実家に帰らなくていいのか? と全く自分の帰るつもりの無さを差し置いて聞いてみたが佳澄は笑って首を振るのみ。
一緒に住みはじめてから半年はとっくに過ぎている。実家はそれほど距離が無いというのに、佳澄はまだ一度も帰っていないようだ。気になりはするものの、やはり深く聞くことは躊躇われて、最近のもやもやと一緒に広隆はしまいこむ。それは、引き出しにしまったネックレスと同じように。
御節は高くつくし作るのも面倒だったので相談してやめて、大きな海老天ののった年越し蕎麦だけ食べた。佳澄にはお雑煮を食べるか聞かれたが餅を食べるほどの食欲はなく遠慮した。
年越しを確認してから真っ先に挨拶できる相手が近くにいるというのは、なかなか嬉しいものだった。それがかわいい佳澄なら尚更だ。
ふと浮かんでくる感情は、絶対に深く考えないように。そんなことばかりを繰り返し繰り返ししている。
―――
ざわざわと。あのクリスマスの惣菜コーナーよりも人がひしめく神社は、当たり前だが盛況だ。
初詣など独り身ではなかなか行く気になれなかった為、一体何年ぶりだろうかと過去のモノクロな記憶に広隆は思いをはせる。実家に居るうちは何度か佳澄と行っていたと思い出し、ふと隣を見る。
記憶よりもずいぶん成長した彼女は、周りの目を一際引いて広隆の隣に立っている。
だろう。俺の佳澄は可愛いだろう。と広隆は心の中で優越感に浸った。そしてどこからか舌打ちが聞こえる。え、やだこわい、と広隆は思った。
配っていた甘酒をちびちびと飲む佳澄は酷く可愛らしい。目が会うとにこりと笑ってくれる。どうしよう可愛い。広隆の通常の思考回路はそればかりだ。
お参りをするまでの長い列の中で、着物姿の女子団体が広隆の目に入った。女子高生くらいかな、とあたりをつける。ごてごてと元来の着物ではないようなリボンやレースがついた帯などは見る人から見ると趣がないと思うのかも知れないが、作法も何も知らない広隆から見れば若いなあ、の一言である。そう思って違和感のない歳になったか、と微妙に複雑な気持ちになった。
佳澄が着ればもっと似合うだろうな。そんなことを考えているといつの間にか甘酒を飲みきった佳澄が笑いを含んだ声で広隆に問う。
「お好みの女性でもいらっしゃいましたか?」
その言葉に広隆は眉を下げて笑いながら佳澄の手の中で不要となった紙コップを受け取り、とっくに飲み終わった自分のものと重ねた。
「好みって……あれどう見ても女子高生くらいだろ。犯罪だわ」
広隆の視線を追って佳澄も女子高生を見ていた。女子高生を通して佳澄の着物姿を想像していたなんて言えるわけがない。どこの変態だ、俺は。
「あら。恋愛に年齢を出してくるなんて無粋ですよ」
「それはお前が若いからそう思うんだ」
というか普通に考えて10以上も下の女子高生に鼻の下伸ばせば立派な犯罪者予備軍じゃないか。
「まあ。広隆兄さんはいつからそんなにお年をめされてしまったのですか」
佳澄は少し口を尖らせて面白くないような顔をする。そんな顔もかわいい、ってこの考え方が一番犯罪臭い気がする……いや深く考えるのはよそう。広隆は自覚するのをやめた。
「男と女の年の差って感覚違うのか? ……ところで、お前って、まあ、とかあら、とかいつからそんな喋りになったの」
敬語なのは昔から変わらないが、そこにあらまあなんて年寄りくさい言葉なんて使ってなかっただろ、と広隆は口をへのじに曲げる。
「心当たり、ありません?」
「……あるから嫌なんだよ」
くすくす笑う佳澄に広隆は眉もしかめて大きなため息をついた。
そうだ。心当たりはあるのだ。認めたくないだけで。あらあら、まあまあ、と口癖のように言う実家の母親が頭にちらついた。頭を抑える広隆に佳澄はますます笑った。
「マザコン気質のある広隆兄さんですから、喜ばれるのではないかと」
「喜ぶか! そしてそんな素質はない!」
シスコンは認めるが、それ以外は断固として認める気はない。
自分の母と口調が似るほどいまだに仲が良いのか、何だよ俺が喜ぶかもって、と考えて広隆は頭がくらくらとしてくる。ああもう、深く考えるのはやめやめ。
そんな会話を続けていると、賽銭を入れる順番が回ってきたようだ。予め出しておいたお金を投げ、手を叩いて参る。作法があっているのかは知らない。大切なのは信仰心だと、そもそもまともに信じていないくせに都合よく思う。
後ろの列を気にしながらそそくさと終えて横にずれる。佳澄をみれば一拍遅れてから広隆を追い、熱心にお祈りしていたのだと解る。
あわてて広隆を追う佳澄が、人ごみで見えなかった小さな段差に足をとられるのが見え、不安定になった体を広隆は腕で支えた。佳澄は転びかけたことに驚いたのか少し固まった後、体を離してあわててお礼を言った。
広隆は笑い、佳澄をエスコートするように下から手を差し出した。上からとてもゆっくりと小さな手が乗せられる。手だけを見つめ、広隆も佳澄も絶対にお互いを見なかった。
「熱心に手を合わせてたな」
「そうですか? 広隆兄さんが淡白なんだと思いますが」
「まあ願い事なんて決まってるからな」
「なんてお願いされたんです?」
「お前の幸せ」
そう言うや否や後ろや横から大きな舌打ちが何ヵ所からも聞こえた。なにこれ囲まれてる感じこわい。……いや確かに。自分でも格好つけすぎたことも似合わないことも解っていた。
でもやはり、広隆は優越感を感じるのだ。
佳澄からは小さな声で「そうですか」と、つぶやくように声が帰ってきた。
「広隆兄さん、あっちにゴミ箱あるので紙コップ捨ててきますね」
少し人が空いた所で遠いとろで佳澄はゴミ箱を見つけ、繋いだ手と反対の手を広隆に出した。その手を避けて広隆は繋いだ手を離し、佳澄の頭をぽんぽんと優しく撫でる。
「俺が行くよ。ここで待ってろよ」
佳澄の次の言葉を待つよりも先に広隆は歩いた。離れると言っても10メートルあるかどうかの距離だ。ここなら佳澄が誰かに連れていかれることはないと判断し、足早にゴミを捨てにいく。
そこで話しかけられるなんて、広隆は全く想像もしていなかった。
「――あら、広隆?」
そんな女性の声に反応して振り向き、広隆は目を見開く。
「……沙里南?」
広隆の声は幾分硬い。沙里南と呼ばれた女性は大体二十代後半頃に見える。年齢のわかり難い、茶髪に長い髪で少しパーマをいれた髪形がよく似合う、綺麗な女性。
そんな香織は彼氏と思わしき男性と腕を組み、広隆に軽く手を振ってきた。
「やっぱり広隆だ。あけおめー。元気にしてた? 」
沙里南の隣に立つ男は怪訝そうな顔で沙里南と広隆を見たが、沙里南が小さくもしない声で「ほら、大学時代の」といって合点がいったように笑う。それはあまり良い類の笑い方ではなかった。
「ああ、まあ。元気だったよ」
硬い声のまま笑う広隆はどう見ても楽しげではない。沙里南も懐かしさで話しかけてきたわけではなさそうだし、ニヤニヤと表現することができそうな笑みは感じが良いとは言いがたい。
「はじめまして、沙里南の彼氏です」
「はじめまして。ああ、格好良い彼氏で、幸せそうじゃん」
挨拶してきた男に広隆は気まずげながら挨拶をかえす。心のこもっていない賛辞を贈るが、目の前の二人にそれを気にする様子は一切無かった。
「ふふ、ありがとっ。広隆は……まさか今日一人なの? ちょっと寂しいねー」
「いや……別にそんなわけじゃ」
ないけど。続こうとした言葉も聞かず、沙里南は笑いながら広隆を遮った。
「ごめんねー、急に声かけて。広隆に会ったら、ずっと謝りたいなあと思っててー」
会ったら弄りたいなあ、の間違いじゃないのか? 広隆はいっそう苦い気持ちになる。広隆が触れずにしていたのに、無理やり嫌な記憶をつつくのが楽しくて仕方ないという風に沙里南は過去を引きずり出す。
「大学のとき、罰ゲームで付き合っちゃってごめんねって――」
周りはそれだけでなんとなく予想がついたのだろう。聞き耳を立てているのも、視線が集まるのも解る。小さくない声で沙里南が広隆を辱めようとしているのは、態度を見るに明らかだ。
けれど広隆にとってそれは重要なことではなくて、後ろに居るはずの佳澄の事だけが気がかりになってきた。思っていたよりも現状に対して興味を持てていない。いっそ目の前の女に「この話これ以上長くなる?」と聞いてやりたいくらいで、頭の中で佳澄がナンパとかされてないか、大丈夫かと振り向きたくて仕方なかった。
同時に驚く。昔はズタズタにされて、目の前の女がずっと、トラウマみたいになっているのではないかと思うほどだったのに。
時の流れせいか、それとも、
「広隆さん」
誰よりも何よりも聞き覚えのある声が、広隆を呼ぶ。聞き覚えがある声なのに、呼ばれ慣れていない呼び名に違う人を指しているのかと広隆は一瞬理解が追い付かなかった。それに、腕に抱きついてくる暖かい存在はおおよそこんなことをはずがなく、目の前の状況すら忘れるほどの衝撃を受けた。
「なかなか帰ってこなくて心配してました。もう、せっかくのデートなのにひどい」
「か、佳澄?」
拗ねたように広隆の腕に抱きつく佳澄は、今しがた沙里南と男に気づいたように驚いた目をする。その行動にはわざとらしさが少し残る。
「あ、こちらの方々は広隆さんのお友達ですか? すいません、お邪魔してしまったようですね」
広隆の腕を放して佇まいを正し、佳澄は綺麗に笑う。言い方は少し空々しかったが、おそらく佳澄の知りえる自分の一番の魅力が伝わる笑い方で、広隆と話していた沙里南たちを見据えた。
沙里南は急に現れた佳澄に驚き、男は言葉を失うように佳澄に見ほれた。周囲も、佳澄の存在に息をついたりして、先ほどよりもよっぽど視線が集まってくるのが解る。
「はじめまして。私、高泉佳澄といいます。広隆さんと婚約させていただいてます。どうぞ、仲良くしてくださいね」
「え、ええ。広隆にこんな可愛い彼女が居るなんてしらなかったわ。広隆ったら、面食いだもんねー」
大きな動揺を必死に押し込めたように話す沙里南は、プライドで佳澄に笑顔を返す。佳澄はその笑顔をじっくりと見つめてから言った。
「可愛いなんて、嬉しいです。ありがとうございます。お姉さんは……広隆さんのお友達ですね。それにしても、お友達まで面食いだって知ってらっしゃるなんて、広隆さんったら、恥ずかしい」
もし勝敗を決めるのなら明らかで。佳澄はただの一度も魅力的な笑みを崩さなかった。
広隆は沙里南達と別れてから佳澄に何も言わなかった。ただ早足で、帰路を歩く。
佳澄はうつむいてその後を追い、ただ広隆と一定以上の距離が開かないように早足だった。ふと、広隆の足が止まる。
「――なんであんなこと言った?」
「……あまりに、広隆兄さんを、馬鹿にしたような物言いが許せなくて」
静かな広隆の声に、佳澄は少し怯えたような声でかえす。いつもならその変化だけで広隆は優しくなっただろう。けれど今日は、声に険しさが加わる。
「だからって! 相手と同じ土俵に立ってどうする!」
傷ついたような佳澄の顔が広隆の目に焼きつく。けれど、佳澄はすぐに口を引き結んで、広隆を見つめ返す。そんな顔を、広隆は知らなかった。
「私にだって、譲れないものがあったんです!」
広隆が佳澄に声を荒げるのは、もしかしたら初めてのことかもしれない。けれど、佳澄も怯えた声を振り払い、対抗した。これも、初めてのことだった。
「それは俺のことだろ?」
「っ……」
広隆の言葉に、佳澄は返せない。図星を指され、息を呑む音がした。赤く染まった顔が肯定を示す。
広隆はため息をついた。
「佳澄、俺のことなんてどういわれても大丈夫だから。な? お前の気持ちはそりゃ嬉しかったよ。でもな、兄が妹に守られてどうする。格好つかないだろ。お前は俺のこと、今日ですごい見損なっただろうけどさ」
声の険しさがなくなる。茶化すような響き。広隆はいつもの、『兄の広隆』に戻る。
それに言い返せなかったはずの佳澄が勢いよく反応した。
「妹じゃない!!!」
佳澄が爆発したかのように声を張り上げる。今度は、広隆が返すことができなかった。
佳澄は、言ってしまったと後悔するような顔をしてから、自分の手を強く握り締めた。
「……大声をだしてすいません。でも、広隆兄さん。もう、家族ごっこは終わりにしましょう?」
縋るような声音だった。それを何故だと、広隆兄は聞けない。その続きも聞きたくなかった。やめろと、本当は声を上げたい。けれど、佳澄がそれを許さない。芯のある目が、広隆を止める。
「広隆兄さんは本当に、何も、何もお聞きになりませんよね」
佳澄が何を言いたいのか。本当は、気付いていないわけがない。
いくら広隆がわからずやだからといって、これほどあからさまな好意に気が付いていない訳がない。
「そんな広隆兄さんが、好きで……大嫌いです」
それを解っているからこそ、広隆はなにも聞かなかったのだ。
だから、心を決めたのは佳澄だった。どうしても、関係を変えたかったのは佳澄だった。意を決したかのように、佳澄が広隆を見据える。
「ねえ、広隆兄さん。私、大きくなりました。プロポーションだって……お尻は小さいですし、ウエストも細いです」
さりげなく飛ばした項目があったが、広隆は雰囲気に飲まれて口を挟めなかった。少し茶化したかのような佳澄の声はただ震えていた。茶化さなければ、声が止まってしまいそうだったのだろう。
「広隆兄さん。……私はいつまで、子供なんですか。私はいつまで、あなたと対等になれないんですか」
『広隆兄さん』
『広隆兄さん、私と遊んでくれませんか?』
『広隆兄さん、いつも遊んでくれて、ありがとうございます』
「広隆兄さん。私はいつまで、妹なんですか。私はいつまで、あなたに責任をもってもらわないと駄目なんですか」
『広隆兄さん』
『広隆兄さん、ごめんなさい、大好きです』
『広隆兄さん、広隆兄さんは、私のこと好きでいてくれますか?』
「私はいつまで! あなたのあなたの隣にいる人をただ指をくわえて、」
『広隆兄さん』
『広隆兄さん、その方はどなたですか?』
『広隆兄さん、本当に面食いですね。綺麗な方で、私もとても嬉しいです』
「見ていなければならない、んですか!」
『ねえ、広隆兄さん、』
『私、もう世界が怖くないんです』
『広隆兄さんのおかげです』
「ねえ、広隆兄さん。少しで良いんです」
『広隆兄さんがいてくれたから、私は大丈夫になりました』
『だからもう、背に隠してもらわなくてもいいんです』
『だからどうか、』
『私のことを見てくださいませんか』
「私を、佳澄として、見て欲しいんです」
『広隆兄さん』
「好き、です」
言葉がこぼれ落ちた。佳澄の抱え込んできた言葉が。その言葉しか知らないように。
「すきです。すきです。すきです、すきです」
言葉が溢れる。
「あなた以外を、見たことも、見たくもないんです。お願いだから幼い恋心と、錯覚だと言わないで」
「この気持ちに縋ってきた私を、どうか否定しないで」
言葉を伝え終えた佳澄は目を閉じる。心を落ちつかせるように。広隆の言葉を待つわけではない。広隆から言葉が帰ってくるなんて佳澄は思ってもいなかった。だから、目を開けたときに笑った。
「ふふっ、広隆兄さん。ちゃんとわかってるつもりです。だからそんな困った情けない顔をしないでください。ただ、中途半端な妹からの最後のお願いです」
広隆は佳澄を見つめる。見つめることしかできなかった。正面から、妹ではない、佳澄を見た。
いつから、こんなにもいろんな表情をしていたのだろうか。いつから、こんなにも感情を隠せるようになっていたのだろうか。広隆は知らない。だって聞くことはしなかったから。考えることはしなかったから。見ようともしなかったから。
「ちゃんと言ってくれれば、本物の妹に、なりますから」
目の前にいる彼女が誰なのか。広隆はわからなかった。彼女に返す言葉がわからなかった。
だから、広隆は目の前の言葉に縋るしかなかった。
「お願いです、広隆兄さん」
うるりと久しぶりに会ったときのように、佳澄の目がうるんだ。
兄としてなら、答えなんて決まっていた。
「佳澄。気持ちは嬉しいけど、俺はお前を妹以上には、思えないよ」
佳澄を抱きしめる手は持たない。だって、俺は兄だから。
「ありがとう。ごめんな」
目から涙が流れ落ちるかと思うと、涙をそのままに佳澄は綺麗に微笑んだ。
それに広隆は馬鹿みたいに見惚れるのだ。