43 敵討ち
次の日も前線に行った。
森の空気は重く、昨日よりもさらに湿っているように感じた。足元の泥は深く、空気には血と汗の匂いが染みついている。
騎士団も勇者一行も、もう完全にこの森での戦い方を掴み始めていた。外縁の敵の数は減っている。だからこそ、今日は少し奥へ踏み込むことになった。
木々の密度がさらに増す。
視界は狭まり、音だけが広がる。
「左だ!」
「前に出るな!」
「火を!」
怒声と金属音が飛び交う中、またオークたちが現れた。昨日よりも数が多い。武装も少し整っている。木槍だけではなく、鉄の刃を打ち付けた斧や、拾ってきたような盾を持っている個体もいる。
だが、それでも。
勇者の戦果は凄まじかった。
タケルが前へ出るたびに、戦場の一部が真空になったように敵が消える。いや、消えるのではない。倒れていく。斬られ、裂け、吹き飛ばされる。
俺は目を凝らして、その一瞬を追った。
やはり、ある。あの溜めの一瞬だ。
腰を少し沈める。呼吸を整える。刹那の静止。
次の瞬間には、剣を抜いたのかすら分からないまま、目の前の敵が死んでいる。
その動きは、すでに人間の範疇を超えている。だが、完全に無から斬撃が生まれているわけではない。必ず、その前にほんのわずかな準備がある。
そこだ。
そこしかない。
その一瞬に、喉を裂くか、心臓を刺すか。
短剣では足りないかもしれない。もっと深く、一撃で確実に命を奪える武器が必要だろうか。いや、違う。武器の問題ではない。勇者の間合いに入る口実が必要だ。治療か、補助か、あるいは。
考えながらも、手は動かしていた。
倒れた騎士のもとへ走り、傷口を押さえ、薬草を詰め、布を巻く。気づけば、もうそれは半ば反射になっていた。
そして、戦いは続く。
バルグが前衛を押し、ドグが受け止め、シェリスが射抜き、ミレアが火と衝撃で敵を崩す。騎士団も勇者の動きに合わせることを覚え始めていた。
ついに、この日。
オーク率いる軍の前衛を突破することに成功した。
副団長の号令とともに、騎士たちが一斉に前へ出る。オークの隊列が崩れ、木々の間にぽっかりと道が開く。その先には、さらに濃い森と、奥へ続く獣道のようなものが見えた。
「押し込め!」
「追いすぎるな!」
「隊列を乱すな!」
怒号が飛び交い、土が跳ねる。
夕方、砦へ戻った頃には、兵たちの間に確かな手応えが広がっていた。
「前衛を抜いたぞ」
「あと少しで本隊だ」
「勇者様がいれば、いける!」
その言葉を聞きながら、俺は水で血を洗い落としていた。
あと少し。
つまり、勇者がさらに前に出る機会も増えるということだ。戦いが本格化すれば、混乱も増える。負傷者も出る。人の視線も散る。
いつ勇者を殺すべきか。
戦いの最中か。夜の野営か。作戦会議の後か。それとも、最後の勝利に気を緩めた瞬間か。
頭の中で何度も場面を組み立てる。
今はまだ早い。
まだ確実じゃない。
だが、機会は近づいている。
胸の奥に、冷たい火が静かに燃え続けていた。
その日の夜、夢を見た。
レンバスにいた頃の、懐かしい記憶だった。
赤龍の宴の食堂。夜遅くまで賑やかな声が響いている。
ゲンシさんが大声で笑い、女将さんが呆れたように肩をすくめ、リノが机の間をちょこちょこと走り回っている。
厨房からは煮込みの匂いがして、皿が触れ合う音が聞こえる。
木の床の軋みさえも、妙に温かい。
ラザバたちもいた。
バルのように騒がしく酒を飲み、シエスタさんが半分呆れながら歌を口ずさみ、デントがいつものように大声で笑っている。
その輪の中に、モカがいた。
白い髪を揺らして、少し困ったように、それでも嬉しそうに笑っている。
俺はその姿を、少し離れたところから見ていた。
ただ、それだけで胸の奥が満たされるような、あの頃の感覚。
何もかもが、遠い。
モカがこちらに気づく。
いつものように少しだけ首を傾げて、微笑んだ。
「レンくん」
その声が聞こえた瞬間、場面がふっと揺らいだ。
笑い声が遠のき、食堂の灯りが滲み、景色が暗くなる。
そして、目が覚めた。夜中だった。
天幕の中は静かで、外からはかすかな風の音と、見張りの足音だけが聞こえる。
しばらく、動けなかった。
夢の残り香みたいなものが、胸の奥に沈んでいた。
懐かしくて、温かくて、同時にどうしようもなく苦しい。
あの頃には、もう戻れない。
リノの笑い声も。ゲンシさんの大きな声も。モカの歌声も。
全部、遠い。
俺はゆっくりと起き上がった。
今日だ。
今日、勇者を殺そう。
そう、はっきりと思った。
迷いはもうない。
いや、本当はまだあるのかもしれない。
あの男が村人を助ける姿も、前線で騎士を守る姿も、この目で見てきた。
それでも、あの夜の川辺で聞いた言葉は消えない。
忌み子。実験。幼い魂。後悔していない。
あれが本音だ。
あの男は、やはり俺たちの敵だ。
モカの仇だ。
殺す。短剣で、一瞬の隙を見て殺す。
俺は荷物の奥に手を伸ばした。
布に包んで大事にしまっていたものを取り出す。
ガンスさんの形見。ラフェルセウス家の家宝の短剣。
手のひらに載せると、ずしりとした重みがあった。
ただの装飾品ではない。
何人もの血と、何十年もの歴史を吸ってきたような重さだ。
そっと鞘を撫でる。
ガンスさんの最後の顔が浮かぶ。
あの大きな体。あの豪快な笑い方そして、血を失いながらも、最後まで戦士の目をしていた姿。
俺は短剣を鞘から抜いた。
静かな音がして、刃が月明かりを受ける。
綺麗な刃だ。
細く、鋭く、無駄がない。
一見すると儀礼用にも見えるが、近くで見ると刃先には確かな殺意が宿っている。
これなら、喉元を裂ける。
肋骨の隙間を縫って、心臓まで届くかもしれない。
俺は刃を見つめながら、小さく息を吐いた。
「ガンスさん…力を貸してください」
声はほとんど祈りに近かった。
「俺は、あんたみたいに強くはない。勇者に正面から挑んでも勝てない」
刃に映った自分の目は、少しやつれて見えた。
「でも、今日で終わらせる」
指が、柄を強く握り込む。
「モカのために。俺のために」
外では、風が木々を揺らしていた。
夜はまだ深い。
だが、胸の奥ではもう朝のように意識が冴えていた。
短剣を再び鞘に収め、膝の上に置く。
今日、勇者を殺す。
その決意だけが、今の俺を支えていた。
次の朝、出発した。
空気が、今までとは明らかに違っていた。
誰もが口数少なく、ただ黙々と支度を整えている。騎士たちは鎧の継ぎ目を確かめ、槍の穂先を拭き、剣の柄を握り直していた。勇者の一行もまた、いつもの軽口は少ない。
ミレアは杖を抱えて目を閉じ、シェリスは矢羽を一枚ずつ指で撫で、バルグは斧の刃を布で磨き、ドグは大盾の縁を低く叩いて強度を確かめていた。
そして勇者、タケル・タナカ。
黒い髪を後ろへ払うでもなく、ただ静かに剣の柄へ手を置いている。朝靄の中、その横顔はひどく落ち着いていた。
本格的に本陣へ攻め込む。
今日で決まる。
砦を出て、森へ入る。
昨日までよりも深く、もっと奥へ。木々はさらに密になり、朝の光すら細く地面へ落ちるだけだ。湿った土の匂い、腐葉土の匂い、獣の気配。枝が肩を打ち、根が足元を絡め取ろうとする。
進むごとに、森そのものがこちらを拒んでいるようだった。
隊列は静かに進む。前衛に騎士団、そのやや前に勇者一行。俺はその後ろ、今までと同じ位置にいた。腰には、ガンスさんの短剣。冷たい感触が布越しにも分かる。
やがて、前方の木々の隙間に影が見えた。
オークだ。
しかも、ただ集まっているのではない。陣を形成している。木槍を並べ、石斧を持つ者が後ろに控え、そのさらに奥には大柄な個体が何体も立っていた。粗末だが、明らかに軍だ。獣の群れではない。知性を持った敵。
騎士団の足が止まる。
森の中に、張りつめた静寂が落ちた。
その時、勇者が一歩前へ出た。
振り返る。
「みんな。ここを突破すれば、僕達の勝利だ」
その声は大きくない。だが、森の中ではっきりと響いた。
騎士たちの顔が引き締まる。誰かが剣を掲げ、小さく吠える。空気が変わる。士気が上がったのが分かった。
対するように、オークたちも一斉に雄叫びを上げた。
低く濁った咆哮。木々を震わせるような叫び。地面すら揺れたように感じる。
タケルが、いつものように静かに言った。
「それじゃあ、行こうか」
その瞬間だった。
俺は一歩、いや二歩、勇者に近づいた。
足音は森の喧騒と、武具の触れ合う音に紛れている。誰も気づいていない。
勇者の視線は完全に前だ。敵陣だけを見ている。
そして、あの溜めが来る。
腰が沈む。呼吸が整う。剣を抜く直前の、あの一瞬。
今だ。
俺の手は、迷いなく短剣を抜いた。
ガンスさんの形見。月明かりではなく、森の薄光を受けて鈍く光る刃。
次の瞬間、俺はそのまま勇者の脇腹へ、全力で短剣を突き刺していた。
肉を裂く感触が、手に伝わる。
温かい血が一気に溢れ、俺の手首を濡らした。
タケルの体がびくりと震える。目が見開かれる。剣はまだ半ばまでしか抜けていない。
そのまま、崩れ落ちる。
だが、まだ終わらせない。
俺は倒れた勇者にまたがるようにして、何度も短剣を突き立てた。脇腹、胸、喉元。血が跳ねる。呼吸は乱れない。ただ、腕だけが機械みたいに動いた。
「モカの分だ」
低く、喉の奥から声が出た。
「これは、お前が奪った命の分だ」
タケルの口が何か言おうと動く。だが、もう声にはならない。血が口元から溢れ、黒い髪が土に貼りついていく。
俺は最後に、喉元へ深く短剣を突き立てた。
勇者が息絶える。時間が、止まった。
勇者一行も、騎士団も、誰一人としてすぐには動けなかった。
ミレアの目が信じられないものを見るように見開かれる。バルグの口が半開きのまま止まり、シェリスの矢はつがえられたまま動かず、ドグは盾を構えた姿勢のまま凍りついていた。騎士団も同じだ。
英雄が、剣の勇者が、自分たちの目の前で刺し殺された。その事実を理解できていない。
俺は血まみれのまま立ち上がった。そして、腹の底から声を張り上げる。
オークの言語で。
「レン・サトウ、勇者タケルを討ち取ったり! 全軍突撃!」
森に、その言葉が響いた。
オークたちは一瞬、呆然としたように動きを止めた。
だが次の瞬間、雄叫びが爆発する。
咆哮。歓喜。獣じみた叫び。
隊列が崩れ、前へ雪崩れ込んでくる。
騎士団はまだ混乱の中にあった。勇者を中心に組んでいた陣形は、中心を失った瞬間、一気にぐらついた。指揮を飛ばす声はある。だが遅い。ほんの一瞬の混乱、それだけで十分だった。
オークの先陣が突っ込む。
槍が兵を貫き、斧が盾ごと叩き割る。騎士たちは慌てて応戦しようとするが、陣はもう整わない。バルグが怒号を上げ、ドグが前へ出るが、彼らもまた“勇者の死”という現実に心を引き裂かれていた。ミレアは呪文を唱えようとするが遅れ、シェリスの放った矢も一瞬、軌道がぶれた。
陣は崩壊した。蹂躙だった。
森の中に、悲鳴と咆哮と血の匂いが溢れる。騎士の鎧が砕け、盾が割れ、木槍が肉を貫く。昨日まで勇者の背を追っていた兵たちは、今やただ、押し寄せるオークの波に飲まれていくしかなかった。
俺はその光景を見ていた。
短剣を握ったまま。勇者の血で赤く濡れた手のまま。
森の中で、すべてが壊れていった。




