42 勇者の告白
その夜、俺はなかなか眠れなかった。
昼間の戦いが、何度も頭の中で繰り返される。
勇者が剣を振るう姿。敵を斬り裂く速さ。けが人を守るように前へ出る背中。そして、あの穏やかな顔。
いろいろ考えた末、勇者は、もしかして善人なのかもしれないという結論が頭をよぎる。
今まで聞いてきたことも、見てきたものも、すべて噂だけなのかもしれない。
あの手紙も、何かの間違いだったのではないか。
誰かが勇者を陥れようとして、そんなものを書いたのではないか。
モカのことを思うたびに、胸の奥が締め付けられる。
けれど、その一方で、目の前の勇者の姿はどうしても悪人に見えなかった。
砦の外から、川の流れる音が聞こえる。
夜風が天幕を揺らし、火の匂いが薄く漂っていた。
そんなときだった。
「レン君」
外から声がする。
聞き間違えるはずもない。勇者の声だ。
俺は天幕を出た。
そこには、タケルが一人で立っていた。剣は腰に差したまま、いつものように静かな顔をしている。
「少し付き合ってくれるかい」
断る理由もなく、俺は黙って頷いた。
砦の近くの川まで歩く。
夜の川は静かだった。月明かりが細く水面を照らし、流れはゆるやかに音を立てている。砦の明かりが少しだけ遠くに見えた。
適当な岩に腰掛ける。
タケルも少し離れた場所に座った。
しばらく、二人とも何も言わなかった。
ただ、川の流れる音だけが聞こえる。
やがて、勇者が口を開いた。
「レン君。君は、人を殺したことはあるかい?」
不意の問いだった。
だが、俺はすぐには答えられなかった。
あの夜のことが頭に蘇る。
血の匂い。短剣の感触。全てが鮮明に蘇る。
「……あります」
ようやく、それだけ言った。
タケルは小さく頷いた。
「そうか」
少し間を置いてから、静かな声で続ける。
「少し語らせてくれないか?」
その声音には、どこか奇妙な落ち着きがあった。
俺は黙ったまま、続きを待つ。
タケルは川を見たまま話し始めた。
「僕は国からの要請で、たくさんの人を殺してきた」
あまりにもあっさりした言い方だった。
「戦場で、反乱で、討伐で。人を斬るのが僕の役目だった。剣の勇者だからね」
その言葉に、俺は目を細める。
勇者は続ける。
「最初は、それが正しいことだと思っていたよ。国を守るため。民を守るため。悪を討つため。そう言われれば、剣を振るう理由には十分だった」
夜風が少し強く吹いた。
「でも、だんだんと気づいたんだ。自分の力不足に」
その言葉は、妙に静かだった。
「僕は強かった。普通の人間よりはずっと。けれど、それでも足りない場面がいくらでもあった。守れなかった人がいた。助けられなかった戦場があった。僕があと少し強ければ、と思うたびに、人を斬ることへの躊躇いが薄れていった」
俺は何も言わない。
タケルの横顔は、月明かりに白く照らされていた。
「人を殺しすぎたせいで、自分の判断がおかしくなっていくのは分かっていた」
その言葉に、背筋がわずかに冷える。
「最初は、一人斬るたびに苦しかった。吐きそうにもなった。眠れない夜もあった。でも、百を超え、千を超え、その頃にはもう、必要なこととして処理するようになっていた」
淡々とした声だった。
「そこで、僕は考えたんだ。自分の力をもっと強くしようって」
川の流れが、やけに大きく聞こえる。
「そんな時に、忌み子という存在に気づいた」
その瞬間、胸の奥がどくりと鳴った。
タケルは何の感情もない声で言う。
「彼らは、魔族の生まれ変わりと呼ばれている。けれど、実際には違う。ただ、体内魔力が生まれつき高いだけの存在だ」
俺の手が、無意識のうちに強く握られる。
「ある貴族から話を持ちかけられた。忌み子を使って、自分の力を強化しないか、と」
月明かりの下で、タケルの口元がわずかに笑ったように見えた。
「実に合理的な提案だったよ」
喉の奥が焼けるように熱くなる。
勇者は語り続ける。
「たくさんの忌み子を捕まえて実験した。身体の一部を素材にしたもの、魔力を抜き取ったもの、精神だけを剥がしたもの。何度も失敗した。何人も死んだ」
その声は、あまりにも落ち着いていた。
まるで、昔の研究記録でも読み上げているみたいに。
「そして、忌み子の幼児の魂を、この剣と融合することに成功した」
タケルは、自分の腰の剣にそっと手を置いた。
「それから僕は強くなった」
月明かりの中、その剣が冷たく光る。
あの剣。
あの、剣を抜いたのも分からないほどの斬撃を生み出す剣。
その中には、幼い忌み子の魂が封じられている。
俺の呼吸が浅くなる。
「今でも反省しているよ」
その言葉に、一瞬だけ耳を疑った。
だが、次の言葉で全身の血が凍る。
「しかし、忌み子も、自分の力に慣れて嬉しいだろう」
…何を言っている。
勇者は、穏やかな声のまま続ける。
「どうせ彼らは社会から嫌われ、恐れられ、まともに生きられない。だったら、僕の力の一部になったほうが意味がある」
川の音が遠くなる。
「僕は後悔していない」
その一言で、すべてが確定した。
やはり、この勇者は俺の、俺達の敵だ。
目の前にいる男は、優しくも正しくもない。
ただ、自分の正義と力のためなら、他人の命も魂も踏みにじれる化け物だ。
モカを壊したのは、間違いなくこいつだ。
俺の胸の中で迷いが消える。
残ったのは、冷たく澄んだ殺意だけだった。
絶対に殺さなくては。
この男だけは。
どんなことをしてでも。
「同じ勇者として君にも覚えたほうがいいと思って、この話をしたんだ。まあ、君も力不足を感じてきたら僕を頼るといい。僕と同じことをしてもいいし、他の方法だって教えられる」
俺は膝の上で拳を強く握りしめながら、月明かりに照らされた勇者の横顔を、黙って見つめていた。
この夜、なかなか寝付けなかった。
天幕の中に横になっても、目を閉じるたびに勇者の声が蘇る。
静かな声だった。穏やかな表情だった。まるで、ただ昔話でもするかのように、自分が何をしてきたのかを語っていた。
忌み子を捕まえたこと。実験したこと。失敗したこと。幼い魂を剣に封じたこと。
そのどれもが、人の口から語られるべき内容ではなかった。
あまりにも軽い。
あまりにも自然だった。
そこに罪悪感はあったのかもしれない。反省しているとも言った。だが、あれは反省ではない。ただ、自分の過去を整理して、都合のいい言葉に置き換えているだけだ。
勇者の存在、そのすべてが嫌悪に値した。
人を助けるところも。穏やかに笑うところも。村人に感謝されるところも。仲間たちに信頼されているところも。
その全部が、醜く見えた。
善人の仮面を被った化け物。
自分の力のために幼い命を喰らいながら、それでもなお勇者として振る舞う男。
吐き気がした。
モカのことを思い出す。
あの細い肩。あの笑い方。あの、子守唄を歌う優しい声。
そのすべてが、あの勇者のせいで壊された。
俺は拳を握りしめた。毛布の下で、爪が食い込むほど強く。
殺す。
もう迷いはない。あの男を殺す。
それだけが、俺をここまで動かしてきた理由であり、これから先も俺を動かす唯一のものだった。
けれど、どう殺す。
勇者は強い。強すぎる。
あの剣の溜めの一瞬。そこだけが見えた綻びだ。だが、それを狙うには、もっと近くに行かなければならない。もっと自然に、違和感なく、勇者の間合いに入る必要がある。
そして、一撃で仕留めなければならない。
失敗した瞬間に、俺は死ぬ。
それだけははっきりしていた。
結局、朝方までほとんど眠れなかった。




