41 オーク討伐作戦2
次の日も、次の日も、勇者たちは森へ攻撃を仕掛けた。
朝になると、まだ薄暗いうちから砦の中が動き出す。騎士たちは武具を整え、食事をかき込み、馬に水をやる。勇者一行もまた、当たり前のように支度を済ませて森へ向かっていく。
そして夕方になると、また戻ってくる。
泥と血にまみれて。
もちろん、負傷者の数も日に日に増えていた。
最初は浅い切り傷や打撲が多かったが、日を追うごとに傷は深くなり、運び込まれる人数も増えていく。腕を吊った兵、脚を引きずる兵、顔色をなくして担架に横たわる兵。
それでも、不思議なことに砦の空気は絶望には傾かなかった。
成果は出ているようだった。
森の外縁にいたオークの群れは着実に削られ、砦へ押し寄せる気配も減っている。偵察の報告では、敵の動きが明らかに鈍ってきているらしい。騎士たちも、「あと少しだ」「勇者様がいればいける」と口にするようになっていた。
その言葉を聞くたびに、俺の胸の奥はざわついた。
このままでいいのか?勇者を殺さなくていいのか?
砦の中でけが人の手当をしながら、何度も何度も自問した。
目の前の男たちは、勇者に救われている。命を拾い、希望を持ち、明日も戦えると思っている。俺自身も、こうして安全な場所で生きていられるのは、結局のところ勇者が前線で敵を押し返しているからだ。
では、その勇者を殺すのか。
いや、モカのためにも殺さなければならない。
それは変わらない。けれど、今の俺には、勇者に近づく手段がない。砦の中で手当をしているだけでは、勇者の本当の姿も、隙も、何も見えてこない。
なにか方法を探るためにも。
俺は、前線に出るしかないと考え始めていた。
ただし、戦うためではない。
けが人の治療なら、役に立てる。少なくとも、それを理由に前線へ近づくことはできるはずだ。
という言い訳じみた理由を頭の中で並べ、決意を固める。
そう決めた日の夕方、勇者たちが戻ってきたあと、俺はタケルのところへ向かった。
彼は砦の奥、騎士団の天幕の横で副団長と話をしていた。今日の戦果の確認だろう。ミレアは少し離れた場所で座り込み、疲れたように水を飲んでいる。バルグは斧の刃こぼれを確かめ、シェリスは矢筒の中身を数え、ドグは無言で盾を洗っていた。
タケルが俺に気づく。
「レンくん?」
俺は一歩進み、深く頭を下げた。
「タケルさん。お願いします。俺も前線に行かせてください」
その場の空気がわずかに止まる。
副団長が眉をひそめた。ミレアも顔を上げる。
タケルだけが、すぐには何も言わなかった。
俺は続ける。
「戦うつもりはありません。けが人の治療くらいならできます。応急処置だけでも役に立てるはずです。お願いします!」
言い終えてから、自分の声が思っていた以上に必死だったことに気づく。
タケルはしばらく俺を見ていた。
「…危ないよ」
静かな声だった。
「前線は、砦の中とは違う。治療をしている余裕すらないかもしれないし、君自身が怪我をするかもしれない」
「それでもです」
即答した。
ここで引くわけにはいかない。
「俺は、後ろにいるだけじゃ落ち着かないんです」
それは半分、本音だった。
もう半分は、もちろん違う理由だ。
タケルは困ったように少しだけ笑う。
「正直だね」
「本気です」
副団長が口を挟む。
「勇者様、反対です。戦えぬ者を前に出す必要はありません」
もっともな意見だ。
だが、ミレアが小さく言った。
「でも、治療係が近くにいると助かるのは本当だよ。最近は私の魔力もだいぶ減ってるし」
バルグも斧を肩に担ぎながら笑う。
「俺は別にいいんじゃねぇかと思うぜ。後ろからついてくるだけならよ」
シェリスは相変わらず感情の読みにくい顔でこちらを見たあと、短く言う。
「邪魔しないなら」
ドグは盾を洗う手を止めずに、ぼそりと一言だけ落とした。
「守る対象が増える」
それは反対とも、慎重論とも取れる言葉だった。
タケルは腕を組んで考え込んだ。俺は頭を下げたまま、返事を待つ。
時間が妙に長く感じられる。焚き火のはぜる音だけがやけに大きかった。
やがて、タケルが息を吐く。
「…条件がある」
俺は顔を上げた。
「はい」
「前に出すぎないこと。必ず騎士団の後方、もしくは僕たちの視界の中にいること。自分から敵に近づかないこと。危ないと思ったらすぐに下がること」
一つひとつ、ゆっくりと確認するように言う。
「そして、無理だと思ったら、その場で砦に戻す。いいね?」
副団長はまだ納得しきれていないようだったが、勇者本人が言う以上、強くは反対しなかった。
俺はすぐに頷いた。
「分かりました」
「本当に?」
タケルの目が、真っ直ぐにこちらを見る。
試されている。
「はい。約束します」
しばらくして、タケルは小さく笑った。
「そこまで言うなら、明日から一緒に来ていいよ」
その言葉を聞いた瞬間、胸の奥が熱くなる。
ようやく、前に出られる。
勇者のそばへ行ける。
もっと近くで、もっと詳しく、あの男を見られる。
それは、機会が増えるということでもある。
ミレアが立ち上がって杖を抱え直しながら言った。
「じゃあ、明日は私の後ろあたりにいてね。けが人が出たら手伝ってもらうかも」
バルグは大きく笑う。
「無茶だけはすんなよ、通訳屋」
シェリスは小さく肩をすくめた。
「矢の前に飛び出さないで」
ドグは無言のまま、ほんの少しだけこちらを見ていた。
副団長だけは最後まで渋い顔だったが、それでも言った。
「…勇者様の判断に従う。だが、死ぬなよ」
俺は深く頭を下げた。
「ありがとうございます」
その夜、天幕に戻ってからも、胸の鼓動はなかなか収まらなかった。
明日から、俺は前線に出る。
治療のため。そして、勇者をもっと近くで見るため。
次の日。
約束どおり、俺は勇者たちに同行した。
朝の砦は、いつも以上に慌ただしかった。兵たちは無駄口を叩かず、それぞれの武具を確認し、食料袋を締め、革紐を結び直している。朝靄の中に、鉄と革と汗の匂いが混じっていた。
俺は最低限の荷物だけを背負い、腰に短剣を差し、水袋を確認する。手は少し震えていたが、それを悟られないように何度も深呼吸した。
いよいよ前線だ。
これまで砦の中からしか見られなかったものを、この目で見る。
勇者の戦いも、オークの群れも、そのすべてを。
そして、もし本当に機会があるなら。
その考えを胸の奥に押し込み、俺は隊列の後方に入った。
森へ向かう。
最初のうちは、まだ光が届いていた。木々の間から朝日が差し込み、湿った土の匂いと、鳥の声が耳に入る。だが、一歩一歩奥へ入るたびに、空気は重くなっていった。
大森林。
砦から見た時よりも、実際に中へ入ると圧迫感がすごい。幹は太く、枝は高く、葉は光を遮るように密集している。地面には根が這い、苔と落ち葉が積もり、少し歩くだけで靴が泥を含んだ。
前方には騎士団、その少し先に勇者一行。俺はミレアの後方、騎士団の後ろ寄りを歩く。
誰も大きな声を出さない。
鎧の擦れる音と、湿った土を踏む足音だけが続く。
やがて、タケルが小さく言った。
「くるぞ」
その一言で、空気が変わった。
騎士たちが一斉に構えを取る。槍が前へ出され、盾が並ぶ。バルグは斧を肩から外し、シェリスはすでに弓に矢をつがえている。ドグは無言で前へ出て、大盾を立てた。ミレアは杖を軽く握り直す。
次の瞬間。
森の奥から、低く濁った咆哮が響いた。
オーク。
茂みを押しのけるようにして現れたそれは、以前遠目に聞いた説明よりもはるかに大きく、醜悪だった。筋肉で膨れ上がった四肢、灰緑色の皮膚、粗末だが実用的な武器。木槍や石斧を持った個体が何体もいる。
目つきは獣のようだが、動きは明らかにただの魔物ではない。集団として動いている。
騎士団がぶつかる。
金属音、叫び声、木が折れる音。
森の静けさは一瞬で砕け散った。
俺は後方から、けが人が出ないかを見ながら、必死に周囲を追う。だが視界は悪い。木が多く、敵も味方も入り乱れている。
その中で、勇者の一行だけが妙に鮮明に見えた。
バルグは斧を振るい、オークを真正面から押し返している。シェリスの矢は音もなく飛び、木陰から出てきた敵の首や目を正確に射抜いていく。ドグは盾を使って突進を受け止め、ミレアは短い詠唱とともに火と衝撃を走らせる。
そしてタケル。彼は前線のさらに前にいた。
剣を握る。
そこで、初めて気づいたことがある。
勇者タケルが攻撃する前には、必ず溜める動作がある。
ほんの一瞬。
呼吸を落とし、腰を沈め、視線を一点に定める。まばたきほどの短さだが、確かにある。
その直後、剣が走る。
いや、走るという表現すら正確じゃない。
剣を抜いたのも分からない間に、敵が死んでいくのだ。
目の前のオークの胴が真横に裂ける。
別の個体の首が落ちる。
次の瞬間には、さらにその後ろにいた敵まで倒れている。
剣閃を見た、と言い切れる場面はほとんどなかった。結果だけがそこに残る。血と、崩れ落ちる死体と。
だが、今の俺には分かった。
攻撃の前に、確かに溜めがある。
もし。もし、その瞬間に。勇者が呼吸を落とし、腰を沈めたその一瞬に、喉元に刃を入れられたら。
これなら、その間に殺せるかもしれない。
思考が冷たく研ぎ澄まされる。
俺の手は、無意識に短剣の柄に触れていた。
今か。
いや、まだ距離がある。もっと近くで。もっと確実に。
そう考えた直後、目の前で騎士が吹き飛ばされた。
「っ!」
太ももを切られて倒れた若い騎士だった。オークの斧を受けて地面に転がっている。
俺は反射的に駆け寄った。
傷は深い。血が止まらない。
「押さえてろ!」
近くの兵に怒鳴り、俺は薬草を潰して傷口に押し込み、布を巻く。手が血で濡れる。だが、恐怖より先に体が動いた。
その時、横を影が過ぎた。
タケルだった。
倒れた騎士に振り下ろされそうになっていたオークを、一瞬で斬り捨てる。
「大丈夫?」
その声は、戦場の中だというのに、不思議なくらい落ち着いていた。
俺が答えるより先に、タケルは別の敵へ向かって駆けていった。
なんなんだ、こいつは。
昨日まで、俺が見てきた勇者は、村人を助け、井戸を直し、橋を繕い、泣いている子どもに優しく笑いかける男だった。
道に迷った旅人に道を教え、病人に薬を運び、疲れた兵に気を配り、仲間の疲労も見逃さない。
そして今、目の前では戦場の最前線で誰よりも多くの敵を殺している。
優しい。強い。頼もしい。
そのすべてが、俺の知っているモカを壊した男と結びつかない。
本当にモカをあんな目に遭わせたのは、この男なのか?
また、その考えが頭をよぎる。
いや、違う。
手紙はあった。ロジャードさんも忠告した。モカは苦しみ、そして死んだ。
だが、それでも。
目の前の勇者を見ていると、どうしても迷いが生まれる。
もし、誤解だったら?
もし、本当に誰かが勇者を陥れようとしていただけだったら?
その瞬間。
タケルがまた溜める動作に入った。
敵との間合いを測るように、ほんの一瞬、体を沈める。
今だ。今なら。そう思った。
だが、足が出なかった。
短剣の柄を握る手には力が入っているのに、体が動かない。
目の前にいるのは、仇かもしれない。
だが同時に、今この場で味方を守っている男でもある。
結局、勇者を殺せなかった。
その一瞬の迷いのうちに、タケルの剣はまた敵を裂いていた。
戦いはしばらく続き、やがて騎士団が押し返し始める。オークたちは森の奥へ後退していった。
撤収の合図が出る。
負傷者を運び、息を整え、砦へ戻る。
俺は血のついた手を見下ろしながら、ただ黙って歩いた。
砦に戻っても、胸の中は少しも軽くならなかった。
機会はあった。
殺せたかもしれない。
それなのに、俺は動けなかった。
勇者を殺したい気持ちは、確かにある。
けれど、その刃を振るいきるための何かが、今の俺には足りなかった。
砦の門が開き、夕方の光が差し込む。
俺はその中へ戻りながら、胸の奥の迷いをどうしても振り払えずにいた。




