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中堅冒険者 レン・サトウ  作者: なみなみくん
第二章
40/40

40 オーク討伐作戦1

 本格的な戦いの前夜。

 砦の中には、昼間とはまた違う緊張が漂っていた。


 日が沈み、森の向こうが黒く塗り潰されていくにつれて、兵たちの声も自然と小さくなっていく。焚き火の明かりがあちこちで揺れ、鎧の手入れをする音や、刃を研ぐ音が静かに響いていた。


 食事は出されたが、いつもより会話は少ない。皆、明日のことを考えているのだろう。

 風が吹くたびに、森の匂いが砦の中まで流れ込んでくる。湿った土と、葉の青臭さと、その奥に潜む何か獣じみた気配。


 今夜を越えれば、戦いが始まる。


 しばらくして、勇者一行と騎士団の主だった者たちが一つの大きな天幕に集められた。

 俺も呼ばれた。


 テントの中には大きな机が置かれ、その上には昼間見たのと同じ地図が広げられている。

 ただし、今度はもっと細かく印が書き込まれていた。赤い石、黒い木片、白い紐。敵の位置、味方の進路、補給路、撤退線。すべてが一目で分かるようになっている。

 副団長のオルセインが低い声で言った。


「これより、明日の作戦を最終確認する」


 テントの中にいる全員が静かに頷く。

 タケルは地図の前に立ち、腕を組んでいた。火の明かりが横顔に影を作っている。


「まずは敵の前衛を潰す」


 彼が口を開いた。

 その一言で、場の空気がさらに引き締まる。

 副団長が地図の西側を指す。


「こちらが、森の外縁部で確認されている前衛群です。数は三十から四十。偵察によれば、木槍と粗末な斧で武装している個体が多い」


 バルグが鼻を鳴らした。


「それくらいなら正面から叩き潰せそうだな」


 だがシェリスがすぐに口を挟む。


「数だけで見ないほうがいい。森の際にいる時点で、誘い込む役目かもしれない」


 副団長も頷く。


「その通りだ。迂闊に追えば、奥から増援が来る可能性が高い」


 タケルが地図の上に指を置く。


「だから、前衛群は潰すけど、追い込まない。森の外に引きずり出して、一気に叩く」


 ミレアが杖の先で別の地点を指した。


「ここに私が入って、火で動きを止める。逃げ場を狭めて」


 シェリスが続ける。


「私が側面から射る。後ろへ下がろうとする個体を落とす」


 ドグは短く言った。


「前は俺が止める」


 大盾を前に出し、敵の突進を受け止めるつもりなのだろう。

 バルグは斧を軽く持ち上げて笑った。


「で、最後に俺が叩き割るってわけか」


 勇者の一行の役割分担は、すでに体に染みついているらしい。言葉数は少ないのに、噛み合っていた。

 副団長が今度は騎士団の配置を説明する。


「騎士団は二手に分かれる。ひとつは正面で前衛群を押さえる部隊。もうひとつは左右に展開し、森からの増援が出てきた場合に備える」

「無理に森の中へは入らない」


 タケルが静かに言う。


「明日は練習試合じゃない。外にいる連中を確実に減らし、中央の本隊に圧をかけるための一日だ」


 その言葉に、騎士たちも真剣な顔で頷いた。

 ミレアが少しだけ肩をすくめる。


「地味だけど、大事だよね」

「地味な仕事ほど大事だ」


 タケルの返事は短かった。

 俺は、そのやり取りを少し離れた場所から見ていた。


 地図の上では、明日の戦いがまるで盤上の駒のように整理されている。けれど、実際には人が死ぬのだ。騎士も、オークも、もしかしたら。

 そんなことを考えていると、不意にタケルがこちらを見た。


「レンくん」


 名前を呼ばれて、背筋が伸びる。


「はい」

「君は砦で待機していてくれ」


 その言葉に、テントの中の数人が俺を見る。


「戦場には出さない。明日の戦いでは、言葉の力は必要ないし、君を前に出す理由もない」


 副団長も同意するように頷いた。


「砦の中なら比較的安全だ。補給や負傷兵の整理で人手が要るかもしれんが、直接戦う必要はない」


 俺は一瞬だけ、返事に迷った。

 正直に言えば、勇者のそばにいれば何か機会が見えるかもしれない、という考えもあった。


 だが、明日のような大規模戦で俺が動けば、足手まといになるだけだ。

 ここで無理をして死んでも、何にもならない。


「……分かりました」


 そう答えるしかなかった。

 タケルは穏やかに頷いた。


「ありがとう。無理に付いてきても危ないだけだからね」


 その気遣いが、なぜだか胸に刺さる。

 こいつは本気で、俺を守るつもりでいる。


 だからこそ、余計に分からなくなる。

 モカのことが。あの手紙のことが。勇者の正体が。

 バルグが大きくあくびをして言った。


「じゃあ、やることは決まったな」


 ミレアも杖を抱え直す。


「明日は早いし、ちゃんと寝ないとね」


 シェリスは地図を最後に一瞥し、静かに立ち上がった。ドグは無言で盾を担ぐ。

 それぞれが自分の持ち場を理解し、準備を終えている。

 最後に、タケルが全員を見回した。


「明日、ここで生きて戻ることだけを考えて動いてくれ」


 派手な言葉は何もない。

 だが、その一言は妙に重かった。


 テントの外に出ると、夜はすっかり深くなっていた。

 森は黒い壁のようにそびえ、砦の篝火だけが小さく地面を照らしている。


 兵たちはそれぞれの持ち場へ戻り、明日に備えていた。誰も大きな声を出さない。笑い声も少ない。ただ、息を潜めるような静けさだけがあった。

 俺は割り当てられた天幕へ向かいながら、何度も振り返って森を見た。


 あの中に、オークがいる。

 明日、勇者たちはそこへ向かう。

 そして俺は、砦で待機する。

 戦いに出ない。殺す機会もない。

 それなのに、胸の鼓動だけはやけに速かった。


 本格的な戦いの前夜。

 眠れる気がしなかった。


 朝の冷たい空気の中、勇者たちは森の中へ入っていった。


 砦の門が開き、騎士団と勇者一行が列を整えて進んでいく。森の入口は薄暗く、朝だというのに奥は黒く沈んで見えた。木々が高く密集しているせいで、少し入っただけで人の姿はすぐに影に呑まれていく。


 タケルは出発の前、砦の前で一度だけ振り返った。俺の方を見たのか、それとも砦全体を見渡しただけなのかは分からない。ただ、何事もないような穏やかな顔のまま、すぐに前へ向き直った。


 ミレアが杖を肩に担ぎ、バルグが斧を背負い直し、シェリスは弓弦を指で弾いて確認する。ドグは大盾を構え、先頭の騎士たちの少し後ろについた。

 やがて、その姿は森の中へ消えた。


 砦に残されたのは、補給係、見張り、治療を手伝う者たち、そして俺のように戦いに出ない者たちだ。

 最初の数時間は、妙に静かだった。


 遠くで鳥の鳴き声がする。風が木柵を揺らし、見張り台の旗がはためく。砦の中では、誰もが落ち着かない様子で、それぞれの仕事をしていた。補給用の樽を運ぶ者、治療用の布や水を用意する者、鍋を火にかけて温かい飲み物を作る者。


 俺も落ち着かず、自然と治療用の薬草や包帯の場所を確認していた。何もしないでいると、余計なことばかり考えてしまいそうだったからだ。


 昼を過ぎた頃から、時々、森の奥の方からかすかな音が聞こえるようになった。

 風かもしれない。

 木が倒れる音かもしれない。


 だが時折、それは剣戟のようにも、人の叫び声のようにも聞こえた。砦の兵たちもそのたびに顔を上げ、森の方を見た。

 時間が経つほどに、空気は重くなっていく。


 そして夜が近づく。

 日が傾き始め、森の影がさらに濃くなった頃、見張り台の兵が声を上げた。


「戻られたぞ!」


 その声に、砦の中の空気が一気に動いた。

 門の方へ人が集まる。俺も思わずそちらに足を向けた。


 最初に見えたのは、騎士たちだった。

 泥と血に汚れた鎧。折れた槍。肩を貸し合って歩く者。何人かは担架に乗せられている。


 その後ろに、勇者一行の姿が見えた。

 タケルは先頭にいた。黒い髪も服も血で汚れているが、歩みに乱れはない。剣はすでに鞘に収まっていた。ミレアのローブの裾は裂け、バルグの腕には深い切り傷が走っている。シェリスは頬に血がついていたが、弓はしっかり握られていた。ドグの盾には、何かに強く打ち据えられた跡が無数についている。


 それでも、彼らは戻ってきた。

 砦の中から歓声が上がる。


「勇者様だ!」

「戻られた!」

「やったぞ!」


 だが、その歓声のすぐ隣には、痛みにうめく声もある。負傷者は多い。思っていた以上に。


 砦の門が閉じられると同時に、治療所の前は修羅場になった。俺もすぐに呼ばれ、薬草や水、包帯を運ぶのを手伝った。


 薬草をすり潰し、傷に貼る。布を裂いて即席の包帯にする。血を拭い、腕を押さえ、足を固定する。


 幸い、こういうことには慣れていた。宿屋で働いていた頃とは比べものにならないが、薬草採取の依頼や傭兵の仕事で負傷者を見た経験はある。ゲンシさんに習った応急手当の知識も体に染みついている。


「こっちに清潔な布!」

「水が足りない!」

「この傷は深い、縫い針を!」


 怒号が飛び交う中、ひたすら手を動かす。

 血の匂いが濃い。鉄のような、生温い匂い。火にかけた湯気と、薬草の青い匂いが混ざって、治療所の中はむせ返るようだった。


 ある騎士は腕をざっくり切られていた。別の騎士は脚に槍のようなものを受けたらしく、血が止まらない。顔色の悪い若い兵は、ただ震えながら座り込んでいた。


 俺は黙って、その一人ひとりに手当をしていった。

 その間にも、周囲からいろいろな声が聞こえてくる。


「勇者様が、前に出た途端に敵が倒れていったらしい」

「いや、倒したなんてもんじゃねぇ。百体は斬ったって話だぞ」

「本当かよ……」

「本当だ。前衛の群れをほとんど一人で崩したって」


 百体。

 噂に尾ひれはつくものだ。だが、今の砦の空気からすると、まるきり誇張とも言い切れないのが恐ろしい。


 俺は手当をしながら、ふと治療所の奥を見た。

 そこではミレアが負傷した騎士に回復魔法をかけていた。顔色は悪い。かなり魔力を使ったのだろう。バルグは傷口を布で巻かれながらも、騎士たちと今日の戦いについて話している。シェリスは弓の手入れをしながら無言で座り、ドグは砦の柵の補強を手伝っていた。


 タケルは砦の中心に立ち、騎士団の副団長と短く言葉を交わしていた。疲れは見えるが、声は落ち着いている。


 善戦したみたいだ。

 いや、善戦どころではないのかもしれない。あれだけの負傷者を出しながら、それでも砦の中の空気が敗北ではなく生還と勝利に近いものになっているのは、勇者がそれだけの戦果を上げたからなのだろう。

 処置を終えた騎士の一人が、かすれた声で言った。


「勇者様がいなかったら…俺たち、全滅してた」


 それを聞いて、胸の奥がざわつく。

 やはり、勇者の力は本物だ。化け物じみている。

 それを改めて思い知らされる夜だった。



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