36 契約終了
そろそろロンド商会との契約を終わらせようと考えていた。
ここ最近、胸の奥に引っかかっている違和感は大きくなるばかりだった。商会での仕事は順調だ。むしろ順調すぎるくらいだった。書面の翻訳も、商談の通訳も、南方諸国との契約も、どれも目に見える成果となって現れている。ギルさんをはじめ、商会の人々も俺を信頼してくれていた。
だが、それと同時に、「言葉の勇者」という噂も大きくなっていた。
勇者。
その二文字が、どうしても胸をざらつかせる。
有名になりすぎた。
このままでは目立ちすぎる。勇者を狙うどころか、先にこっちの存在を知られて終わるかもしれない。だから、今の仕事がひと段落したら、ギルさんに話をしようと思っていた。短期契約を終える、それだけのことだ。
そう考えながら、いつものように作業部屋で書類を整理していたときだった。
扉が勢いよく開いた。
思わず顔を上げると、そこにはギルさんが立っていた。いつもはきちんと整っている髪も少し乱れ、呼吸も荒い。明らかにただ事ではない。
「レン様!勇者様がお見えです!急いでください!」
一瞬、何を言われたのか分からなかった。
勇者。
その言葉だけが、頭の中で強く響く。
すぐに立ち上がる。足が勝手に動いた。急いで応接室に向かう。
廊下を歩きながら、心臓がうるさいほど鳴っているのが分かる。手のひらに汗がにじむ。呼吸が浅くなる。
落ち着け。
今ここで取り乱したら終わりだ。
扉の前に立つ。ギルさんが静かにノックをしてから開けた。
中に入る。
そこには、黒い髪の男が座っていた。
穏やかな顔。自然体の姿勢。だが、部屋の空気そのものがその男を中心に引き締まっているように感じる。
剣の勇者で間違いない。
タケル・タナカ。
モカの仇。
喉の奥が熱くなる。胸の底から、どす黒い感情が込み上げてきた。今すぐこの場で喉元に飛びかかりたい衝動に駆られる。けれど、それを表に出すわけにはいかない。
俺はその殺意を押し込め、顔を作り、静かに席に着いた。
「レンくん。久しぶりだね」
柔らかな声音だった。まるで旧友に再会したような、そんな自然な口調。
「タケルさんこそ、お久しぶりです」
自分でも驚くほど、声は落ち着いていた。
タケルは俺の顔をじっと見つめていた。探るようでもあり、試すようでもある視線。
「有名になったね」
その言葉に、心臓が一つ強く跳ねた。
「有名になりすぎた」
タケルは足を組み、少しだけ口元を緩めた。
「前にも言っただろう。君はその能力を使いすぎてはいけない」
昔、ギルドの応接室で言われた忠告が脳裏によみがえる。
大きな組織の下でその能力を使わないほうがいい。
君は君自身を守れない。
あの時と同じだ。
「君は今、狙われている」
その言葉に、俺は眉をわずかに動かした。
「……狙われている?」
「そう。言葉の勇者なんて呼ばれて、各国の商会や貴族の間で噂になっている。目立ちすぎたんだ。君の能力は便利だ。便利すぎる。欲しがる連中はいくらでもいる」
淡々とした説明だった。けれど、その内容は十分すぎるほど現実味があった。
商会で働いていても感じていた。視線。噂。関心。
それが今、この男の口からはっきりと言葉になる。
「君には戦う力がない」
その一言が、胸に刺さる。
分かっている。
俺は勇者じゃない。いや、言葉の勇者なんて呼ばれていても、剣の勇者のように人外じみた力があるわけじゃない。正面から戦えば死ぬのは俺の方だ。
死ぬならまだしも、この先一生奴隷のようにこき使われる可能性だってある。
タケルは静かに続ける。
「どうだ? 僕と共に行かないか?」
その言葉に、一瞬だけ思考が止まった。
勇者と共に行く。
つまり、あの男のそばに身を置く。
今の俺にとって、それは最も危険な提案であると同時に、最も魅力的な提案でもあった。
これは、好機かもしれない。
勇者と共に行動すれば、必ず何かしらの隙が見えるはずだ。
四六時中、護衛や仲間に囲まれていたとしても、寝る時、移動の時、ふとした瞬間、どこかに綻びはある。絶対にある。
その時に殺せばいい。
ここで断って、また遠くから追い続けるよりもずっといい。
すぐ目の前に、仇がいる。ならば、その誘いに乗るしかない。
俺は表情を崩さないようにしながら、慎重に口を開いた。
「…僕でよければ」
タケルの目が少しだけ細くなる。
「本当かい?」
「はい。正直に言うと、最近は自分の立場にも少し不安があって…。タケルさんのもとなら、安心できるかもしれません」
自分で言っていて吐き気がした。
安心?こいつのもとで?
だが、必要な嘘だった。
タケルはゆっくりと頷いた。
「そう言ってくれて嬉しいよ。君みたいな人材は、放っておけないからね。それに、友人として失うのも嫌だからね」
その笑顔を見ていると、喉の奥に熱いものがこみ上げてくる。
よくもそんな顔ができる。
よくも、何もなかったように笑える。
モカを、あんな目に遭わせておいて。
俺は手を膝の上で強く握りしめた。だが、顔には出さない。ここで感情を見せるわけにはいかない。
タケルは椅子から立ち上がった。
「じゃあ、決まりだ。詳しい話は追って伝えるよ。君の荷物もあるだろうし、すぐにとは言わない」
「分かりました」
俺も立ち上がる。
ギルさんは少し離れた場所で、緊張した顔をして成り行きを見守っていた。勇者と俺が知り合いだったことにも驚いているらしい。
タケルは去り際に振り返った。
「レンくん。今度こそ、君をちゃんと守る」
その言葉に、背筋が凍った。
守る?何を今さら。お前が全部壊したくせに。
扉が閉まり、勇者の気配が遠ざかる。
ようやく息ができた。
胸の奥で、どす黒い感情が静かに燃え続けている。
提案は受け入れた。
ここからだ。
ここから、勇者のそばで機会を探す。
そして、必ず殺す。
勇者が去ったあと、応接室には妙な静けさが残った。
さっきまでそこにいた男の気配だけが、まだ部屋の空気に染みついているような気がした。
ギルさんが、少し遅れて口を開く。
「…レン様」
その声には、驚きと戸惑いと、少しの警戒が混じっていた。
俺はゆっくりと振り向いた。
「すみません。急な話で」
「いえ…その…」
ギルさんは言葉を選ぶように視線を泳がせたあと、深く息を吐いた。
「レン様は、あの勇者様とお知り合いだったのですね」
「以前、一度だけ話したことがあります」
嘘ではない。
ただ、その間にあるものを何一つ言っていないだけだ。
ギルさんは椅子に腰を下ろし、こめかみを軽く押さえた。
「正直に申し上げると、少し驚きました。勇者様のほうから直接迎えに来られるとは…」
俺は黙っていた。下手なことを言えば、余計な疑いを招く。
しばらく沈黙が流れる。
やがて、ギルさんは俺をまっすぐ見た。
「…行かれるのですか」
短い問いだった。
けれど、その中にはいろいろなものが込められていた。
俺は、ゆっくりと頷いた。
「はい」
たったそれだけの返事なのに、口にした瞬間、胸の奥が少し痛んだ。
ギルさんは、ほんのわずかに目を伏せた。
「そうですか…」
机の上に置かれた帳簿に手を伸ばしかけて、止める。
「本当は、もう少し一緒に働いていただきたかったです」
その声音は穏やかだった。
責めるでもなく、引き留めるでもなく、ただ静かに惜しむような口調だった。
「レン様が来てから、商会は大きく変わりました。契約は増えましたし、南方との道も開けました。なにより、皆が助かっていました」
俺はうつむきそうになるのをこらえた。
役に立てていた。ここでは確かに。
薬草採取でもなく、血まみれの傭兵仕事でもなく、ただ言葉を使って、誰かの役に立てていた。
それが少しだけ、嬉しかった。
「俺も…」
喉の奥が少し詰まる。
「俺も、この生活は楽しかったです」
言葉にすると、急に現実味が出た。
楽しかった。本当に。
朝、商会に行って。机に向かって書類を読み。ギルさんと商談に出て。知らない国の言葉を訳して。帰り道に市場を歩いて。
そんな日々が、いつの間にか当たり前になっていた。
もし、モカが生きていたら。
もし、勇者のことを知らなかったら
俺は、こういうふうに生きていけたのかもしれない。
そんな考えが、ほんの一瞬だけ頭をよぎる。
だが、すぐに消した。もう戻れない。
ギルさんは立ち上がり、棚から書類を取り出した。
「では、契約の終了手続きをしましょう」
机の上に書類が置かれる。
短期契約終了の書面。退職理由の記載欄。未払い報酬の精算確認。
全て事務的な書類だ。
だが、それが妙に重く見えた。
「本来なら契約満了までいていただきたいところですが、相手が勇者様では、こちらも無理に引き留めることはできません」
ギルさんは苦笑した。
「むしろ、商会の人間が勇者様に同行するなど、名誉なことなのでしょう」
その言葉に、俺は何も返せなかった。
名誉。
そんな言葉とは程遠い感情で、俺はこの旅に出ようとしている。
ペンを取る。契約終了の欄に、自分の名前を書く。
レン・サトウ。
紙の上に記されたその名前を見つめる。
これで、本当に終わるのだ。
ギルさんも署名をし、商会の印を押す。
「これで手続きは完了です」
静かな声だった。そして引き出しを開け、小さな革袋を取り出して俺の前に置いた。
「こちらは、最後の報酬です。前回までの未精算分と、今回の件での特別手当を含めています」
「特別手当?」
「ええ。短い間でしたが、ロンド商会に多大な利益をもたらしてくださったことへの謝礼です」
袋を持つ。ずしりとした重み。思ったより多い。
「…ありがとうございます」
「どうか遠慮なく受け取ってください。こちらの勝手な感謝です」
俺は、深く頭を下げた。しばらくして顔を上げる。
ギルさんは、いつもの穏やかな表情に戻っていた。
「レン様」
「はい」
「短い間でしたが、本当にありがとうございました」
その一言が、胸にしみる。
俺も、椅子から立ち上がった。
「こちらこそ。何も分からなかった俺を、雇ってくれてありがとうございました」
「雇った、というより…助けられていたのはこちらですよ」
ギルさんは笑う。俺も少しだけ笑った。
「また、いつかどこかで」
「ええ」
言いながら、二人とも、それがあるかどうか分からないことを知っていた。
ギルさんが手を差し出す。
俺はその手を握った。
温かい。商人の手だ。剣を握る手じゃない。人を殺す手じゃない。
そんなことを考えてしまった。
応接室を出ると、廊下の向こうに商会の職員たちが見えた。
「レン様、もう行かれるんですか?」
「らしいですよ」
誰かが小さく言う。
俺が頷くと、皆が少しずつ集まってきた。
「急ですね…」
「寂しくなります」
「書類、これから誰が片付けるんだ…」
最後の一言に、少し笑いが起きた。その空気がありがたかった。
「今までありがとうございました」
俺が頭を下げると、皆もそれぞれに言葉を返してくれた。
「こちらこそ」
「助かりました」
「お元気で」
「また戻ってきてくださいよ」
戻ることはないかもしれない。
でも、その言葉が嬉しかった。
建物の出口まで歩く。
扉を開けると、街の光と喧騒が目に入る。
ラブールの通り。行き交う人々。商人の声。荷車の車輪の音。
この生活は楽しかった。驚くほど普通で、驚くほど穏やかで。
惜しい。本当に惜しい。
けれど、ここで終わらせるしかない。
俺は振り返り、ロンド商会の建物を見上げた。
そして、静かに頭を下げた。
契約を終わらせた。それはつまり、一つの人生に別れを告げることだった。
やるべきことは終わった。
ロンド商会との契約も終えた。荷物も最低限にまとめた。もう、この街で未練を残すような用事は何一つない。
後は、勇者に同行するだけだ。
そう思うと、不思議と胸の内は静かだった。緊張もある。怒りもある。けれど、それ以上に、ようやくここまで来たのだという感覚の方が強かった。




