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中堅冒険者 レン・サトウ  作者: なみなみくん
第二章
31/40

31 机仕事

 次の朝。

 まだ空気が冷たい時間に目を覚まし、身支度を整える。


 昨日買った一張羅ほどではないが、できるだけまともな服を選ぶ。


 鏡を見る。

 顔は疲れている。それでも、目だけは前を向いていた。


 ロンド商会へ向かう。


 街が動き出す前から、商会の前にはすでに人の出入りがあった。

 荷車を押す者、帳簿を抱える者、門番と話す者。


 俺は建物に入り、受付へ向かう。


「おはようございます。冒険者の……いや、契約通訳のレン・サトウです」


 受付の女性は昨日とは別の人だったが、すぐに名簿を確認して頷いた。


「レン様ですね。担当の者を呼びます。こちらでお待ちください」


 すぐに、奥から若い男性が現れた。

 きっちりした身なりで、目つきが鋭い。


「レン様ですね。私は書面管理部のフロルと申します。本日から数日、最初の仕事は書面翻訳になります」

「よろしくお願いします」

「ではこちらへ」


 案内されたのは、商会の奥の一角。

 壁一面に棚があり、巻物や帳簿、封筒がぎっしり詰まっている。

 紙の匂いが濃い。インクと乾いた革と、古い木。机が二つ。


 そのうち一つが俺の席らしい。

 椅子に座ると、フロルが分厚い書類を机に置いた。


「今日の仕事は、これです」

「量が多いですね」

「ええ。ランデル国との取引関係書類と、南方の港町から届いた苦情文、それから、古い契約の写し。どれも急ぎです」


 急ぎ。

 その言葉だけで、心臓が少し早くなる。


「期限はどれほどですか?」

「今日中に概要だけでも。正確な全文翻訳は、明日以降でも構いません。ただし、重要箇所だけは今日中に必要です」

「分かりました」


 フロルが机にいくつか道具を並べる。

 白紙の紙束、インク壺、羽ペン、そして赤い印の入った小さな札。


「この札を机の端に置いてください。重要度の目印です。赤なら最優先。青なら通常。黒なら保留」

「なるほど」

「あと、こちら」


 フロルは細い糸で綴られた薄い帳簿を渡した。


「翻訳した文書の番号、言語、要旨、危険語句があればそれも書きます。商会は言葉で損をすることを嫌いますから」


 危険語句。

 つまり、契約を破る文言とか、罰金とか、裏条件とか。


 俺は頷いた。封筒を開ける。


 最初に出てきたのは、ランデル語の契約書。

 紙質がいい。

 文字は整っていて、金色の飾り枠がある。こういう書類ほど、細かい罠がある。

 深呼吸して読み始める。


 数量。納期。輸送方法。破損時の責任。遅延の場合の違約金。保険の範囲。

 目が滑りそうになるほど長い。だが、不思議と俺の頭は言葉を拒まなかった。

 読める。意味が入ってくる。むしろ、読めば読むほど「相手の意図」が見える。


 ここは、相手が強く出たい箇所だ。ここは、こちらに譲歩させるための柔らかい言い方だ。ここは危険だ。抜け道になっている。

 俺は赤札を置いた。


 フロルが通りかかり、札を見て眉を動かす。


「……赤ですか」

「この条項、運搬中の破損をすべてこちらの責任にしています。自然災害まで含めています」


 フロルは目を細め、書類を覗き込んだ。


「……本当だ。これは交渉し直さないと」


 俺はその部分を要約し、別紙に書き出す。

 ただ翻訳するだけではない。商会がすぐに判断できる形に変える。


 次は南方の港町からの苦情文だった。

 言葉遣いが荒い。

 商人ではなく、現場の責任者が書いたのだろう。


 読み進めると、内容はこうだ。

 荷物の梱包が甘い。箱が濡れていた。中の陶器が欠けていた。しかも補償が遅い。

 要するに、怒っている。


 俺は文面の温度を読み替える。そのまま訳せば、相手をさらに刺激する。ここは、交渉文として形を整えるべきだ。


 俺は、元の文の意味を崩さず、しかし角が立たない形で下書きを作る。

 貴商会より届いた品について、以下の点に関し確認と改善を求めます。

 今後の取引継続のため、早急な対応をお願い申し上げます。


 言葉を整えるだけで、言い争いは避けられる。


 不思議な感覚だった。

 剣を握るより、よほど現実的な戦いをしている気がする。


 ふと顔を上げると、商会の窓から光が差し込み、紙の上に細い線を落としていた。

 目が少し疲れている。


 だが、胸の奥には別の疲れがない。

 血の匂いもしない。吐き気もない。こういう仕事なら、俺はまだ人でいられる。

 そんなことを思ってしまい、俺は小さく唇を噛んだ。


 午後になる。

 古い契約の写しに取りかかる。


 文字が古い。言い回しも、今の流行と違う。

 読み解いていくと、それは昔の共同出資の契約だった。今になって揉めているらしい。

 そして、問題の箇所を見つけた。


「利益配分は平等」


 と書いてあるが、その利益の定義が曖昧だ。粗利なのか、純利なのか、税を引く前なのか後なのか。

 この曖昧さが争いを生む。


 俺はそこに青札を置き、要点を抜き出した。


 夕方。

 フロルが机に近づき、俺の書いた要約紙を手に取る。

 目を走らせ、何度か頷く。


「レン様、すごいですね」


 驚きというより、少し呆れたような声だった。

「今日中に重要箇所だけ、と言いましたが……ほとんど終わっています」

「読めましたので」

「読めたので、で済む量じゃありません」


 フロルは笑って、軽く頭を下げた。


「助かりました。ギル様にも伝えます」


 紙束を抱え、足早に出ていく。


 俺は机に残されたインクの匂いを嗅ぎながら、少しだけ背もたれに体を預けた。

 初日が終わった。疲れている。けれど、どこか手応えがあった。


 金のためだけじゃない。俺の力が、誰かの役に立つ。その事実が、久しぶりに胸の奥を静かに支えていた。


 次の日も、書面の整理だった。


 机に向かい、紙をめくり、文字を追い続ける。


 朝から晩まで同じ姿勢でいるせいか、肩と腰がじわじわと痛くなってくる。

 薬草採取のように体を動かす仕事とは、また違った疲れだった。


 背筋を伸ばし、肩を回す。

 ぱき、と骨が鳴る。


「これはこれで大変だな」


 小さく呟き、もう一度紙に目を落とす。


 午前中は、北方商人との契約書の整理だった。言葉遣いが堅く、古い表現が多い。

 昼頃になると、目が霞み始めた。俺は一度席を立ち、窓のそばへ歩く。外では荷車が行き交い、人の声が絶えない。


 商業都市ラブール。


 この街は、本当に人と金が動き続けている。


 水を飲み、深く息を吐く。そしてまた机に戻る。


 午後は、港町との契約書、商会同士の覚書、通関証明書の翻訳。

 紙の山は、最初に見たときは絶望的な高さに見えた。


 だが、一枚ずつ片付けていくと、確実に減っていく。それが、少しだけ気持ちよかった。


 休憩を挟みながら、黙々とこなす。

 夕方には目も肩も限界に近かったが、それでも手を止めなかった。


 そして三日目。

 机の上にあった書類の山は、ついに消えた。


 最後の一枚を訳し終え、羽ペンを置く。静かに息を吐いた。

 その時だった。


 後ろから足音が聞こえる。

 振り向くと、フロルが立っていた。

 彼は机の上を見渡し、少しだけ目を見開く。


「……終わったんですか?」

「はい。重要箇所はすべて要約もつけました」


 フロルは一枚ずつ紙を手に取り、目を通していく。

 しばらく沈黙。

 そして、ゆっくり息を吐いた。


「信じられませんね……」

「何がです?」

「普通、これだけの量の書類は三人で一週間かかるんです」


 俺は少し驚いた。


「そうなんですか」

「ええ。しかも翻訳だけじゃなく、危険条項まで抜き出してある」


 フロルは苦笑した。


「正直、あなたが来てくれて助かりました。ここ数週間、書面処理が溜まりすぎていて……みんな寝不足だったんです」


 その言葉を聞いたとき、周りの机を見る。確かに、疲れた顔の人が多い。

 誰かが小さく拍手をした。


「おお、終わったのか?」

「例の書類の山だろ?」


 近くの職員たちがこちらを見る。

 フロルが言う。


「ええ。全部レン様が片付けました」


 一瞬、空気が止まる。


「マジかよ」

「三日で?」

「化け物じゃないか…」


 笑い声が上がった。嫌な感じではない。どちらかというと、安心したような笑いだった。

 誰かが言う。


「助かったよ、レン様」

「これでやっと寝られる」


 俺は少し照れくさくなりながら頭を下げた。


「いえ、仕事ですから」


 そのとき、フロルが言った。


「レン様。ギル様がお呼びです」


 俺は席を立つ。

 廊下を歩き、ギルの執務室へ向かう。

 扉をノックする。


「どうぞ」


 中に入ると、ギルが机の向こうに座っていた。


「レン様」


 穏やかな笑顔だった。


「書類の件、聞きました。驚きましたよ」

「読めただけです」

「それがすごいことなんです」


 ギルは椅子にもたれ、指を組む。


「実は、次の仕事の話があります」

「次の仕事?」

「ええ」


 机の上の地図を広げる。

 ラブールから南へ伸びる街道。さらにその先に、小さな国々が点在している。


「南部諸国への遠征です」


 俺は地図を見る。


「取引ですか?」

「はい。いくつかの商会と新しい交易路を作る計画でして」


 ギルは続けた。


「ただし問題があります」

「言葉ですか」


 ギルは微笑んだ。


「その通りです」


 地図を指でなぞる。


「南部は国ごとに言語が違う。通訳がいなければ交渉にならない訳で」


 そして、俺を見る。


「そこで、レン様に同行していただきたい」


 胸の奥が少し熱くなる。


「俺で役に立つなら」

「もちろんです」


 ギルは頷いた。


「数日後に出発します。準備をお願いします」


 俺は深く息を吸った。

 仕事だ。そして金も稼げる。

 勇者を追うためにも。


「分かりました。頑張ります」


 これから忙しくなりそうだ。



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