31 机仕事
次の朝。
まだ空気が冷たい時間に目を覚まし、身支度を整える。
昨日買った一張羅ほどではないが、できるだけまともな服を選ぶ。
鏡を見る。
顔は疲れている。それでも、目だけは前を向いていた。
ロンド商会へ向かう。
街が動き出す前から、商会の前にはすでに人の出入りがあった。
荷車を押す者、帳簿を抱える者、門番と話す者。
俺は建物に入り、受付へ向かう。
「おはようございます。冒険者の……いや、契約通訳のレン・サトウです」
受付の女性は昨日とは別の人だったが、すぐに名簿を確認して頷いた。
「レン様ですね。担当の者を呼びます。こちらでお待ちください」
すぐに、奥から若い男性が現れた。
きっちりした身なりで、目つきが鋭い。
「レン様ですね。私は書面管理部のフロルと申します。本日から数日、最初の仕事は書面翻訳になります」
「よろしくお願いします」
「ではこちらへ」
案内されたのは、商会の奥の一角。
壁一面に棚があり、巻物や帳簿、封筒がぎっしり詰まっている。
紙の匂いが濃い。インクと乾いた革と、古い木。机が二つ。
そのうち一つが俺の席らしい。
椅子に座ると、フロルが分厚い書類を机に置いた。
「今日の仕事は、これです」
「量が多いですね」
「ええ。ランデル国との取引関係書類と、南方の港町から届いた苦情文、それから、古い契約の写し。どれも急ぎです」
急ぎ。
その言葉だけで、心臓が少し早くなる。
「期限はどれほどですか?」
「今日中に概要だけでも。正確な全文翻訳は、明日以降でも構いません。ただし、重要箇所だけは今日中に必要です」
「分かりました」
フロルが机にいくつか道具を並べる。
白紙の紙束、インク壺、羽ペン、そして赤い印の入った小さな札。
「この札を机の端に置いてください。重要度の目印です。赤なら最優先。青なら通常。黒なら保留」
「なるほど」
「あと、こちら」
フロルは細い糸で綴られた薄い帳簿を渡した。
「翻訳した文書の番号、言語、要旨、危険語句があればそれも書きます。商会は言葉で損をすることを嫌いますから」
危険語句。
つまり、契約を破る文言とか、罰金とか、裏条件とか。
俺は頷いた。封筒を開ける。
最初に出てきたのは、ランデル語の契約書。
紙質がいい。
文字は整っていて、金色の飾り枠がある。こういう書類ほど、細かい罠がある。
深呼吸して読み始める。
数量。納期。輸送方法。破損時の責任。遅延の場合の違約金。保険の範囲。
目が滑りそうになるほど長い。だが、不思議と俺の頭は言葉を拒まなかった。
読める。意味が入ってくる。むしろ、読めば読むほど「相手の意図」が見える。
ここは、相手が強く出たい箇所だ。ここは、こちらに譲歩させるための柔らかい言い方だ。ここは危険だ。抜け道になっている。
俺は赤札を置いた。
フロルが通りかかり、札を見て眉を動かす。
「……赤ですか」
「この条項、運搬中の破損をすべてこちらの責任にしています。自然災害まで含めています」
フロルは目を細め、書類を覗き込んだ。
「……本当だ。これは交渉し直さないと」
俺はその部分を要約し、別紙に書き出す。
ただ翻訳するだけではない。商会がすぐに判断できる形に変える。
次は南方の港町からの苦情文だった。
言葉遣いが荒い。
商人ではなく、現場の責任者が書いたのだろう。
読み進めると、内容はこうだ。
荷物の梱包が甘い。箱が濡れていた。中の陶器が欠けていた。しかも補償が遅い。
要するに、怒っている。
俺は文面の温度を読み替える。そのまま訳せば、相手をさらに刺激する。ここは、交渉文として形を整えるべきだ。
俺は、元の文の意味を崩さず、しかし角が立たない形で下書きを作る。
貴商会より届いた品について、以下の点に関し確認と改善を求めます。
今後の取引継続のため、早急な対応をお願い申し上げます。
言葉を整えるだけで、言い争いは避けられる。
不思議な感覚だった。
剣を握るより、よほど現実的な戦いをしている気がする。
ふと顔を上げると、商会の窓から光が差し込み、紙の上に細い線を落としていた。
目が少し疲れている。
だが、胸の奥には別の疲れがない。
血の匂いもしない。吐き気もない。こういう仕事なら、俺はまだ人でいられる。
そんなことを思ってしまい、俺は小さく唇を噛んだ。
午後になる。
古い契約の写しに取りかかる。
文字が古い。言い回しも、今の流行と違う。
読み解いていくと、それは昔の共同出資の契約だった。今になって揉めているらしい。
そして、問題の箇所を見つけた。
「利益配分は平等」
と書いてあるが、その利益の定義が曖昧だ。粗利なのか、純利なのか、税を引く前なのか後なのか。
この曖昧さが争いを生む。
俺はそこに青札を置き、要点を抜き出した。
夕方。
フロルが机に近づき、俺の書いた要約紙を手に取る。
目を走らせ、何度か頷く。
「レン様、すごいですね」
驚きというより、少し呆れたような声だった。
「今日中に重要箇所だけ、と言いましたが……ほとんど終わっています」
「読めましたので」
「読めたので、で済む量じゃありません」
フロルは笑って、軽く頭を下げた。
「助かりました。ギル様にも伝えます」
紙束を抱え、足早に出ていく。
俺は机に残されたインクの匂いを嗅ぎながら、少しだけ背もたれに体を預けた。
初日が終わった。疲れている。けれど、どこか手応えがあった。
金のためだけじゃない。俺の力が、誰かの役に立つ。その事実が、久しぶりに胸の奥を静かに支えていた。
次の日も、書面の整理だった。
机に向かい、紙をめくり、文字を追い続ける。
朝から晩まで同じ姿勢でいるせいか、肩と腰がじわじわと痛くなってくる。
薬草採取のように体を動かす仕事とは、また違った疲れだった。
背筋を伸ばし、肩を回す。
ぱき、と骨が鳴る。
「これはこれで大変だな」
小さく呟き、もう一度紙に目を落とす。
午前中は、北方商人との契約書の整理だった。言葉遣いが堅く、古い表現が多い。
昼頃になると、目が霞み始めた。俺は一度席を立ち、窓のそばへ歩く。外では荷車が行き交い、人の声が絶えない。
商業都市ラブール。
この街は、本当に人と金が動き続けている。
水を飲み、深く息を吐く。そしてまた机に戻る。
午後は、港町との契約書、商会同士の覚書、通関証明書の翻訳。
紙の山は、最初に見たときは絶望的な高さに見えた。
だが、一枚ずつ片付けていくと、確実に減っていく。それが、少しだけ気持ちよかった。
休憩を挟みながら、黙々とこなす。
夕方には目も肩も限界に近かったが、それでも手を止めなかった。
そして三日目。
机の上にあった書類の山は、ついに消えた。
最後の一枚を訳し終え、羽ペンを置く。静かに息を吐いた。
その時だった。
後ろから足音が聞こえる。
振り向くと、フロルが立っていた。
彼は机の上を見渡し、少しだけ目を見開く。
「……終わったんですか?」
「はい。重要箇所はすべて要約もつけました」
フロルは一枚ずつ紙を手に取り、目を通していく。
しばらく沈黙。
そして、ゆっくり息を吐いた。
「信じられませんね……」
「何がです?」
「普通、これだけの量の書類は三人で一週間かかるんです」
俺は少し驚いた。
「そうなんですか」
「ええ。しかも翻訳だけじゃなく、危険条項まで抜き出してある」
フロルは苦笑した。
「正直、あなたが来てくれて助かりました。ここ数週間、書面処理が溜まりすぎていて……みんな寝不足だったんです」
その言葉を聞いたとき、周りの机を見る。確かに、疲れた顔の人が多い。
誰かが小さく拍手をした。
「おお、終わったのか?」
「例の書類の山だろ?」
近くの職員たちがこちらを見る。
フロルが言う。
「ええ。全部レン様が片付けました」
一瞬、空気が止まる。
「マジかよ」
「三日で?」
「化け物じゃないか…」
笑い声が上がった。嫌な感じではない。どちらかというと、安心したような笑いだった。
誰かが言う。
「助かったよ、レン様」
「これでやっと寝られる」
俺は少し照れくさくなりながら頭を下げた。
「いえ、仕事ですから」
そのとき、フロルが言った。
「レン様。ギル様がお呼びです」
俺は席を立つ。
廊下を歩き、ギルの執務室へ向かう。
扉をノックする。
「どうぞ」
中に入ると、ギルが机の向こうに座っていた。
「レン様」
穏やかな笑顔だった。
「書類の件、聞きました。驚きましたよ」
「読めただけです」
「それがすごいことなんです」
ギルは椅子にもたれ、指を組む。
「実は、次の仕事の話があります」
「次の仕事?」
「ええ」
机の上の地図を広げる。
ラブールから南へ伸びる街道。さらにその先に、小さな国々が点在している。
「南部諸国への遠征です」
俺は地図を見る。
「取引ですか?」
「はい。いくつかの商会と新しい交易路を作る計画でして」
ギルは続けた。
「ただし問題があります」
「言葉ですか」
ギルは微笑んだ。
「その通りです」
地図を指でなぞる。
「南部は国ごとに言語が違う。通訳がいなければ交渉にならない訳で」
そして、俺を見る。
「そこで、レン様に同行していただきたい」
胸の奥が少し熱くなる。
「俺で役に立つなら」
「もちろんです」
ギルは頷いた。
「数日後に出発します。準備をお願いします」
俺は深く息を吸った。
仕事だ。そして金も稼げる。
勇者を追うためにも。
「分かりました。頑張ります」
これから忙しくなりそうだ。




