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中堅冒険者 レン・サトウ  作者: なみなみくん
第二章
30/40

30 契約

 情報屋を訪ねてから、もう一週間は経っただろうか。


 街での生活にも少し慣れてきていた。だが、俺がここにいる理由は忘れていない。


 朝の冷たい空気の中、路地裏へ足を向ける。

 あの店だ。


 陽の光がほとんど届かない細い道。壁は黒ずみ、湿った空気がこもっている。

 扉の前に立ち、軽く押す。

 ぎぃ、と鈍い音がした。


「いらっしゃい~」


 あのしゃがれた声。薄暗い部屋の奥で、情報屋が椅子に腰かけている。顔は相変わらず影に隠れていた。


「どうも。情報は集まりましたか?」


 俺が言うと、男はゆっくりと笑った。


「もちろんですとも~」


 椅子を指差される。

 机の上には紙束と、半分ほど減った酒瓶が置かれていた。


「いやぁ~、今回は骨が折れましたよ。勇者様の情報は、そう簡単に出回りませんからねぇ」

「それでも、調べてくれたんですね」

「お金をいただきましたからねぇ。こちらも仕事なので~」


 男は指で机を叩く。


「まず結論から言いましょう。剣の勇者、今年中にこの街に来ます」


 胸の奥が、わずかに動いた。


「国境の森のオーク討伐。その作戦の指揮を取るそうです」


 やはり。護衛の男が言っていた話と一致する。


「オークは群れで動く厄介な魔物です。普通の騎士団では被害がかなり出ます。だから勇者様の出番ってわけですねぇ」


 男は肩をすくめる。


「すでに騎士団の先遣隊がこの街に到着しています。宿や兵舎も押さえてありますねぇ。勇者が来るという情報の裏付けとしては確かなものでしょうねぇ」


 俺は黙って頷く。


「作戦の詳細はまだですが、森の外縁から順に掃討する予定らしいですよ。成功すれば街道が通る。交易が楽になりますから、街は大喜びでしょうねぇ」


 男は少し身を乗り出した。


「で、勇者様の話です」


 机の上の紙を一枚めくる。


「特徴。まず、強い。強すぎる、と言った方が正しいでしょうねぇ」


 男が指を立てる。


「剣を振るう前に、相手が斬られている。そんな話ばかりです」


 俺は眉をわずかに動かした。


「どういう意味ですか?」

「簡単ですよ。速すぎて見えないんです」


 男は笑う。


「剣が」


 静かな部屋にその言葉が落ちた。


「魔物でも、人間でも、攻撃を仕掛ける前に倒れている。目撃者の話をまとめると、剣を抜く動作すら見えないことが多い」


 紙を指で叩く。


「つまりですねぇ」

 男はゆっくり言った。


「誰も勝てない」


 部屋の空気が重くなる。


「実際、勇者に決闘を挑んだ剣士は何人もいます。全員、瞬殺」


 笑うでもなく、ただ事実として語る。


「無敵ですよ。少なくとも、この国では」


 俺は黙っていた。情報屋がこちらを見る。


「で?」


 少し面白そうに。


「あなたは、どうするんです?」


 机の上で、指先が静かに止まった。


「勇者がこの街に着いてから考えます」


 俺は短く答えた。

 情報屋は一瞬だけこちらを見つめ、それからくつくつと喉の奥で笑った。


「なるほど~。まあ、何をしたいのか分かりませんが、がんばってくださいね~」


 その言い方は軽い。

 だが、どこか試すような響きもあった。俺はそれ以上何も言わなかった。


 椅子から立ち上がり、机に手をついていた体を離す。

 店の扉へ向かう。後ろから、情報屋の声がもう一度聞こえた。


「ちなみに~」


 足を止める。


「勇者に近づこうなんて人、たいてい死んでますからね~」


 振り返らない。


「忠告として言っておきますよ~」


 俺は扉を開いた。

 ぎぃ、と鈍い音が響く。

 外の光が、暗い店内へ差し込んだ。


「…ありがとうございます」


 それだけ言って、外へ出る。


 路地裏の空気は冷たかった。


 人通りの多い通りへ戻ると、街はいつも通り動いている。

 商人の声。馬車の車輪の音。人々の笑い声。

 勇者が来ることなど知らないかのように。


 俺はゆっくり歩き出した。


 勇者は、一年以内にこの街へ来る。

 情報屋の言葉を思い返す。


 単純に考えれば、半分の時間の半年は余裕がある。

 今すぐ動かなければならないわけではない。

 だが、時間があるからといって、何もしないわけにもいかなかった。


 生活をするにも金がいる。勇者を追いかけるにも金がいる。

 武器、情報、移動、宿、食料。どれも金なしではどうにもならない。金がなければ、勇者を倒す前に俺自身がくたばってしまう。


 通りを歩きながら、自然と足が止まる。街の中央広場だった。

 商人たちが声を張り上げ、荷車が行き交い、子どもが走り回る。


 平和な光景。


 俺の心とは、まるで別の世界のようだ。


 金を稼ぐか。

 頭の中に、いくつかの選択肢が浮かぶ。


 冒険者として依頼を受ける。

 だが、俺は戦いが得意ではない。薬草採取で食いつなぐことはできても、短期間で大金は稼げない。


 危険な仕事に手を出す。傭兵。暗殺。裏の仕事。

 あの館のことが頭をよぎる。思い出したくない光景。

 あのとき、俺は人を殺した。胃の奥が少しだけ重くなる。あれはもう、やりたくない。


 もう一つの選択肢。ロンド商会。

 ギルの言葉が浮かぶ。


「ロンド商会で働きませんか」


 安定した金。危険は少ない。言葉の力を使える仕事。

 考えてみれば、俺に向いている。

 通訳。交渉。

 今回の仕事でも、それは証明された。


 だが。


 胸の奥で、何かが引っかかる。

 もし、このままずっと商会で働けば、生活は安定するだろう。


 毎日働き、取引をまとめ、金を稼ぐ。

 普通の人生。平穏な未来。

 それは、モカが望んだ未来だったのかもしれない。

 ……いや。


 モカは、俺に復讐してほしいとは言っていない。

 むしろ、きっと止めるだろう。


 胸が締めつけられる。

 それでも。それでも俺は、勇者を殺すと決めた。

 あの日、あの手紙を読んだとき。あの血まみれの部屋で、モカを見たとき。あの瞬間から、俺の人生はもう変わってしまった。


 広場の噴水の水音が聞こえる。

 空を見上げる。雲がゆっくり流れていた。


 半年。


 それだけの時間がある。ならば、まずは生き延びることだ。

 金を稼ぎ、情報を集め、機会を待つ。焦って死ねば、すべて終わりだ。


 俺はゆっくり息を吐いた。

 足は、自然と商業区の方向へ向いていた。

 ロンド商会の建物がある方へ。


 ロンド商会の建物に入る。

 外から見ても大きかったが、中に入るとその規模はさらに実感できた。


 広いホールには長い机が並び、帳簿を広げている者、荷の記録を書いている者、商人と話している者。人の声と紙の擦れる音が絶えず響いている。


 誰もが忙しそうだった。ここでは時間そのものが金のように扱われている。そんな空気だった。

 俺は受付のカウンターへ向かう。


「すみません。ギル・ウィンテルさんはいらっしゃいますか?」


 受付の女性が顔を上げる。


「どのようなご用件でしょうか?」

「以前、通訳の依頼でご一緒したレン・サトウです。少しお話があって」


 女性は一瞬考え、軽く頷いた。


「只今お呼びいたします。お待ち下さい」


 近くの椅子に座る。忙しく動く商会の人々を眺めながら、静かに待った。

 しばらくして、奥の廊下から見覚えのある姿が現れる。


「レン様」


 ギル・ウィンテルだった。


「お久しぶりです」

「お久しぶりです。どうされました?」


 その声は少し驚いているようだった。


「少し、お話があって」


 俺が言うと、ギルはすぐに理解したように頷いた。


「こちらへ」


 案内され、応接室へ入る。扉が閉まると、外の喧騒が遠くなる。

 ギルが椅子に腰を下ろした。


「さて、どのようなお話でしょうか」


 俺は少しだけ言葉を選んだ。


「この前の提案の件です」


 ギルの表情が変わる。


「ロンド商会で働くという話ですか?」

「はい。ただ、長期ではなく、短期契約で働きたいと思っています」


 ギルは腕を組み、興味深そうに俺を見る。


「理由をお聞きしても?」


 少し考えてから答えた。


「個人的な事情で、長く同じ場所に留まる予定はありません。ただ、半年ほどはこの街にいる予定です」


 完全な嘘ではない。


「その間、通訳として働きたい」


 ギルは静かに頷いた。


「なるほど」


 しばらく考えてから言った。


「レン様の能力は理解しています。あの交渉で、それは証明されました」


 机の上で指を組む。


「ただし、商会として雇う以上、能力の確認は必要になります」

「構いません」

「具体的には、いくつの言語が扱えますか?」

「正直、数えたことがありません。大抵の言語なら理解できます」


 ギルの眉が少し上がる。


「それは……興味深い」


 彼は机の横の棚から書類を数枚取り出した。


「では試してみましょう」


 一枚目の紙を渡される。

 南方語。

 俺はすぐに読み、翻訳する。次は西方の言葉。それも問題なく訳す。


 さらに古い形式のランデル語。

 それも読めた。


 ギルは黙って聞いていたが、やがて小さく笑った。


「……驚きました」


 書類を机に戻す。


「これほどの言語能力を持つ人材は、正直見たことがありません」


 少し沈黙が落ちる。

 やがてギルは決断したように言った。


「分かりました。短期契約で雇いましょう」


 胸の奥で何かが少し動く。


「契約期間は半年。仕事内容は通訳、交渉補助、外国商人との折衝。報酬は案件ごとの成功報酬と、基本給を合わせた形にします」


 机の上に契約書が置かれる。


「条件に問題がなければ、ここに署名を」


 書面を読む。問題はない。

 ペンを取り、ゆっくり名前を書く。

 レン・サトウ。

 ギルも署名し、商会の印を押した。


「これで契約成立です」


 ギルは手を差し出した。


「改めて、ロンド商会へようこそ。レン様」


 俺はその手を握った。


 宿に戻る。

 階段を上がる足取りが、いつもより少し軽かった。


 部屋の扉を閉め、荷物を床に置く。

 小さな部屋だ。壁も薄いし、隣の笑い声も聞こえる。けれど、今夜はそれが不思議と気にならなかった。


 仕事が見つかった。金が稼げる。生活ができる。勇者を追うための準備ができる。

 それだけのことなのに、胸の奥が少しだけ温かい。


 ベッドに腰を下ろし、息を吐く。

 明日から仕事だ。頑張らなくては。

 そう思った瞬間、逆に怖さも湧いてくる。


 通訳の仕事は、薬草採取のように黙々と体を動かすだけでは済まない。

 言葉を間違えれば、金が動き、信用が崩れ、信頼関係が崩れる。


 それでも。それが今の俺にできることだ。


 灯りを落とし、目を閉じる。眠りに落ちるまで、少し時間がかかった。

 久しぶりに「明日がある」と思いながら眠れた気がした。



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