30 契約
情報屋を訪ねてから、もう一週間は経っただろうか。
街での生活にも少し慣れてきていた。だが、俺がここにいる理由は忘れていない。
朝の冷たい空気の中、路地裏へ足を向ける。
あの店だ。
陽の光がほとんど届かない細い道。壁は黒ずみ、湿った空気がこもっている。
扉の前に立ち、軽く押す。
ぎぃ、と鈍い音がした。
「いらっしゃい~」
あのしゃがれた声。薄暗い部屋の奥で、情報屋が椅子に腰かけている。顔は相変わらず影に隠れていた。
「どうも。情報は集まりましたか?」
俺が言うと、男はゆっくりと笑った。
「もちろんですとも~」
椅子を指差される。
机の上には紙束と、半分ほど減った酒瓶が置かれていた。
「いやぁ~、今回は骨が折れましたよ。勇者様の情報は、そう簡単に出回りませんからねぇ」
「それでも、調べてくれたんですね」
「お金をいただきましたからねぇ。こちらも仕事なので~」
男は指で机を叩く。
「まず結論から言いましょう。剣の勇者、今年中にこの街に来ます」
胸の奥が、わずかに動いた。
「国境の森のオーク討伐。その作戦の指揮を取るそうです」
やはり。護衛の男が言っていた話と一致する。
「オークは群れで動く厄介な魔物です。普通の騎士団では被害がかなり出ます。だから勇者様の出番ってわけですねぇ」
男は肩をすくめる。
「すでに騎士団の先遣隊がこの街に到着しています。宿や兵舎も押さえてありますねぇ。勇者が来るという情報の裏付けとしては確かなものでしょうねぇ」
俺は黙って頷く。
「作戦の詳細はまだですが、森の外縁から順に掃討する予定らしいですよ。成功すれば街道が通る。交易が楽になりますから、街は大喜びでしょうねぇ」
男は少し身を乗り出した。
「で、勇者様の話です」
机の上の紙を一枚めくる。
「特徴。まず、強い。強すぎる、と言った方が正しいでしょうねぇ」
男が指を立てる。
「剣を振るう前に、相手が斬られている。そんな話ばかりです」
俺は眉をわずかに動かした。
「どういう意味ですか?」
「簡単ですよ。速すぎて見えないんです」
男は笑う。
「剣が」
静かな部屋にその言葉が落ちた。
「魔物でも、人間でも、攻撃を仕掛ける前に倒れている。目撃者の話をまとめると、剣を抜く動作すら見えないことが多い」
紙を指で叩く。
「つまりですねぇ」
男はゆっくり言った。
「誰も勝てない」
部屋の空気が重くなる。
「実際、勇者に決闘を挑んだ剣士は何人もいます。全員、瞬殺」
笑うでもなく、ただ事実として語る。
「無敵ですよ。少なくとも、この国では」
俺は黙っていた。情報屋がこちらを見る。
「で?」
少し面白そうに。
「あなたは、どうするんです?」
机の上で、指先が静かに止まった。
「勇者がこの街に着いてから考えます」
俺は短く答えた。
情報屋は一瞬だけこちらを見つめ、それからくつくつと喉の奥で笑った。
「なるほど~。まあ、何をしたいのか分かりませんが、がんばってくださいね~」
その言い方は軽い。
だが、どこか試すような響きもあった。俺はそれ以上何も言わなかった。
椅子から立ち上がり、机に手をついていた体を離す。
店の扉へ向かう。後ろから、情報屋の声がもう一度聞こえた。
「ちなみに~」
足を止める。
「勇者に近づこうなんて人、たいてい死んでますからね~」
振り返らない。
「忠告として言っておきますよ~」
俺は扉を開いた。
ぎぃ、と鈍い音が響く。
外の光が、暗い店内へ差し込んだ。
「…ありがとうございます」
それだけ言って、外へ出る。
路地裏の空気は冷たかった。
人通りの多い通りへ戻ると、街はいつも通り動いている。
商人の声。馬車の車輪の音。人々の笑い声。
勇者が来ることなど知らないかのように。
俺はゆっくり歩き出した。
勇者は、一年以内にこの街へ来る。
情報屋の言葉を思い返す。
単純に考えれば、半分の時間の半年は余裕がある。
今すぐ動かなければならないわけではない。
だが、時間があるからといって、何もしないわけにもいかなかった。
生活をするにも金がいる。勇者を追いかけるにも金がいる。
武器、情報、移動、宿、食料。どれも金なしではどうにもならない。金がなければ、勇者を倒す前に俺自身がくたばってしまう。
通りを歩きながら、自然と足が止まる。街の中央広場だった。
商人たちが声を張り上げ、荷車が行き交い、子どもが走り回る。
平和な光景。
俺の心とは、まるで別の世界のようだ。
金を稼ぐか。
頭の中に、いくつかの選択肢が浮かぶ。
冒険者として依頼を受ける。
だが、俺は戦いが得意ではない。薬草採取で食いつなぐことはできても、短期間で大金は稼げない。
危険な仕事に手を出す。傭兵。暗殺。裏の仕事。
あの館のことが頭をよぎる。思い出したくない光景。
あのとき、俺は人を殺した。胃の奥が少しだけ重くなる。あれはもう、やりたくない。
もう一つの選択肢。ロンド商会。
ギルの言葉が浮かぶ。
「ロンド商会で働きませんか」
安定した金。危険は少ない。言葉の力を使える仕事。
考えてみれば、俺に向いている。
通訳。交渉。
今回の仕事でも、それは証明された。
だが。
胸の奥で、何かが引っかかる。
もし、このままずっと商会で働けば、生活は安定するだろう。
毎日働き、取引をまとめ、金を稼ぐ。
普通の人生。平穏な未来。
それは、モカが望んだ未来だったのかもしれない。
……いや。
モカは、俺に復讐してほしいとは言っていない。
むしろ、きっと止めるだろう。
胸が締めつけられる。
それでも。それでも俺は、勇者を殺すと決めた。
あの日、あの手紙を読んだとき。あの血まみれの部屋で、モカを見たとき。あの瞬間から、俺の人生はもう変わってしまった。
広場の噴水の水音が聞こえる。
空を見上げる。雲がゆっくり流れていた。
半年。
それだけの時間がある。ならば、まずは生き延びることだ。
金を稼ぎ、情報を集め、機会を待つ。焦って死ねば、すべて終わりだ。
俺はゆっくり息を吐いた。
足は、自然と商業区の方向へ向いていた。
ロンド商会の建物がある方へ。
ロンド商会の建物に入る。
外から見ても大きかったが、中に入るとその規模はさらに実感できた。
広いホールには長い机が並び、帳簿を広げている者、荷の記録を書いている者、商人と話している者。人の声と紙の擦れる音が絶えず響いている。
誰もが忙しそうだった。ここでは時間そのものが金のように扱われている。そんな空気だった。
俺は受付のカウンターへ向かう。
「すみません。ギル・ウィンテルさんはいらっしゃいますか?」
受付の女性が顔を上げる。
「どのようなご用件でしょうか?」
「以前、通訳の依頼でご一緒したレン・サトウです。少しお話があって」
女性は一瞬考え、軽く頷いた。
「只今お呼びいたします。お待ち下さい」
近くの椅子に座る。忙しく動く商会の人々を眺めながら、静かに待った。
しばらくして、奥の廊下から見覚えのある姿が現れる。
「レン様」
ギル・ウィンテルだった。
「お久しぶりです」
「お久しぶりです。どうされました?」
その声は少し驚いているようだった。
「少し、お話があって」
俺が言うと、ギルはすぐに理解したように頷いた。
「こちらへ」
案内され、応接室へ入る。扉が閉まると、外の喧騒が遠くなる。
ギルが椅子に腰を下ろした。
「さて、どのようなお話でしょうか」
俺は少しだけ言葉を選んだ。
「この前の提案の件です」
ギルの表情が変わる。
「ロンド商会で働くという話ですか?」
「はい。ただ、長期ではなく、短期契約で働きたいと思っています」
ギルは腕を組み、興味深そうに俺を見る。
「理由をお聞きしても?」
少し考えてから答えた。
「個人的な事情で、長く同じ場所に留まる予定はありません。ただ、半年ほどはこの街にいる予定です」
完全な嘘ではない。
「その間、通訳として働きたい」
ギルは静かに頷いた。
「なるほど」
しばらく考えてから言った。
「レン様の能力は理解しています。あの交渉で、それは証明されました」
机の上で指を組む。
「ただし、商会として雇う以上、能力の確認は必要になります」
「構いません」
「具体的には、いくつの言語が扱えますか?」
「正直、数えたことがありません。大抵の言語なら理解できます」
ギルの眉が少し上がる。
「それは……興味深い」
彼は机の横の棚から書類を数枚取り出した。
「では試してみましょう」
一枚目の紙を渡される。
南方語。
俺はすぐに読み、翻訳する。次は西方の言葉。それも問題なく訳す。
さらに古い形式のランデル語。
それも読めた。
ギルは黙って聞いていたが、やがて小さく笑った。
「……驚きました」
書類を机に戻す。
「これほどの言語能力を持つ人材は、正直見たことがありません」
少し沈黙が落ちる。
やがてギルは決断したように言った。
「分かりました。短期契約で雇いましょう」
胸の奥で何かが少し動く。
「契約期間は半年。仕事内容は通訳、交渉補助、外国商人との折衝。報酬は案件ごとの成功報酬と、基本給を合わせた形にします」
机の上に契約書が置かれる。
「条件に問題がなければ、ここに署名を」
書面を読む。問題はない。
ペンを取り、ゆっくり名前を書く。
レン・サトウ。
ギルも署名し、商会の印を押した。
「これで契約成立です」
ギルは手を差し出した。
「改めて、ロンド商会へようこそ。レン様」
俺はその手を握った。
宿に戻る。
階段を上がる足取りが、いつもより少し軽かった。
部屋の扉を閉め、荷物を床に置く。
小さな部屋だ。壁も薄いし、隣の笑い声も聞こえる。けれど、今夜はそれが不思議と気にならなかった。
仕事が見つかった。金が稼げる。生活ができる。勇者を追うための準備ができる。
それだけのことなのに、胸の奥が少しだけ温かい。
ベッドに腰を下ろし、息を吐く。
明日から仕事だ。頑張らなくては。
そう思った瞬間、逆に怖さも湧いてくる。
通訳の仕事は、薬草採取のように黙々と体を動かすだけでは済まない。
言葉を間違えれば、金が動き、信用が崩れ、信頼関係が崩れる。
それでも。それが今の俺にできることだ。
灯りを落とし、目を閉じる。眠りに落ちるまで、少し時間がかかった。
久しぶりに「明日がある」と思いながら眠れた気がした。




