29 通訳依頼2
次の朝。
まだ空が淡い色をしているうちに目を覚ました。
昨夜用意しておいた一張羅を取り出し、ゆっくりと袖を通す。
白いシャツの襟を整え、濃紺の上着を羽織る。革の靴を履き、鏡の前に立つ。
背筋が自然と伸びる。今日は交渉の場だ。宿の食堂で軽く朝食を取り、ギルと合流する。
「よくお似合いです、レン様」
「ありがとうございます」
荷馬車に乗り込み、屋敷へ向けて出発する。
街を抜け、少し丘を登った先に、それは見えた。
高い石壁に囲まれた大きな屋敷。門の両側には塔のような構造物があり、旗がはためいている。
ここがレンバルド家の屋敷。
荷馬車が門前で止まる。鎧を着た門兵が近づいてきた。
「止まれ。何用だ」
低い声。鋭い視線。俺は一歩前に出る。
「ロンド商会の者です。本日、レンバルド家との取引の約束をいただいております」
ランデル語で丁寧に告げる。門兵はじっと俺を見る。
「証明はあるか」
ギルから書簡を受け取り、両手で差し出す。
門兵は封を確認し、内容に目を通す。
「……確かに、予定は入っている」
だが、それで終わりではない。
「積み荷の内容は」
俺は通訳し、ギルが簡潔に答える。
陶器、香料、染料、織物。
再び俺が正確に伝える。
門兵は仲間と短く言葉を交わし、こちらに向き直った。
「中で武器を抜くことは許されない。護衛は指定された場所で待機だ。理解したか」
「承知しました」
俺が即座に応じる。しばらくの沈黙の後、門兵は頷いた。
「通れ」
重い門がゆっくりと開く。石畳の道が屋敷へと続いていた。
中庭は広く、手入れの行き届いた庭園が広がっている。噴水があり、花が咲き、衛兵が巡回している。
荷馬車から降りる。間もなく、黒い服をきっちりと着こなした執事が現れた。
「ロンド商会の皆様でございますね。お待ちしておりました」
流れるような所作で一礼する。
「当主様が応接室にてお待ちです。代表の方のみ、こちらへ」
ギルと目が合う。頷き合い、二人で後に続く。
やがて、重厚な扉の前で執事が立ち止まった。
「屋敷の中へご案内します」
扉が開く。
ギルと俺は、静かに中へと足を踏み入れた。
屋敷の中は、外から見た以上に静かだった。
廊下を歩くたび、靴底が磨き上げられた床に小さく音を落とす。壁には金の縁取りが施された絵画が等間隔に飾られ、天井からは淡い光を落とす吊り灯が下がっている。香の匂いが薄く漂い、空気そのものが上質な布で包まれているようだった。
窓は大きく、外の庭園が額縁のように切り取られて見える。けれどその景色さえも、屋敷の中の静謐さを壊さないために存在しているかのように思えた。
廊下の端々に控える使用人たちは、こちらを見ても声を発さず、ただ滑るように一礼する。
やがて執事が一つの扉の前で立ち止まり、優雅に開いた。
応接室に入る。
厚手の絨毯が足音を吸い込み、壁際には本棚と飾り棚。窓際には長椅子と小机が置かれ、中央には大きなテーブルと、対面するように革張りの椅子が並んでいる。
その奥、最も良い位置に、初老の男性が座っていた。
背筋はまっすぐで、髪には白が混じっている。目つきは鋭いが、威圧というより見定める目だった。
ギルが一歩前に出る。俺もそれに合わせて背筋を伸ばし、礼をした。
まずは挨拶だ。失礼があれば一瞬で終わる。
「このたびはお時間を賜り、誠にありがとうございます。ロンド商会より参りました、ギル・ウィンテルと申します。本日は貴家のご繁栄に寄与できる品々をご用意し、謹んでご挨拶に参上いたしました」
ギルの声は穏やかで、しかし言葉の端々に商人としての自信がある。
続けて俺が通訳する。丁寧な敬語、相手の格式に合わせた言い回しを選び、言葉の温度を落とさずにランデル語へ変換した。
次に、俺の番だ。
「通訳を務めさせていただきます、レン・サトウと申します。本日は両者の言葉が正確に届くよう、誠心誠意務めます。どうぞよろしくお願いいたします」
自分の言葉を、さらに自分で相手へ通訳する。少し滑稽だが、必要な手順だ。
初老の男は小さく頷いた。
「長旅ご苦労だった。私はレンバルド家当主、テリヌス・レンバルドだ」
その声には、家の重みが乗っていた。
俺はそれをギルへ訳し、ギルが改めて礼をする。俺も軽く頭を下げる。
席を勧められ、俺たちは腰を下ろした。
テーブルの上には温かい茶が置かれる。香りは良いのに、俺は一口も飲む気になれなかった。
ギルが資料を取り出す。革の紐でまとめられた書類束。紙質も良い。
それをテリヌスに差し出し、説明が始まる。
俺は呼吸を整え、言葉を受け取り、歪めず、削らず、必要なら滑らかに整えて相手へ届ける。
取引は、静かな戦いだ。
ギルはまず、今回持ち込んだ品の一覧を示した。
白磁の陶器一式、香料数種、染料、織物、そして装飾用の金具。
「当商会が扱う白磁は、南方の窯元と独占契約を結んでおります。割れやすい品ですが、その分、ここまで完全な状態で運ぶ技術も含めての価値です」
俺は通訳しながら、テリヌスの目の動きを追う。
彼は陶器という言葉に反応した。興味があるようだ。
テリヌスが言う。
「確かに見事だ。だが、貴族の食卓用としては、意匠が少し控えめではないか?」
俺はその言葉をギルへ伝えた。
ギルはすぐに返す。
「ご指摘の通りです。ですので、今回は食卓用ではなく、客間や応接用の飾りとしての用途を想定しております。特にレンバルド家のような格式ある屋敷であれば、過度な華美よりも品格が映えるでしょう」
なるほど。
相手の指摘を否定せず、一段上の使い方を提示する。
テリヌスの口角がわずかに上がった。
次は香料だ。
ギルが小瓶を取り出し、蓋を開ける。甘く、そして少し刺激的な香りが室内に広がる。
「こちらは南方産の青香。料理用にも、香水用にも。希少性が高く、王都の貴族にも好まれております」
テリヌスは鼻を動かし、静かに頷いた。
「悪くない。だが、価格は?」
ここからが本番。
ギルは準備していた価格表を示し、理由を添える。輸送費、関所の手数料、割れ物の管理、護衛費。
俺は一つずつ訳していく。言葉が少しでも乱れれば、計算が乱れ、信用が揺らぐ。
テリヌスは腕を組んだ。
「高いな」
短い一言。
ランデル貴族の交渉は、結論から刺してくる。
ギルは慌てない。
「確かに、一般の商会よりは高いでしょう。しかし、当商会は損をしない取引を提供します。貴家が欲しい品が、欲しい時に、確実に届く。これが最も価値のある部分です」
俺はそれを、より貴族向けの言い回しで通訳する。
確実性、信用、家の体面。
その単語を混ぜると、相手の耳に届きやすい。
テリヌスは黙る。
沈黙は拒絶ではない。考慮だ。ギルが言っていた。俺は口を挟まず、茶にも手を付けず、ただ待った。
やがてテリヌスが言う。
「よし。だが、条件がある。青香はこの価格のままでもいい。その代わり、白磁の一部は二割落とせ」
条件交渉。ギルへ通訳する。
ギルはすぐに計算し、返答する。
「白磁を二割落とすのは難しいですね。ですが、代わりに“次回の取引で使用できる割引枠”を用意いたします。今回の購入量が一定を超える場合、次回は全体で一割引きが可能です」
これはうまい。
今の利益を削りすぎず、相手に得を感じさせる。
テリヌスは目を細めた。
「次回か。……商人らしい話だ」
怒ってはいない。むしろ感心に近い。
さらに交渉は続く。
支払い方法、納品の時期、破損時の責任、代替品の用意。
テリヌスは細部を詰めるタイプだった。そしてギルもそれを想定していたらしく、資料はすべて揃っている。
俺は言葉の橋渡しをし続けた。
損をしたくないという気持ちは、商人も貴族も同じだ。
違うのは、それをどう表現するかだけ。
話がまとまるころには、日が傾いていた。
「よし、契約は成立だ」
テリヌスがそう言い、執事に目配せする。
執事が書類を持ってくる。契約書。署名と印章。ギルはペンを取り、署名し、商会の印を押した。テリヌスも同様に家の印を押す。
最後に、俺が通訳としての証人欄に名を書けと言われる。
俺は深呼吸し、丁寧に“レン・サトウ”と記した。
この場に、自分の名前が残る。
執事が軽く頭を下げた。
「納品は本日中に、屋敷の倉庫へ運び入れます。検品は当家の者と、ロンド商会の者で共同で行いましょう」
ギルが頷き、俺が通訳する。
中庭に戻ると、護衛と使用人たちが手際よく動き始めた。荷馬車の箱が次々と降ろされ、運搬用の台車に載せられる。倉庫は大きく、内部は乾燥している。割れ物を置くための棚も多い。
検品が始まり、箱を開け、数を確認し、破損がないかを見る。
テリヌス側の担当者が鋭い目で見てくる。
こちらが誤魔化していないか、念入りに。
だが、箱を開ければ開けるほど、相手の表情は柔らかくなっていった。
「……確かに、損傷が少ない。いや、ほとんど無いな」
俺はそれをギルへ伝える。
ギルは微笑み、淡々と答えた。
「当商会の梱包は、このためにあります」
検品が終わり、最後の箱が倉庫へ収まった頃には、外は夕暮れだった。
執事が控えめに言う。
「本日はこのまま屋敷でお休みになられますか? 客室をご用意できますが」
ギルが一瞬迷い、俺を見る。
泊まれば体面は良い。だが、商会としては警戒も必要だ。
相手が貴族とはいえ、だからこそ、商売は油断すると足元をすくわれる。
ギルは丁寧に断った。
「ありがたい申し出ですが、本日は宿に戻り、明朝改めて決済の確認に伺います」
俺が通訳すると、執事は深く礼をした。
最後に、テリヌスが一言だけ言った。
「通訳、見事だった。言葉が整っている。お前のような者は貴重だ」
その言葉を訳した瞬間、胸の奥が少しだけ温かくなった。
俺が役に立った。確かな形で。
夕焼けの中、ロンド商会の一行は静かに宿場町へ戻っていった。
夜、宿場町の酒場にて、昼間の緊張がほどけた空気の中、俺とギルは向かい合って杯を傾けていた。
周囲では商人や旅人が談笑し、楽器の音がかすかに流れている。
ギルがグラスを掲げた。
「今回の商談、見事でした。正直に申し上げて、あそこまで滑らかに言葉を整えていただけるとは思っていませんでした」
軽く杯を合わせる。
「うまくいってよかったです」
「ええ、本当に。レンバルド家は気難しいことで有名です。値を下げることしか考えない貴族も多い中、あそこは理屈を求める。今日の条件でまとまったのは、レン様の通訳があったからです」
「俺はただ、言葉を伝えただけです」
そう言うと、ギルは首を振った。
「違います。言葉はそのまま伝えるだけでは足りません。温度や意図を整えるのが通訳の腕です。今日、テリヌス様が最後にあなたを褒めたのは、本心でしょう」
酒が少しだけ喉を温める。
「商売って、戦いみたいですね」
ぽつりと漏らすと、ギルは笑った。
「戦いですよ。剣ではなく、信用と計算で斬り合うのです」
「負けるとどうなるんですか?」
「信用を失えば、次はありません。商会は一度崩れれば、立て直すのは難しい」
静かな声だった。
「だからこそ、今日の成功は大きい。レン様、あなたは商会にとって利益以上の価値をもたらしました」
そんな大げさな、と思いながらも、胸の奥がわずかに軽くなる。
酒場の喧騒の中、しばらく他愛のない話をした。
ランデルの文化、商会の拠点、遠い国の珍しい商品。
やがて夜も更け、俺たちは部屋へ戻った。
翌日、再び屋敷へ向かい、最終的な納品確認と決済を済ませる。
帳簿の数字は正確で、破損もなし。支払いも滞りなく完了した。
すべて、うまくいった。
その日のうちに街を発ち、帰路につく。荷馬車は再び街道を進む。行きよりも隊列の空気は軽い。護衛もどこか安心した様子だ。
森を大きく迂回する道に差しかかったころ、護衛の一人が言った。
「近々、勇者が街に来るらしいぞ」
耳が反応する。
「森に住むオークを討伐するって話だ。あれが片付けば、森を突っ切る街道ができる。そうなりゃ、目的地まで半分の時間で行けるようになる」
別の男が笑う。
「勇者様さまだな」
胸の奥がざわついた。
意外なところで、勇者の情報を手に入れた。
森のオーク討伐。つまり、勇者はこの辺りに現れる。
荷馬車は進み続ける。
街に戻るころには、夕日が城壁を赤く染めていた。
北門をくぐり、荷馬車はゆっくりと商業区へと進む。往来の人々、行商人の声、見慣れた喧騒。
ようやく帰ってきた、という実感が胸に広がった。
ロンド商会の建物の前で荷馬車が止まる。
荷下ろしが始まり、護衛や従業員がそれぞれの役割へ散っていく。
ギルが俺のほうへ歩いてきた。
「レン様、少しお時間を」
商会の応接室へ通される。行きの屋敷ほどではないが、それでも十分に整った空間だ。
ギルは机の引き出しから革袋を取り出し、俺の前に置いた。
「今回の報酬です。契約通りの額に加え、成功報酬を上乗せしております」
袋を受け取る。ずしりと重い。
中を確認すると、想定よりも明らかに多い。
「これは……」
「レンバルド家との契約は、今後数年にわたる継続取引につながる可能性があります。その礎を築いた功績です」
静かな口調だが、確かな評価だった。
「ありがとうございます」
本心からそう言えた。
ギルは少し間を置き、椅子に深く腰をかけた。
「レン様」
「はい」
「ひとつ、提案があります」
その声音は、商談の時とは違う。
「今回の仕事で確信しました。あなたの能力は、単なる便利な通訳ではない。交渉の場で価値を生み出せる人材です」
俺は黙って聞く。
「ロンド商会で働きませんか?」
まっすぐな視線。
「正式に契約を結び、専属の交渉官兼通訳として。報酬は安定しますし、危険な森に入る必要もありません。あなたの力を最大限活かせる場所です」
安定。危険が少ない。まとまった金。
今の俺にとって、悪くない話だ。むしろ、理想的にさえ思える。
しばらく沈黙が落ちた。
「……少し、考えさせてください」
俺は正直に答えた。ギルはうなずく。
「もちろんです。急ぐ話ではありません。ただ、我々はあなたを必要としています。それだけは覚えておいてください」
必要とされる。その言葉が、胸に重く響く。
勇者を追う道。それとはまったく違う、もう一つの道。
応接室を出ると、夕日はすでに沈みかけていた。
ギルが最後に手を差し出す。
「今回の同行、改めて感謝します。次があれば、ぜひまた」
「こちらこそ、ありがとうございました」
握手を交わす。
革袋の重みを感じながら、商会を後にした。
街の灯りがともり始めている。
手の中の報酬は、確かな未来を示しているようにも見えた。
だが俺の胸の奥には、別の炎がまだ消えずに残っていた。




