26 新天地
第二章が始まりました。
これからは「火曜日」「土曜日」に投稿します。
気づけば、そこは血の海だった。足元一面に広がる赤黒い液体は、ぬるりとした光を放ち、どこまでも続いている。空は暗く、月も星もなく、ただ重苦しい闇だけが世界を覆っていた。誰の気配もない。音もない。ただ、血の匂いだけが鼻を刺す。
ゆっくりと歩き出す。踏み出すたびに、ちゃぷり、と水音のような音が響く。その先に、ぼんやりと人影が見えた。
モカだ。
胸が跳ねる。俺は無我夢中で走った。足が血に沈み、重くなる。それでも構わず、必死に手を伸ばす。
モカが立っている。白い肌、細い肩。あの日と変わらぬ姿で、ただそこにいる。
「モカ!!」
叫ぶと、彼女がゆっくりとこちらを向いた。
次の瞬間、モカの首元から血が噴き出した。鮮やかな赤が空中に弧を描き、俺の視界を染める。
「あなたが私を守らなかったから」
その声は静かで、冷たく、どこか遠い。
足元の血の海は、さらに深くなっていく。膝まで沈む。逃げ場はない。
「あなたのせい」
その言葉が、闇の中で何度も何度もこだました。
荒い呼吸と共に、薄暗い荷馬車の天井が視界に入る。背中は汗で濡れていた。最近はこの夢ばかりだ。どれだけ眠っても、疲れは取れず、むしろ重くのしかかってくる。
「そろそろ着くぞ」
御者の声が外から響いた。
荷馬車の小窓から外を見ると、遠くに城壁が見えてくる。北の大きな街だ。ここに、勇者はいるのだろうか。
僅かな情報だけを頼りに、ここまで来た。確証はない。ただ、北へ向かったという、それだけ。
モカのためにも、早く殺さなければならない。
荷馬車を降り、北の街へ足を踏み入れる。石畳はよく整備され、往来する人々の服装もどこか質が良い。ここは国境に近い要衝の街だと聞いていたが、その言葉どおり、活気と緊張が同居しているような空気が漂っていた。
門で止められるかと思ったが、ギルドカードを提示すると、門番は軽く目を通しただけで頷いた。
「確認した。通ってよし」
あっさりと中へ通される。冒険者という身分が信用されているのか。今は深く考えないことにした。
まずは宿を探す。
経験上、冒険者ギルドの近くが何かと便利だ。情報も集まりやすく、依頼の動きも掴みやすい。
街の中央にあるという冒険者ギルドを探して歩く。通りは広く、露店や商店が整然と並び、警備兵の姿も多い。やがて、大きな看板と見慣れた紋章が目に入った。
冒険者ギルドだ。
せっかくなので中に入ってみる。重い扉を押し開けると、酒と汗と紙の匂いが混ざった、どこか懐かしい空気が鼻をついた。
雰囲気は、以前の街レンバスと変わらない。受付嬢の声、依頼掲示板を囲む冒険者たち、酒場で騒ぐ声。どこに行っても、ギルドはギルドだ。
いまは顔を覚えられる必要はない。軽く全体を見渡し、すぐに出る。
また後で来ることになるだろう。
次は宿屋だ。
ギルドの周辺には宿がいくつも並んでいた。安そうな木造の宿から、石造りの立派な宿まで様々だ。
何件か入り、料金を聞いて回る。
「一泊、銀貨5枚だ」
「朝食付きで銀貨8枚」
「長期滞在なら少し安くなるぞ」
どの宿もそれなりの値段だ。北の街は物価が高いらしい。
結局、一番安い宿に決めた。狭いが、寝るだけなら問題ない。
部屋に入り、荷物を下ろす。ベッドに腰を下ろすと、軋む音がした。天井は低く、窓も小さい。だが、十分だ。
再び外に出て、街を散策する。
勇者がここにいるなら、どこかに痕跡があるはずだ。
さすがに大きな街だ。視界の端から端まで人と建物が連なり、通りは昼も夜も賑わいを失わない。ここが商業都市ラブール。北方最大の交易拠点だと聞いていたが、その名に違わぬ規模だった。
宿の数も多い。酒場も至るところにある。荷車を引く商人、取引をする商会員、護衛の冒険者。金と物資が絶えず流れている街だ。
歩いていると、石造りの重厚な建物が目に入った。入口には静かな紋章。
図書館だ。
思わず足を止める。勇者に関する記録、過去の戦歴、北方での動き。公的な資料なら何か手がかりがあるかもしれない。明日にでも情報集めに行くか。
さらに歩くと、冒険者ギルド以外にも、商業ギルド、金融ギルドなど、さまざまな組織の建物が並んでいる。街そのものが巨大な機構のように機能しているのが分かる。
再び冒険者ギルドに入る。掲示板に貼られた依頼書を眺める。
護衛依頼が多い。さすが商業都市だ。隊商の護衛、貴族の移動警護、長距離輸送の護衛。どれも報酬は悪くない。
もちろん、薬草採取の依頼もあった。北方特有の薬草の名が並んでいる。俺の得意分野だ。
だが、今は違う。勇者の手がかりを掴むのが先決だ。
夜になり、宿へ戻る。安宿の食堂で簡素な飯を食べる。硬いパンと薄いスープ。味は感じない。ただ、体を動かすために口に運ぶだけだ。
部屋に戻り、ベッドに腰掛ける。
さて、情報を集めるにはどうしたらいいか。
昔、ラザバから教わったやり方を思い出す。情報は、酒場に落ちている。金を払えば、いくらでも拾える、と。
宿の食堂兼酒場を見渡すと、隅の席で三人の若い男たちが騒いでいた。年は二十代前半ほどだろうか。装備からして駆け出しの冒険者か、商会の下働きといったところだ。
俺はゆっくりと彼らの隣に近づいた。
「こんばんは。俺、レンっていいます。今日初めてこの街に来たんで、いろいろ教えてくれますか?もちろん、ただとは言わないので」
そう言って、銀貨を三枚、机の上にそっと置く。
最初は怪しむような目でこちらを見ていた三人だったが、銀貨がきらりと光るのを見た瞬間、表情が一変した。
「おう、何でも聞いてくれや!」
「観光か?それとも仕事探しか?」
「ラブールは広いぞー!」
思ったよりも素直だ。俺は適当に笑みを作り、話を振る。
「この街で、今一番儲かる仕事って何ですか?」
「そりゃ護衛だな。北方との交易が活発でよ、最近は盗賊も増えてる。腕があれば金は稼げるぜ」
「あと、あんまよくない仕事もあるけどな。あれは素人が手ぇ出すもんじゃねぇ」
あまり良くない仕事、という単語に少しだけ反応しそうになるが、表情には出さない。
「商会で大きいのはどこですか?」
「ロッセン商会だな。あそこは北の鉱山とも繋がってる。あとは金融ギルドと組んでるやつらも強い」
「金融ギルドは利子がえげつねぇぞ」
三人は酒を飲みながら、次々と話してくれる。
治安の話も聞いた。
「南側はあんまり近づくなよ。表向きは平和だけど、裏で動いてる連中がいる」
「あと城壁の北側は兵の巡回が多い。最近、王都から何か来てるって噂だ」
王都、という言葉に耳が反応する。
「王都から?」
「ああ。詳しくは知らねぇけどな。でかい人物らしいぜ」
俺は自然な流れを装い、問いを差し込む。
「有名人とか、来たりするんですか?」
「商人とか貴族はよく来るな」
「騎士団もたまに通る」
少し間を置いてから、本題を出す。
「剣の勇者を知っていますか?」
三人は顔を見合わせた。
「あー、剣の勇者か」
「名前は有名だよな」
「この街に来たことはないんじゃねぇかな。なんだ、あんた、勇者のファンか?」
軽い笑い声が混じる。
「まあ、そんなところですね」
俺も適当に笑って見せる。
奴は、やはりこの街には来ていないらしい。少なくとも公に姿を見せてはいない。
他にも北方の動きや、最近の異変、貴族の来訪などを一通り聞き出した後、俺は約束通り銀貨三枚を彼らの方へ押しやった。
「助かりました」
「また聞きたいことあったら来いよ!」
「今度はもっと払えよな!」
軽口を叩く三人に軽く手を振り、自室へ戻る。
扉を閉め、静かな部屋に入る。勇者は、まだここにはいない。
だが、王都から大きな人物が来ているという噂は気になる。明日は図書館に行こう。公的な記録の中に、何か痕跡があるかもしれない。
次の朝、図書館に着いた。
重厚な石造りの建物は、街の喧騒とは切り離されたように静まり返っていた。高い柱と彫刻の施された扉。知識そのものを象徴するような威圧感がある。
入口の扉を抜けようとした瞬間、係員に止められた。
「入場料を支払ってください」
差し出された板には、金額が記されている。思わず目を細めた。なかなかの額だ。銀貨では足りない。
なるほど、こうやって客を選別し、盗難や冷やかしを防いでいるのか。知識にも金がかかる、というわけだ。
少し迷ったが、支払う。ここも頻繁に来られる場所ではない。今日でできるだけ情報を得なければならない。
中に入る。
思わず息を呑んだ。
高い天井、何列にも並ぶ書架、壁一面に積み上げられた書物。紙の匂いと静寂が混ざり合い、別世界のようだ。歩く音すら響く。
本もたくさんある。古い革装丁のものから、新しい写本まで様々だ。
中央の受付に立つ司書に声をかける。年配の女性だ。整った服装で、目は鋭い。
「あの、勇者に関する本はありますか?」
司書は一瞬だけ俺を値踏みするように見た。
「勇者、と一口に申しましても、どの勇者でしょうか。歴代の勇者に関する記録、戦史、王都の公式伝承、吟遊詩人の編纂本、様々ございます」
落ち着いた声だ。
「ございますけれど、お客様は何語が読めますか?」
北方共通語、王都語、古エルフ語、古代語。ここには様々な書物があるのだろう。
「ある程度だいたい読めます」
司書は驚いた顔をした後、小さく頷いた。
「では、探してまいります」
彼女は静かに奥へと消えた。
館内は静寂に包まれている。ページをめくる音、羽ペンが走る音だけがかすかに響く。
しばらくして、司書が戻ってきた。
両腕に五冊の本を抱えている。
「こちらでございます。読み終わりましたら、こちらに返却ください」
重々しい装丁の書物が机に置かれる。
勇者叙勲録、北方戦役記、王都公式史、勇者譚集成、そして一冊だけ装丁の違う、やや古びた写本。
俺は静かに椅子に腰掛け、深く息を吐いた。
最初の一冊を開く。革の表紙は硬く、紙は少し黄ばんでいる。だが文字は鮮明だ。
やはり、どんな言語でも理解ができる。
王都語で書かれた部分も、古い叙事詩体の文も、古エルフ語の引用も、頭の中で自然に意味へと変換されていく。文字が読める、というより、内容が直接流れ込んでくる感覚だ。
勇者の歴史が綴られている。
初代勇者の誕生。魔王討伐の神話。王家との契約。勇者に与えられる加護。
ページをめくるごとに、血と栄光の記録が続く。
ある勇者は一人で城を落とし、ある勇者は竜を斬り伏せ、ある勇者は国境を越えて戦争を終わらせた。
次の本を開く。これは戦史だ。
北方戦役。王都が敗北寸前まで追い込まれた戦い。そこに現れた剣の勇者が、一夜で戦局をひっくり返したと書かれている。
敵将を単騎で討ち、千の兵を退け、要塞の門を破壊した。誇張もあるだろう。だが、記録はどれも一致している。
次は吟遊詩人が編纂した勇者譚。
こちらは物語調だ。勇者は常に正義で、常に笑みを浮かべ、民を救い、悪を断つ存在として描かれている。
魔物を切り裂く描写、光のような剣閃、神の加護を宿す肉体。
最後の写本は、少し毛色が違った。王都内部の記録らしい。勇者の扱い、政治的影響、貴族との関係。
勇者は王に匹敵する影響力を持ち、時には王の決定すら左右する、とある。
その力は軍事だけではない。象徴としての力、信仰、民衆の支持。
ページを閉じる。やはり、最近の勇者の話はないようだ。
分かったことは一つだけだ。
勇者は最強。その一言に尽きる。
戦場を制し、竜を討ち、軍を壊滅させる存在。正面から挑めば、俺が勝てる可能性は限りなくゼロに近い。
どうやって殺す。毒か。罠か。不意打ちか。考えても、具体的な絵が浮かばない。
胸の奥が重くなる。
本を閉じ、静かに立ち上がる。司書に返却し、図書館を後にした。
外の光がやけに眩しい。
残念な思いを抱えたまま、石畳の通りを歩き出す。




