24 喪失
屋敷に向かう荷馬車の中で、俺はずっと落ち着くことができなかった。モカがいるかも知れないという、胸の奥から激しくこみ上げてくる喜びと、なにか怪我はしていないかという心配。
そして、俺達の子供はどうなったかという、その三つが心の中で渦巻いていた。
ラフェルセウス家の屋敷に到着すると、前にも会ったことのある老執事が俺を待っていた。
「お待ちしておりました、レン様。こちらへどうぞ」
執事に導かれ、俺は屋敷の中を歩く。広くて豪華な館は静まり返っており、足音だけが寂しく響いていた。やがて応接間に到着すると、当主のロジャードさんがそこにいた。彼は俺の顔を見て、小さく頷いた。
「レンくん、久しぶりだな。今は挨拶は必要ない。急いで会いに行ってさしあげろ」
ロジャードさんは静かに、だが強く扉を指差した。俺は深く一礼すると、静かに扉を開けた。その部屋の中は薄暗く、窓には厚手のカーテンが引かれていた。部屋の奥にあるベッドの上に、一人の女性が横たわっていた。
俺の呼吸が止まった。
顔中を包帯で巻かれ、身体の至るところにも包帯が巻かれた女性。しかし俺には一目で分かった。それは間違いなく、モカだった。
「モカ…」
俺が震える声でその名前を呼ぶと、モカがゆっくりと俺の方を見た。彼女は一瞬目を見開いたあと、弱々しい声で言った。
「…レン?」
その声を聞いた瞬間、俺の中の何かが弾けた。涙が頬を伝い、俺は慌てて彼女のそばに駆け寄った。
「モカ、俺だよ。レンだ。ずっと探してたんだ…!」
モカの目から静かに涙が流れた。
「本当に…レンなの?あぁ、ずっと会いたかった…」
「俺もだよ…俺も、ずっと…」
言葉が途切れ、ただ二人で泣いた。どれほど長い時間泣いたかは分からない。ただ、互いに涙を流しながら、その時間を噛み締めていた。やがて、モカの呼吸が落ち着くと、俺は彼女の手をそっと握った。
「もう大丈夫だよ、モカ。俺がついてるから」
モカは弱々しい笑みを浮かべた。
「…ありがとう、レン。ごめんね…本当にごめんね…」
その時、扉がノックされ、ロジャードさんが静かに中に入ってきた。俺に視線を向け、小さく頷く。俺は頷き返すと、そっと部屋を出た。
廊下に出ると、ロジャードさんが辛そうな表情を浮かべながら言った。
「状況を説明する。覚悟して聞いてくれ」
ロジャードさんの表情は苦痛に満ちていた。
「彼女は、ある貴族の屋敷で監禁されていた。忌み子を集めて、人体実験をしていた。ひどい拷問が行われたと聞いている…」
胸が苦しくなる。言葉を発することすらできなかった。
「彼女だけが、生き延びた。残念ながら、彼女が身籠っていた子供は見つからなかった。彼女は、身体も心も酷く傷ついている。もう歩くことすらままならないだろう…」
耳鳴りがした。怒りと絶望が入り混じり、拳を強く握りしめた。
それから何日も、俺はずっとモカの傍らで過ごした。毎日少しでも笑顔を取り戻して欲しくて、色々な話をした。けれど、モカはいつも悲しそうな表情をしているだけだった。
「…何か食べやすい果物でも持ってくるよ」
そう言って立ち上がり、俺は部屋を出ようとした。その時、モカが小さく呟いた。
「レン…。ごめんね…」
その言葉を聞き、俺は胸騒ぎを感じた。
「モカ…?」
だが、俺が振り返る前に彼女は静かに目を閉じていた。俺はその言葉を重く受け止めながらも、ひとまず部屋を出た。廊下を急ぎ、果物を手にして再び戻ると、異様な静けさが部屋を包んでいた。
嫌な予感が胸を支配する。扉を開けると、モカはベッドの上で倒れていた。近くには血のついた果物ナイフ。シーツは真っ赤に染まり、首から血が染み出していた。
「モカ!!」
俺は叫びながら駆け寄り、彼女を抱き上げた。彼女の呼吸は弱く途切れ途切れになっていた。すぐに医者が駆けつけてきた。必死に処置をしたが、手遅れだった。
彼女が自らの意思で引き起こした、自殺だった。
俺はその場で呆然と座り込んだ。涙も出なかった。ただ、世界が音もなく崩れ去ったように感じた。
それから数日の間に、ロジャードさんの厚意で、簡素だが厳かな葬儀が行われた。遺体は丁重に火葬された。最後に残されたのは、小さな骨壺だけだった。
「レン、ひとつだけ覚えておいてくれ」
帰る間際、ロジャードさんが俺の肩を掴み、深刻な顔で呟いた。
「剣の勇者には、十分に気をつけろ。今回の件も剣の勇者が深く関係している。奴は…」
だが、俺はその言葉をまともに理解することすらできなかった。
どこをどう帰ったかも覚えていないまま、自分の家へと辿り着いた。
家に戻った途端、空虚さが襲いかかった。リビングの椅子に崩れ落ち、ただ骨壺を抱えながら俺は放心していた。
気がつくと、時間は流れ、夜になっていた。けれど、俺は微動だにせず、ただ静かに虚空を見つめていた。何も考えることができなかった。
静まり返った部屋で、俺は一人きりだった。家族を失い、生きる意味を見失っていた。それでも、涙は流れなかった。ただ、深い絶望の底に取り残されたまま、朝が訪れるまで動くことはなかった。
何日経っただろうか。
俺はベッドの上から動けず、食事も摂らず、ただ横たわり続けていた。すでに体が衰弱しているのは自分でも分かっていた。意識が薄れ、目が霞んでいく。ぼんやりとした頭で考える。
もう、このまま死んでしまってもいいのではないか。
枕元に無造作に置いてあった短剣をゆっくりと掴む。鞘を抜き去ると、薄暗い部屋の中でも刀身が鈍く光った。俺はその刃を、自らの首元にそっと当ててみる。
冷たくひんやりとした感触が首筋を撫でていく。少しずつ力を入れてみると、鋭い痛みが走った。肌が切れて、生温い血がゆっくりと流れ落ちる感覚がする。
だが、それ以上刃を進めることは出来なかった。
こんな状況でも、まだ生きたいと願っている自分がいた。モカがいないこの世界に、一体どんな意味があると言うのだろうか。
ふと、外の空気を吸おうと、重い体を引きずるようにして窓を開けた。久々に触れる夜の空気は、冷たく心地良かった。
静寂な夜の闇の中、どこからか微かな歌声が聞こえた。その歌を聴いて、俺の胸は締め付けられた。
俺は、この歌を知っている。
モカが、寝付けない夜にいつも歌ってくれた、優しくて暖かい子守唄だ。
「モカ…」
名前を呟いた途端、胸の奥に閉じ込めていた全ての感情が一気に溢れ出した。俺は子供のように、声を上げて泣き続けた。
気づくと朝の光が部屋を満たしていた。泣き疲れて眠ってしまったらしい。何日ぶりかの眠りの後、俺の中で何かが少し変わっていた。
ふと横を見ると、机の上にモカの小さな骨壺と一緒に持って帰った一通の手紙があることに初めて気がついた。
震える手でその手紙を開き、文字を追う。そこに書かれていた内容を目にして、俺は衝撃でその場に崩れ落ちそうになった。
そこには報告書のように記されていた。
剣の勇者・タケルが主導し、『忌み子』を使った非人道的な人体実験を貴族と協力して行っていたこと。モカもその犠牲になった一人だったこと。
さらに詳しく、その実験の残酷な内容が詳細に記されている。
実験が思うように成果を出さないと見るや、勇者は計画の口封じのため協力した貴族を粛清し、家を取り潰した。
つまり、勇者タケルが直接モカを死に追いやったということだ。
俺の中で静かな怒りが燃え上がった。拳を握りしめ、唇を噛みしめる。
剣の勇者・タケル。モカの命を奪い、俺たちのささやかな幸せを踏みにじったあの男を、絶対に許すわけにはいかない。
出会った頃の好青年な顔立ちは、今や悪魔の顔に感じてくる。
俺は立ち上がり、心の中で誓った。この世界で、俺が生きる理由がただ一つ生まれた。
剣の勇者タケルを殺すことだ。




