第64話 相談したいことがあるの
部屋のドアを閉めたところまでは、いつもどおりだった。
濡れた靴下を脱いで、制服の上着をハンガーに掛ける。鞄は机の横へ置き、颯馬からもらった花は潰さないように、その上へそっと寝かせた。
そこまで済ませて、琴音はベッドの上に置かれた雪だるまと目が合った。
クリスマスに颯馬からもらった、手の中へ収まるくらいのぬいぐるみだった。
琴音は雪だるまを抱き上げると、そのままベッドへ倒れ込んだ。
「……彼女」
雪だるまの丸いお腹へ顔を押しつける。
途端に、両足が勝手に動いた。
ぱたぱたと布団を蹴り、少しだけ止まる。
展望公園で向かい合った颯馬の顔が浮かんだ。
雨に濡れた前髪。緊張して、いつもより少しだけ低くなった声。
琴音が好きだ。
俺と付き合ってほしい。
「……っ」
今度はさっきより強く布団を蹴った。
ベッドの軋む音がして、琴音は慌てて足を止める。隣の部屋に誰かがいるわけでもない。それなのに、もし父親に聞かれていたらと思うと、頬がさらに熱くなった。
冷たい手の甲を当てても、あまり役には立たない。
琴音は雪だるまから少しだけ顔を上げた。
「颯馬の彼女」
言ってから、また顔を埋める。
どうやら一人で口にするのも、まだ早かったらしい。
告白された時は、あれほど普通に返事ができたのに。
いや、普通ではなかったかもしれない。颯馬があまりにも真剣だったから、自分もきちんと返さなければと思っただけだ。
今になって、遅れて全部が追いついてきている。
琴音は雪だるまを胸に抱いたまま、枕元のスマートフォンへ手を伸ばした。
通知は来ていない。
颯馬とは、ついさっき隣の家の前で別れたばかりだ。連絡がない方が自然なのに、何となく画面を確認してしまった。
メッセージ一覧を眺めてから、美咲と栞との三人のグループを開く。
グループ名は、うさぎの絵文字が一つだけだった。以前、美咲が勝手につけて、そのまま誰も変えていない。
琴音は入力欄へ指を置いた。
『明日、二人とも空いてる?』
送ると、すぐに既読が一つついた。
『午後なら空いてるよ』
美咲だった。
『どうしたの?』
少し遅れて、栞からも返ってくる。
『私も午後なら』
琴音は雪だるまを抱き直した。
『相談したいことがあるの』
送信してから、相談でよかったのか不安になる。
困っていることがあるわけではない。むしろ、困るくらい何もかもが上手くいった。
『また恋愛相談?』
美咲からの返信に、琴音の指が止まった。
『まだ何も言ってないよ』
『違うの?』
否定する言葉は思いつかなかった。
入力欄へ文字を入れては消している間に、栞から別のメッセージが届く。
『どこで会う?』
内容ではなく、先に場所を聞いてくれるところが栞らしい。
『駅前でいい?』
『いいよ』
『うん。それで何の相談?』
美咲は待ってくれなかった。
琴音は、答えを考えるふりをしてスマートフォンを伏せた。
直接言いたい。
それだけなのに、そう書くことさえ少し恥ずかしい。
もう一度スマートフォンを手に取り、なるべく余計なことを考えないようにして送る。
『明日、直接話す』
『分かった』
美咲からは、それ以上の追及が来なかった。
栞からもうさぎがうなずいているスタンプが届く。
琴音は画面を閉じようとして、その前に颯馬とのメッセージを開いた。
これまでのやり取りは何も変わっていない。
待ち合わせの時間。勉強する範囲。夕飯に使う材料。帰りが少し遅くなるという連絡。
その全部が、今日からは彼氏とのやり取りになる。
「……彼氏」
三度目は声に出さないつもりだったのに、口から漏れた。
琴音はスマートフォンを置き、再び雪だるまへ顔を押しつけた。
足が動き出すまで、一秒もかからなかった。
◇
翌日の午後、琴音が駅前のファミリーレストランへ着いた時、美咲と栞はまだ来ていなかった。
三人分の席へ案内してもらい、窓際の奥へ座る。
スマートフォンを開くと、美咲から『あと五分』と届いていた。栞からは何も来ていない。おそらく美咲と一緒なのだろう。
琴音は鞄の中を確かめた。
財布とハンカチ、その下にスマートフォンの充電器。必要な物は全部入っている。
もちろん、相談に必要な資料などはない。
やはり「相談したい」と呼び出したのは間違いだったかもしれない。
昨日のうちに、メッセージで報告すればよかった。そうすれば今頃、こんなふうに落ち着かずに済んだはずだ。
「琴音、お待たせ」
聞き慣れた声がして顔を上げる。
美咲の後ろから、栞も小さく片手を上げた。
「待ってないよ。私も今来たところ」
「本当に?」
「本当に」
美咲は一度だけ琴音の顔を見てから、向かいの席へ座った。栞もその隣へ腰を下ろす。
三人で飲み物を注文する。
美咲はアイスティー、栞はオレンジジュース。琴音は少し迷い、桃のジュースを選んだ。
注文が終わっても、美咲はすぐに相談の内容を聞かなかった。
珍しいと思ったが、正面を見ると、明らかに待っている顔をしている。
栞は窓の外へ一度目をやり、それから琴音へ視線を戻した。
琴音は紙に包まれたストローを指先で転がした。
「それで?」
一分も経たないうちに、美咲が先に口を開いた。
「うん」
「相談」
「分かってる。今、話すから」
「急かしてないよ」
「今のは急かしてると思う」
運ばれてきた桃のジュースへストローを入れる。少し飲んでみたものの、喉を通った量はほとんどなかった。
昨日、颯馬へ返事をした時は、もっと簡単に言えた。
好きだと伝える相手が颯馬だったからだろうか。
今は目の前に二人もいる。
どちらも琴音のことをよく知っている。だからこそ、口にしたら何も隠せなくなる気がした。
「琴音?」
栞に名前を呼ばれる。
琴音はストローから口を離し、グラスの水滴へ視線を落とした。
「昨日、颯馬と出かけたでしょ」
「うん」
美咲の返事がいつもより少しだけ早い。
「展望公園に行ったの。雨は降ってたけど、颯馬が中止にしなかったから」
「それで?」
「そこで……」
琴音は言葉を止めた。
頬が熱くなる。昨日から何度目か、もう数えるのはやめていた。
それでも、二人へ伝えたい気持ちは変わらない。
「颯馬に、告白されたの」
美咲の手が止まった。
栞は持ち上げかけていたグラスを、静かにテーブルへ戻した。
琴音は二人の顔を見られないまま、続ける。
「それで、付き合うことになりました」
最後だけ、なぜか改まった言い方になった。
数秒、誰も話さなかった。
耐えきれなくなり、琴音が正面を見る。
美咲は両手で口元を押さえていた。
「……え、本当に?」
「嘘でこんな相談しないよ」
「相談じゃなくて報告じゃない」
「そうとも言うかも」
「高瀬君から?」
琴音は小さくうなずいた。
「うん。颯馬から」
名前を口にしただけで、また昨日の声を思い出した。
桃のジュースへ逃げようとしたが、ストローを上手くくわえられない。琴音は諦めてグラスを置いた。
「高瀬君、ちゃんと言えたんだ……」
美咲は驚いているというより、感慨深そうな顔で言った。
「ちゃんと言ってくれたよ」
「どんなふうに?」
「それは言わない」
「全部じゃなくていいから」
「全部じゃなくても言わない」
昨日の颯馬の言葉は、美咲と栞にも話したくなかった。
隠したいわけではない。自分だけが知っていたかった。
美咲は不満そうに眉を寄せたが、それ以上は聞かなかった。
隣で栞が琴音を見ている。
「おめでとう、琴音」
短い言葉が、思ったより深く胸へ入ってきた。
琴音は膝の上で両手を重ねる。
「ありがとう、しおりん」
「美咲も」
「言うつもりだったわよ」
美咲は一度咳払いをして姿勢を直した。
「おめでとう、琴音」
「うん。ありがとう、ミサ」
返事をすると、美咲の顔が少しだけ緩んだ。
「琴音、ずっと赤いけど大丈夫?」
「ミサの聞き方が悪いの」
「私は普通に聞いただけでしょ」
「言い方が楽しそうだった」
「だって、嬉しい報告だったし」
それを言われると反論できない。
琴音は頬へ手を当てた。店内が暑いわけではないのに、手のひらより頬の方が明らかに温かい。
栞がストローへ口をつけながら言った。
「嬉しそう」
「……嬉しいよ」
「うん」
栞はそれだけ言って、オレンジジュースを飲んだ。
琴音も桃のジュースを一口飲む。今度はきちんと飲めた。
「それとね」
言おうか迷っていたことを思い出し、琴音は続けた。
「颯馬から、花ももらったの」
「花?」
美咲の声が少しだけ大きくなった。
隣の席へ聞こえていないか、琴音は思わず周囲を確認する。
「ミサ、声」
「ごめん。でも、あの高瀬君が?」
「一輪だけだけど」
「写真は?」
「撮ってないよ」
「どうして?」
美咲に当然のように聞かれ、琴音は瞬きをした。
昨夜は花を飾る場所を探して、水を入れた細長いグラスへ移し、それから雪だるまを抱いたままベッドへ倒れ込んだ。
眺めるばかりで、写真を撮ることまでは思いつかなかった。
「今から撮ればいいのかな」
「枯れる前には撮っておいた方がいいんじゃない?」
美咲の言葉に、栞もうなずく。
「窓の近く。昼の方が撮りやすい」
「しおりんに撮ってもらった方が綺麗に残るかも」
「琴音が撮った方がいい」
「どうして?」
「高瀬君にもらった琴音が、最初に見たままで残るから」
栞はそれ以上説明せず、グラスについた水滴を指で拭った。
琴音は自室に置いた花を思い浮かべた。
透明なグラスと、机の端。その向こうには、ベッドの上の雪だるま。
「帰ったら撮ってみる」
「見せてね」
「上手く撮れたら」
「上手くなくても見せて」
美咲が念を押す。
「考えておく」
「それ、見せない時の言い方じゃない?」
琴音は答えず、桃のジュースへ口をつけた。
美咲はしばらく琴音を見ていたが、やがて首を傾けた。
「それで、本当の相談は?」
「え?」
「付き合った報告は聞いたし、花ももらった。相談したいことは?」
「……相談」
「昨日、そう言って呼んだでしょ」
言われて、琴音はストローの袋を折り始めた。
細長くしてから半分にする。それをもう一度折ろうとして、上手く重ならずに指が止まった。
相談と言えば、二人が来てくれると思った。
ただ報告したいと書くのは、少し恥ずかしかった。
「特にないかも」
「ないの?」
美咲が目を丸くする。
琴音は紙をテーブルの端へ置いた。
「昨日、帰ってからも落ち着かなくて。誰かに言いたかったんだけど、メッセージだけで報告するのも違う気がしたから」
「だから相談ってことにしたの?」
「うん」
「最初から報告したいって言えばよかったのに」
「それは恥ずかしいよ」
「付き合ったって言うのは恥ずかしくないの?」
「今も恥ずかしい」
「分かる」
栞が琴音の顔を見て言う。
また頬へ手を当てそうになり、琴音は途中でやめた。触れなくても赤くなっているのは分かっている。
「でも、二人には直接言いたかったの」
美咲が少しだけ目を見開いた。
そのあと、仕方がなさそうに息を吐く。
「じゃあ、相談でいいんじゃない?」
「さっき報告だって言ったのに」
「その方が呼びやすかったんでしょ」
「うん」
「ならいいよ。直接聞けたし」
美咲はアイスティーの氷をストローで一度だけ鳴らした。
栞もうなずく。
「私も、琴音から聞けてよかった」
「ありがとう」
口にすると、胸の奥で落ち着かなかったものが少しだけ静かになった。
昨日からずっと、夢の続きを歩いているような感覚があった。颯馬と別れて一人になっても、朝起きても、それが本当に起きたことなのか確かめたくなった。
二人へ話したことで、昨日のことがようやく今日へつながった気がする。
「今度、五人で集まった時に写真撮ろうよ」
美咲が言った。
「五人で?」
「付き合って最初の五人の写真。まだないでしょ?」
「それなら、今までの写真とそんなに変わらないんじゃない?」
「琴音と高瀬君だけは変わったでしょ」
琴音は何も言えず、ストローの先へ視線を落とした。
「二人で並んでって言ったら、颯馬が嫌がりそう」
「言わない」
栞が静かに答えた。
「何も言わずに撮る」
「しおりん、それだと颯馬が変な顔になるよ」
「自然な方がいい」
「消してって言われたら?」
「消さない」
即答だった。
美咲が笑い、琴音もつられて少しだけ笑った。
「でも、颯馬だけじゃなくて悠真君も変な顔をすると思う」
「佐々木君は、撮ると分かっていても変な顔をする」
「それはそうかも」
次に五人で会う日を思い浮かべる。
颯馬と自分が並んでいること自体は、これまでと変わらない。文化祭でも、クリスマスでも、五人で出かけた時も近くにいた。
けれど、次に並ぶ時は恋人同士だ。
そう意識した瞬間、また頬が熱くなる。
「琴音」
「何?」
「今、また高瀬君のこと考えたでしょ」
「考えてない」
「嘘」
「ミサには関係ないよ」
「そういう返し方する時は大体そうなの」
琴音は否定する代わりに、残っていた桃のジュースを飲んだ。
テーブルの上でスマートフォンが震えたのは、その時だった。
画面へ颯馬の名前が表示される。
『何時頃帰る?』
短いメッセージだった。
それだけなのに、口元が緩みそうになる。
「高瀬君?」
美咲に聞かれ、琴音はスマートフォンを隠さなかった。
「うん。颯馬」
「今の顔、月曜日もするの?」
「どんな顔?」
栞が答える。
「口元ゆるゆるの顔」
琴音は反射的に頬へ手を当てた。
「月曜日までには普通にする」
「無理じゃない?」
「ミサ」
「だって今、名前を見ただけで赤くなったよ」
「お店が暑いの」
「さっきは普通だったでしょ」
琴音は美咲から顔を背け、窓の外を見た。
空は昨日と違い、よく晴れている。駅前を行き交う人の中に、知っている姿はない。
颯馬は今、隣の家にいるはずだった。
『もう少ししたら帰るよ』
そこまで入力し、琴音は指を止める。
自分の家へ帰るのか、颯馬のところへ行くのか。きっと颯馬は前者のつもりで聞いている。
琴音は一度消して、別の言葉を打った。
『帰ったら、そっちに行ってもいい?』
返事はすぐに来た。
『いい』
続けて、もう一通。
『夕飯、琴音の分も作ってる』
最初から来ると思っていたらしい。
琴音はスマートフォンを持ったまま、頬へ上がりそうになる手を止めた。美咲と栞が見ている前で、これ以上赤くなるのは避けたい。
けれど、美咲はすでに笑っている。
「帰るの?」
「うん。颯馬のところに」
「そっか」
「何?」
「何でもない。行こっか、栞」
美咲が伝票を持ち、栞も鞄を肩へ掛ける。
三人で店を出たところで別れた。
「琴音」
駅へ向かう前に、美咲が振り返る。
「もう一回だけ。おめでとう」
「……ありがとう、ミサ」
栞も隣から小さく手を上げる。
「月曜日、高瀬君にも言う」
「うん。颯馬、たぶん照れると思うけど」
「琴音と同じ」
「私は照れてないよ」
栞は何も言わず、琴音の顔を見た。
「しおりんまでそういう顔しないで」
「何もしてない」
美咲が笑い、栞もほんの少し口元を緩めた。
二人と別れ、琴音は家へ向かう。
帰ったら、まず花の写真を撮ろう。
机の上だけでもいい。雪だるまも一緒に写すかは、実物を見てから決めればいい。
それが済んだら、合鍵を持って隣へ行く。
颯馬の作った夕飯を食べて、今日、美咲と栞へ報告したことを話す。二人が何と言っていたかまでは、少しくらい隠してもいいかもしれない。
琴音は歩きながら、鞄の中のスマートフォンへ触れた。
今夜もきっと、雪だるまを抱いてしまう。
足をばたつかせないでいられる自信は、まだなかった。




