第63話 幼なじみの、その先
「話がある」
口にした途端、雨音が大きくなった気がした。
琴音は何も言わない。
傘の下で俺を見たまま、次の言葉を待っている。
昨日まで何度も考えた。
スマートフォンへ書き、消して、もう一度書いた。
ノートにも書こうとした。
最初に何を言い、その次に何を伝えるのか。琴音が驚いた場合も、黙った場合も、自分なりに考えてきた。
そのはずだった。
今は、最初の一言さえ出てこない。
雨粒が傘を叩く。
心臓が速かったのは、坂を上ってきたせいだけではないだろう。
「うん」
琴音が短く答えた。
傘の柄を握る指が、わずかに動く。
「聞くよ」
逃げ道を塞がれた。
琴音が塞いだのではない。
ここまで来て、まだ別の話を始めようとした自分の方だった。
「前に」
ようやく声が出た。
「琴音と離れたくないって言っただろ」
「うん」
「あのあと、考えた」
「何を?」
「あれは、ほとんど告白だったんじゃないかって」
琴音が一度瞬きをする。
しばらく真顔で俺を見たあと、口元が少し緩んだ。
「気づくの、遅いよ」
「分かってる」
「言ったときは気づいてなかったの?」
「そこまで考えてなかった。琴音に聞かれて、思ってたことを答えただけだよ」
「それで、あとから気づいたんだ」
「ああ」
琴音は傘の外へ視線を移した。
雨にかすんだ街を見て、またこちらへ戻す。
「一か月もかかったね」
「数えてたのか?」
「待ってたから」
琴音は笑っていなかった。
責めるような言い方でもない。
ただ、俺が言葉にするまでの一か月を、本当に待っていたらしい。
その事実へ追いつくまで、少し時間がかかった。
「期待するって、そういう意味だったのか?」
「今さら聞くの?」
「念のため」
「颯馬が、私と離れたくないって言ったから」
「うん」
「その続きがあるのかなって、期待してた」
琴音の声は、雨音に紛れそうなくらい小さかった。
それでも、一言ずつはっきり聞こえた。
胸の奥で固まっていたものが、少しだけほどける。
断られないとは限らない。
けれど、俺が一人でここまで来たわけではなかった。
琴音も、続きを待ちながら隣を歩いていた。
「遅くなって悪かった」
「うん。遅かった」
「そこは、気にしてないって言わないのか?」
「一か月分は言っておきたいから」
「そんなに待たせたつもりはなかったんだよ」
「待たせる方は、そうだと思う」
琴音の口角が上がる。
いつものように少しだけからかわれたことで、ようやく息ができた。
それでも、肝心なことはまだ言っていない。
手提げ袋を持つ指へ力を込める。
傘の下では、琴音との距離が近すぎた。
目をそらせば、また雨の街へ逃げられる。
だから、琴音だけを見る。
「琴音」
「うん」
用意していた文章は、やはり戻ってこなかった。
幼なじみだからではなく。
大学へ進んだあとも。
帰ってくる場所の近くに。
断片だけが浮かび、すぐに消える。
順番はもうどうでもよかった。
「好きだ」
声が震えなかったか、自分では分からない。
ただ、今度は雨音に負けなかった。
琴音の目がわずかに大きくなる。
傘を握る手が止まり、唇が少し開いた。
返事はない。
数秒しかたっていないはずなのに、随分長く感じた。
「琴音が好きだ」
もう一度言った。
一度目より、少しだけ声が出た。
「幼なじみだから一緒にいるんじゃなくて、琴音だから一緒にいたい」
昨夜書いたとおりではなかった。
言葉の順番も違う。
それでも、一つ言うと、次の言葉が出てきた。
「大学へ行っても、その先も、琴音の近くにいたい」
琴音が何か言おうとした。
けれど、今止まれば二度と続きが言えない気がした。
「琴音がうちへ来たら、これからも御飯を作りたい。帰ってくるなら待っていたいし、おかえりって言いたい」
琴音の眉が少し上がる。
そこでようやく、自分がどこまで言っているのか気づいた。
昨日、重すぎると思って消した言葉だった。
本人を前にして頭が真っ白になった結果、消したはずの言葉だけが全部出ている。
「今のは」
「うん」
「少し先まで言いすぎた」
「少し?」
「かなり」
琴音が口元へ手を当てる。
肩がわずかに揺れた。
「笑うなよ。こっちは真剣なんだぞ」
「笑ってないよ」
「笑ってるだろ」
「嬉しいから」
琴音は手を下ろした。
目元を緩めたまま、まっすぐこちらを見る。
「ほとんど告白だったときより、ずっと言いすぎてる」
「分かってる」
「大学の先もって、ほとんどプロポーズだよ」
「そこまでは言ってない」
「御飯を作って、待ってて、おかえりって言うんでしょ?」
「今のは忘れてくれ」
「嫌」
「即答するなよ」
「忘れたくないから」
琴音の声は穏やかだった。
恥ずかしさで身体ごと雨の中へ出たくなる。
しかし、まだ最後まで言えていない。
これだけ将来の話をしておいて、肝心な一言を残していた。
「それで」
「うん」
琴音が笑みを収める。
今度は、言葉を考えなかった。
「俺と付き合ってほしい」
ようやく言えた。
一か月前なら、口にすることさえ想像できなかった言葉だった。
言ったあと、急に周囲が静かになった。
雨は続いている。
傘にも、柵にも、舗装路にも降っている。
それなのに、琴音が息を吸う音まで聞こえた。
「颯馬は」
琴音が口を開く。
「いつから私が好きだったの?」
「分かったのは、春休み」
「分かったのは?」
「好きになったのは、分からない」
「自分のことなのに?」
「気づいたら、そうなってたんだよ」
「本当に遅いね」
「自分でもそう思う」
琴音は一度、街の方へ視線を向けた。
すぐに俺へ戻す。
「私は、もっと前から分かってたよ」
「いつから?」
「今は教えない」
「何で」
「一か月待たされたから」
「それとこれとは関係ないだろ」
「あるよ」
琴音の口元が少し上がった。
いつもの琴音だった。
ただ、その目は普段よりも近く、こちらからそらされない。
「それで、返事は?」
「今の話で分からない?」
「今日は、はっきりさせたい」
琴音が傘の下で一歩近づく。
もともと近かった距離が、さらに狭くなる。
肩が触れた。
離れることもできたが、琴音はそのままだった。
「私も、颯馬が好き」
用意していたどの返事より、短かった。
けれど、その一言だけで十分だった。
手提げ袋を握っていた指から、力が抜けそうになる。
慌てて持ち直した。
「付き合うってことでいいのか?」
「そこまで聞かないと分からない?」
「分かってるけど、言ってほしい」
琴音が少し目を見開く。
やがて、困ったように笑った。
「今日の颯馬、欲張りだね」
「一か月かかったからな」
「待ったのは私だよ」
「なら、待った分まではっきり言ってくれ」
琴音は一度目を伏せた。
傘の柄を握り直し、顔を上げる。
「颯馬と付き合いたい」
声は小さかった。
雨音の中でも、聞き間違えるはずがなかった。
「これで分かった?」
「ああ」
「本当に?」
「分かったよ」
琴音の表情がほどける。
その顔を見た瞬間、張り詰めていた身体から一気に力が抜けた。
傘を落としかけ、慌てて握り直す。
「危ないよ」
「琴音のせいだろ」
「私、何もしてないけど」
「返事した」
「返事したら、傘を落とすの?」
「思ってたより安心したんだよ」
口にしてから、また余計なことを言った気がした。
琴音は目を細める。
「そっか。安心したんだ」
「何回も言わせるなよ」
「今日は聞きたいことが多いから」
「まだあるのか?」
「その袋」
琴音が手提げ袋を見る。
朝からずっと気にしていた物だった。
いざこの場に立ってみるとそんなものは頭から消えていた。
「ああ」
傘の持ち手を琴音へ差し出す。
「少し持っててくれ」
「うん」
琴音が傘を受け取る。
手提げ袋から細長い紙袋を出した。
雨が入らないよう、身体の近くへ寄せる。
包装を確かめ、淡い色の花を取り出した。
琴音の目が大きくなる。
「花?」
「一輪だけだけど」
「私に?」
「ほかに誰がいるんだよ」
琴音は傘を持ったまま、受け取ろうと片手を伸ばす。
途中で止め、俺を見る。
「触っていいの?」
「朝とは違う。琴音に渡すために持ってきたんだから」
「そっか」
琴音は花を受け取った。
茎を両手で持ち、しばらく眺める。
顔を近づけて香りを確かめ、雨に濡れないよう胸元へ寄せた。
「これも、昨日買ったの?」
「ああ」
「一人で花屋に入ったの?」
「そうだよ」
「何て言って買ったの?」
「そこまで聞く必要あるか?」
「あるよ」
「贈り物だって言った」
「誰に?」
「相手までは言ってない」
「何の贈り物?」
店員との会話がよみがえる。
答えづらい。
黙っていると、琴音の表情が楽しそうなものへ変わった。
「何か言ったんだ」
「記念日かって聞かれた」
「それで?」
「まだ違うって答えた」
琴音が花を見下ろす。
口元がゆっくり上がっていった。
「今日は?」
「何が」
「記念日になった?」
「琴音がそうしたいなら」
「颯馬は?」
「俺は、そのつもりで買ったよ」
言ってから、顔が熱くなる。
告白が終わった途端、口が言うことを聞かなくなった。
琴音は花を胸元へ寄せたまま、少し俯いた。
「今日の颯馬、すごく頑張ったんだね」
「笑うなよ」
「笑ってないよ」
「笑ってる」
「嬉しいの」
琴音が顔を上げる。
その笑顔は、学校で見るものとも、うちで夕食を食べるときのものとも少し違っていた。
俺だけへ向けられている。
そう思ってもいい日になった。
何か返そうとしたところで、琴音が傘の外へ手を出した。
「颯馬」
「何」
「雨、やんでる」
言われて初めて、傘を叩いていた音が消えていることに気づいた。
琴音が傘の外へ手を差し出す。
掌には、もう雨粒が落ちてこない。
代わりに、傘の縁へ残っていた雫が一つだけ落ち、琴音の指先を濡らした。
「本当だ」
傘を閉じる。
途端に、狭かった視界が大きく開けた。
公園へ着いたときには空一面を覆っていた雨雲が、西の端からゆっくり割れ始めている。
雲の切れ間から、細い光が差し込んだ。
最初は、遠くの建物の屋根を照らすだけだった。
次の瞬間には光の筋が太くなり、雨に沈んでいた街を斜めに横切る。
灰色だった住宅地へ色が戻っていく。
濡れた屋根。
細い道路を走る車。
駅前のビルの窓。
土曜日にここから見たものより、どれも輪郭がはっきりしていた。
目の前の手すりも、舗装路も、水たまりも、橙色の光を返している。
風が木々を揺らすたび、葉に残っていた雨粒が一斉に落ちた。
小さな音が周囲へ広がる。
「晴れたな」
「遅かったね」
「てるてる坊主、役に立たなかった」
「そんなことないよ」
琴音は花を胸元へ寄せたまま、夕日に照らされた街を見下ろした。
風で髪が頬へかかる。
琴音は空いている手でそれを耳へ戻し、何かに気づいたように顔を上げた。
「颯馬、あれ」
琴音が街とは反対側を指す。
振り返る。
東の空には、まだ灰色の雨雲が残っていた。
その手前へ、薄い虹が浮かんでいる。
端から端まできれいにつながった虹ではない。
雲の途中から現れ、街へ届く前に消えている。
色も淡く、目を離した隙に消えてしまいそうだった。
それでも、確かにそこにあった。
「てるてる坊主、遅れて効いたね」
「告白のときじゃなきゃ意味ない」
「あるよ」
「何に?」
「帰りに傘を差さなくて済む」
「それだけ?」
琴音は答えず、虹を見上げた。
夕日の光が、横顔と胸元の花を同じ色に染めている。
濡れた髪の先で、小さな雫が光った。
「それと、颯馬と見られた」
虹を見るために顔を上げたはずなのに、いつの間にか琴音の方を見ていた。
雨にかすんだ街でもなく、遅れて現れた夕日でもない。
今ここに琴音がいることが、一番現実らしくなかった。
さっきまで、告白したあとのことを何も想像できなかった。
今は、琴音が俺の渡した花を持ち、隣で同じ虹を見ている。
「作ってよかったね」
「母さんに見つからなければな」
「私も写真で見たよ」
「琴音ならいい」
口にしてから、以前なら言えなかった言葉だと気づいた。
琴音が虹からこちらへ顔を向ける。
「彼女だから?」
彼女。
その言葉だけが、見慣れないもののように聞こえた。
意味は知っている。
今までにも誰かが口にするのを何度も聞いた。
それなのに、琴音が自分のことをそう呼うと、雨上がりの景色より現実味がなかった。
「……そうなるな」
「そこは、そうだって言ってよ」
「そうだよ」
「もう一回」
「調子に乗るな」
「さっき颯馬も、はっきり言ってほしいって言ったでしょ」
断れなかった。
琴音は花を抱えたまま、俺の言葉を待っている。
「琴音は、俺の彼女だよ」
声にすると、ようやく言葉の意味が追いついてきた。
琴音の口元がゆっくり上がる。
「うん」
その一言だけを返し、もう一度虹へ顔を向ける。
今度は俺も同じ方を見る。
雲間から差す光はさらに広がり、街の奥まで届いていた。
濡れた道路は、一本の長い光の帯のように続いている。
夕日の中で、雨雲だけがゆっくり東へ流れていく。
虹は少しずつ薄くなっていた。
それでも、消える前に二人で見られた。
◇
高台を下りるころには、空の色が変わっていた。
西側は濃い橙色に染まり、その上には雨上がりの青が残っている。二つの色の境目を、細長い雲がゆっくり流れていた。
土曜日には何でもなかった街並みが、今は別の場所のように見える。
雨に洗われた住宅の壁。
軒先から不規則に落ちる雫。
水たまりを踏まないよう、光の残る場所を選んで歩く人。
閉じた傘を持ち、琴音と並んで坂道を下る。
上りより足元は滑りやすい。
琴音は花を濡らさないよう片手で胸元へ持ち、もう片方の手を少し広げて歩いていた。
足元より花を見ている時間の方が長い。
「転ぶぞ」
「大丈夫だよ」
言った直後、琴音の靴が濡れた落ち葉を踏んだ。
身体が傾く。
反射的に腕をつかんだ。
「危ないだろ」
「……大丈夫じゃなかった」
「ちゃんと前を見ろよ」
「花を見てたから」
「ずっと見ていなくても、花は逃げないぞ」
「分かってるけど、見ていたかったの」
琴音は腕をつかまれたまま答えた。
花を胸元へ寄せ、少し気まずそうにこちらを見る。
その顔を見ていると、すぐに手を離す理由が見つからなかった。
告白する前なら、転ばなくなった時点で離していたと思う。
今は、その必要がなかった。
腕から手首へ持ち替える。
琴音が俺の手を見る。
「何?」
「また滑ったら危ないから」
「うん」
琴音の指が、俺の手へ触れた。
すぐには握らない。
指先で位置を確かめるように触れたあと、ゆっくり重なっていく。
最後に掌同士が触れた。
手をつないだ。
どちらからともなく、という言い方は正しくないかもしれない。
俺が離さなかった。
琴音も、離れなかった。
雨上がりの坂を下る。
琴音の手は、傘の柄よりずっと持ちづらかった。
握る力が強すぎる気がして少し緩める。
離されると思ったのか、琴音の方からすぐに握り直された。
「離さなくていいよ」
「滑ると危ないからな」
「それだけ?」
「今日は質問が多いな」
「今日は答えてくれるから」
秘密にしていた場所も、袋の中身も、琴音への気持ちも、もう隠す必要はなかった。
それでも、今の質問へ答えるには少しだけ時間がかかった。
琴音の指へ、もう一度力を返す。
「離したくないからだよ」
琴音は前を向いたまま、花を持つ手を胸元へ寄せた。
「そっか」
短い返事だった。
つないだ手だけが、少し強く握られる。
住宅地まで下りる。
見慣れた帰り道へ戻っても、手は離れなかった。
夕日は屋根の向こうへ沈み始めている。
濡れた道には、まだ橙色の光が残っていた。
「今日はどっちへ帰る?」
琴音が尋ねる。
「自分の家」
「そうか」
「でも、先に颯馬のところへ寄る」
「何で」
「おばさんに花を見せる」
「やめろ」
「彼氏にもらったって言うだけだよ」
足が止まった。
琴音も、つないだ手に引かれて同じ場所で止まる。
「何?」
「母さんにはまだ言うな」
「どうして?」
「てるてる坊主も花も見られた時点で、だいたい分かってると思うけど」
「なら、言っても同じだよ」
「俺から言う」
口にすると、不思議なくらい迷いはなかった。
隠したいわけではない。
琴音と付き合うことになったと、自分の口で伝えたかった。
今日まで一か月もかかった。
その最後まで、琴音に先を越されたくなかった。
琴音は少し驚いたあと、花を抱えたまま笑った。
「分かった。一緒に言おう」
「何で一緒なんだよ」
「私も付き合ってるから」
「そうだけど」
「一人で言う?」
「……一緒でいい」
「うん」
琴音が一歩先へ進む。
つないだ手が引かれ、俺も歩き出した。
夕日を背にした琴音の影が、濡れた道へ長く伸びる。
俺の影と重なり、少し揺れながら同じ方向へ続いていた。
「早く帰ろう、颯馬」
離れたくないと思った相手は、今日も同じ場所へ帰る。
青い花柄の茶碗も、古いジャージも、琴音が来る日には二人分になる夕食も、明日から急に変わるわけではない。
玄関で聞く「ただいま」も、返す「おかえり」も、きっと昨日までと同じだった。
けれど、つないだ手は昨日までにはなかった。
琴音はもう、ほとんど恋人ではない。
彼女だった。
雨上がりの空には、消えかけた虹の端がまだ残っている。
ここまで颯馬と琴音を見守ってくださり、ありがとうございます。
長かったような、二人にしてはこれでも早かったような。
ようやく二人が恋人になりました。
本編はまだ続きます。
恋人になっても急に器用にはなれない二人なので、学校での過ごし方や、いつもの夕食がどう変わっていくのかも順次更新していく予定です。
幼なじみから恋人になった二人の続きを、もう少し一緒に見守っていただけたら嬉しいです。
ほかにも作品を投稿していますので、よろしければ作者ページからのぞいてみてください。
今後ともよろしくお願いします。




