第62話 金曜日のてるてる坊主
金曜日の朝、窓際のてるてる坊主は、昨日と同じ角度で傾いていた。
カーテンを開ける。
空は明るいとは言い難かったが、雨は降っていない。雲の切れ間には、薄い青空も見えていた。
天気予報を開く。
降水確率は四十パーセント。
昨夜から変わっていない。
「頼むぞ」
顔のないてるてる坊主へ声をかける。
当然、返事はなかった。
斜めに傾いたまま、作った本人より落ち着いて見える。
机の横には、細長い紙袋を入れた手提げ袋が置いてあった。
花が傷まないよう、昨夜から細い花瓶へ移していた。今朝になって母さんに茎の根元を湿らせてもらい、店でもらった紙袋へ戻してある。
母さんは何も聞かなかった。
ただ、包み終えた花を渡すとき、
「忘れないようにね」
とだけ言った。
忘れるわけがない。
今日に限っては、教科書より先に花を持つ自信があった。
制服へ着替え、鞄を肩へ掛ける。手提げ袋を持って部屋を出る前に、もう一度窓際を見た。
今のところは勝っている。
きっと、うまくいく。
そう思って家を出た。
◇
教室へ入ると、琴音は既に席へ座っていた。
俺を見たあと、その視線がすぐに手提げ袋へ落ちる。
「おはよう、颯馬」
「おはよう」
「それ、何?」
「学校へ持ってきた物」
「それは見れば分かるよ」
琴音は袋から目を離さない。
「中身を聞いてるの」
「今は言えない」
「また?」
「今日中には分かる」
「私に関係ある?」
答えるまでに、わずかな間ができた。
それだけで十分だったらしい。琴音の口角が少し上がる。
「あるんだ」
「まだ何も言ってないだろ」
「ないなら、すぐにないって言うでしょ」
「朝から質問が多い」
手提げ袋を机の横へ掛けようとして、やめた。
誰かが列の間を通れば、ぶつけるかもしれない。机の中へ横にして入れるわけにもいかなかった。
結局、窓側へ寄せてある琴音の鞄と、俺の鞄の間へ置く。
「大事な物?」
「一応」
琴音はまだ気になるようだったが、伸ばしていた手を引いた。
「分かった。触らない」
「助かる」
「見るだけにする」
「見ても袋しか見えないぞ」
「颯馬が気にしてるところを見るの」
「俺を観察するなよ」
「昨日、私のこと何回も見てたでしょ」
「数えてたのか?」
「数えてないよ。何回か分からなくなるくらい見てたから」
琴音はおかしそうに笑った。
そんなに見ていたつもりはない。
否定しかけたが、思い当たることが多すぎてやめた。
一時間目の教科書を取り出す。
授業の準備をしていても、視界の端には手提げ袋が残ったままだった。
琴音も同じらしい。
教科書を開いたあと、袋を一度だけ見た。俺と目が合うと、何事もなかったようにページへ視線を戻す。
中に入っているのが花だと知ったら、どんな顔をするのだろう。
そこまで考えると、その先には必ず告白があった。
昨夜まで覚えていた言葉が、朝から少しずつ頼りなくなっていく。
◇
午前中、雨は降らなかった。
二時間目の休み時間に天気予報を確認する。
四十パーセント。
昼休みに開いても、四十パーセントだった。
「今日、五回目」
隣から琴音が言った。
「どうして琴音が数えてるんだ?」
「颯馬が見るたび、私も気になるから」
琴音もスマートフォンを取り出し、同じ地域の天気予報を開いた。
「夕方から小雨だって」
「まだ降ると決まったわけじゃない」
「うん」
「何だよ」
「颯馬の方が、天気予報より晴れるって信じてるなと思って」
「昨日、あれを作ったからな」
「のっぺらぼうのてるてる坊主?」
「顔は関係ない」
「効くといいね」
琴音は窓の外を見たあと、スマートフォンを閉じた。
今日は三浦と佐々木が来ていない。
五組で体育祭の係を決める話し合いがあるらしい。小宮山も写真部の用事で、昼休みの早いうちに教室を出ていた。
久しぶりに、学校で琴音と二人だけの昼食になった。
周囲にはクラスメイトがいる。
完全に二人きりではない。
それでも、いつもの五人分の椅子がないだけで、机の上が広く感じられた。
「放課後、すぐに出るんだよね?」
「ああ。ホームルームが終わったら」
「ミサに話しかけられても?」
「三浦にも予定があるだろ」
「もし待ってって言われたら?」
「用事があるって断るよ」
琴音の箸が止まる。
「私との?」
「ほかにないだろ」
「そっか」
琴音は弁当箱へ視線を落とし、卵焼きを口へ運んだ。口元には小さな笑みが残っている。
「琴音は?」
「何が?」
「誰かに呼び止められたら」
「断るよ」
「すぐに?」
「うん。今日は颯馬との予定が先だから」
琴音は迷わず答えた。
今度は俺の箸が止まった。
同じ日を、琴音も自分の予定として待っている。
すぐに御飯を口へ運んだが、いつもより飲み込むまでに時間がかかった。
放課後になれば、琴音を展望公園へ連れていく。
袋の中の花を渡す。
好きだと言う。
今は、その順番まで考えられる。
本人を前にしても同じように進められる保証はなかった。
◇
六時間目が始まるころ、教室の外が暗くなった。
窓側にいる琴音が空を見る。
つられて顔を向けると、厚い雲が校舎の上を覆っていた。まだ雨は落ちていないが、風にあおられた木の枝が大きく揺れている。
授業が始まる。
教師が黒板へ数式を書き、問題集のページを指定した。
ノートを開いたところで、窓へ小さな音が当たる。
一度だけ。
数秒後、もう一度。
窓ガラスへ、小さな水滴が残った。
琴音がこちらを見る。
目が合う。
何も言わなかったが、同じことを考えているのは分かった。
てるてる坊主は負けた。
それから十分もたたないうちに、雨粒が窓全体を叩き始めた。
教師は気にせず授業を続けている。
黒板へ書かれた数式をノートへ写す。
一行書いて、窓を見る。
雨は弱くなっていない。
もう一行書く。
今度は手提げ袋を見る。
袋の中に入っているとはいえ、花は濡らしたくなかった。
晴れた街と夕日を見せるつもりだった。
濡れた公園へ琴音を連れていって、本当にいいのか。
迷いかけたところで、琴音がノートの端へ何かを書いた。
机の境目から、こちらへ寄せる。
『中止?』
琴音は黒板へ顔を向けているが、視線だけは手元へ落ちていた。
シャープペンシルを借り、その下へ書く。
『行く』
二文字だけだった。
書くときには、手が止まらなかった。
琴音は文字を見たあと、俺の顔を見る。
小さく頷き、ノートを自分の方へ戻した。前を向いたあとも、口元はわずかに緩んでいた。
雨はやまなかった。
それでも、もう中止にする気はなかった。
◇
帰りのホームルームが終わる。
教師が教室を出るより先に、琴音は教科書を鞄へ入れ始めた。
俺も帰り支度をする。
手提げ袋を持ち上げ、中を確かめる。
花は無事だった。
「行こう、颯馬」
「ああ」
いつもなら、教室を出る前に机の中を一度見る。
今日は琴音が先に気づいた。
「颯馬、数学の問題集」
机の中に残っている。
「悪い」
「今日は私の方が落ち着いてるね」
そう言う琴音の鞄からも、ノートの端がはみ出していた。
「琴音も出てるぞ」
「え?」
指した先を見て、慌ててノートを押し込む。
「……今のは急いでただけ」
「落ち着いてるんじゃなかったのか?」
「颯馬よりはね」
琴音は目をそらし、誤魔化すように手提げ袋を見た。
「その袋があるから気をつけてるの?」
「そうだよ」
「大事なんだ」
「何回聞くんだ」
「今日分かるんでしょ?」
「ああ」
琴音は満足したように頷いた。
二人で教室を出る。
廊下の窓から見る雨は、授業中より少し強くなっていた。
昇降口には、傘を広げる生徒が集まっている。
靴を履き替え、外を見た琴音が鞄の中を探った。
手が止まる。
「傘、ないや」
「雨が降るかもしれないって知ってただろ」
「てるてる坊主の力を信じてたもん」
本気なのか、持ってくるのを忘れただけなのか分からない。
昨日までなら、折り畳み傘くらい入れておけと言ったと思う。
今日は、その言葉より先に鞄から傘を出していた。
「こっちに入れよ」
琴音が顔を上げる。
俺の顔と傘を交互に見たあと、ゆっくり口元を緩めた。
「何だよ」
「ううん。入れて」
傘を開く。
琴音が隣へ入った。
普段並んで歩くときより、肩が近い。
触れてはいない。
けれど、傘の内側へ二人で収まろうとすれば、少し動くだけで触れそうだった。
校門を出る。
片手に傘、もう片方に手提げ袋を持っているため、思うように歩けない。
水たまりを避けようとするたび、傘の位置がずれる。
「颯馬、そっち濡れてるよ」
「紙袋を濡らしたくない」
花を持つ手へ傘を寄せているため、反対側の肩が外へ出ていた。
「私より紙袋が大事?」
「琴音は傘に入ってるだろ」
「颯馬が入ってないよ」
「このくらいなら平気だよ」
琴音が傘の柄を持つ俺の腕へ手を添えた。
軽くこちらへ引く。
傘が二人の中央へ戻った。
触れた手はすぐに離れた。それでも、腕の同じ場所がしばらく気になった。
「私も少し濡れるから、半分ずつ」
「濡れないための傘だぞ」
「颯馬だけ濡れるよりいいよ」
「風邪を引いても知らないからな」
「颯馬もね」
琴音が半歩近づく。
肩同士の距離が狭くなった。
雨の中を歩く。
傘を打つ音が近い。
道路を走る車が水を跳ね、二人同時に歩道の内側へ寄った。
琴音の肩が腕へ触れる。
「悪い」
「私からぶつかったんだけど」
「やっぱり」
「ごめん」
琴音は謝ったあと、前を向いたまま小さく笑った。
「何だよ」
「颯馬と相合い傘するの、初めてだなと思って」
「前にもなかったか?」
「小学生のときは、傘を持ってなかった方が走って帰ってたよ」
「濡れる方が早いからな」
「今は入れてくれるんだね」
「走ったら紙袋が駄目になる」
「私のためじゃないんだ」
「琴音を濡らさないためでもあるよ」
考える前に答えていた。
琴音の足が一歩だけ遅れる。
すぐに追いついたが、今度はこちらを見なかった。
「そっか」
短い返事のあと、さっきまでより少し近い場所を歩き始める。
急に、傘の中が狭く感じられた。
◇
駅前を過ぎ、住宅地へ入る。
「こっちなんだ」
琴音が周囲を見る。
「もう少し歩く」
「土曜日、こっちから帰ってきたよね」
「ああ」
「やっぱり下見してたんだ」
「今さらか?」
「何の下見かは知らなかったから」
琴音は手提げ袋を見たが、それ以上は聞かなかった。
坂道へ入る。
雨水が細い流れになり、道路の端を下っていた。晴れていた土曜日より、足元を確かめながら歩かなければならない。
「本当に山だったね」
「山と言うほどじゃないだろ」
「坂はあるって教えてくれてもよかったのに」
「通学靴で来られるって言った」
「それだけだったよ」
琴音は文句を言いながらも、歩く速度を落とさなかった。
「疲れたか?」
「まだ大丈夫」
「休む?」
「着いてからでいい」
琴音は坂の先を見る。
「颯馬が連れていきたいところなんでしょ?」
「ああ」
「なら、早く見たい」
足を止める理由がなくなった。
坂を上り続ける。
やがて、展望公園の入口が見えた。
「ここ?」
「ここ」
琴音が公園の奥を見る。
土曜日に見た景色とは、何もかも違っていた。
街は灰色の雨にかすんでいる。
遠くの山はほとんど見えない。
三つあるベンチはすべて濡れ、舗装された場所には水たまりができていた。
夕日が沈むはずの方角には、厚い雲が広がっている。
下見した意味がないと思った。
あれだけ条件を考えた。
人が少なく、街を見渡せて、日没にも間に合う場所。
人が少ないことだけは、予定どおりだった。
この雨の中、公園には俺たち以外、誰もいない。
「思ってたのと違う?」
琴音が傘の下から俺を見る。
「かなり」
強がる気にもなれなかった。
「どんな予定だったの?」
「晴れてて、街が見えるはずだった」
「夕日も?」
「できれば」
琴音が雲の向こうを見る。
夕日のある方角すら、はっきりしない。
「それで、颯馬が持ってる物を渡す予定だった?」
手提げ袋へ視線を落とす。
「それもある」
「ほかには?」
「……今から言う」
口にした瞬間、琴音の表情が変わった。
手提げ袋へ向いていた視線が俺の顔まで上がり、そこで止まる。
琴音は問い返さなかった。
傘の柄を握り直し、俺の次の言葉を待っている。
傘を打つ雨音だけが、二人の間へ落ち続けた。
ここへ来るまで、何度も順番を考えた。
公園へ着いたら、まず街を眺める。
少し話をしてから、切り出す。
用意した言葉を伝える。
最後に花を渡す。
そのはずだった。
実際には景色がほとんど見えず、二人とも一本の傘の下にいる。
琴音の顔が近い。
用意した言葉より、目の前にいる琴音の方がずっとはっきりしていた。
「景色、ほとんど見えないな」
言うべきことから逃げるように、街へ顔を向けた。
「あの辺が駅?」
琴音が雨の向こうを指す。
建物の輪郭が、灰色の中で薄く重なっていた。
「たぶん」
「あっちが颯馬のところ?」
「もう少し右だと思う」
「私のところも?」
「近いからな」
琴音はしばらく街を見ていた。
雨で何も見えないと言いながら、見える物を一つずつ探している。
「私は、雨でも来られてよかったよ」
「景色がほとんど見えないぞ」
「晴れた景色は、また来れば見られるでしょ」
「また?」
「駄目?」
琴音がこちらを見る。
さっきまでの笑みが消え、俺の返事を待っていた。
「駄目じゃない」
答えると、琴音の目元が緩んだ。
「じゃあ、今度は晴れた日に来よう」
「ああ」
「今日は、颯馬と来たかったから」
琴音は言ったあと、街へ顔を向けた。
横顔しか見えない。
それでも、傘の内側で口元が緩んでいることは分かった。
傘を持つ手へ力が入る。
晴れていない。
夕日も見えない。
ベンチにも座れない。
下見をした日の俺が考えていたものとは、何もかも違う。
けれど、琴音は隣にいる。
雨の中を歩き、濡れた坂を上り、何も見えない公園までついてきた。
また来ようと言った。
もう、場所や天気を言い訳にはできなかった。
傘を持ち直す。
琴音へ身体を向けた。
「琴音」
「うん」
名前を呼ぶと、琴音もこちらへ向いた。
紙袋を持つ指が滑りそうになり、強く握り直す。
昨夜まで覚えていた言葉は、一つも浮かばなかった。
琴音は俺を見ている。
さっきまで何度も笑っていた口元は、今はまっすぐに結ばれていた。
緊張しているのは、俺だけではないらしい。
そう思うと、胸の奥で暴れていたものが、ほんの少しだけ静かになった。
街へ顔を戻せば、また言えなくなる。
だから、そのまま目をそらさなかった。
「話がある」




