第65話 学校一の美少女に彼氏ができた
「颯馬、口についてるよ」
月曜日の昼休み。
ほかの三人より先に中庭へ着いた俺と琴音は、校舎に近いベンチへ並んで座っていた。
琴音に言われ、俺はパンの欠片がついたらしい口元を手の甲で拭う。
「反対」
「こっちか?」
「もう少し下」
「どこだよ」
「動かないで」
琴音の指が口元へ触れた。
小さな欠片を取り、ティッシュへ包む。
「取れたよ」
「ああ」
「それだけ?」
「……ありがとう」
「どういたしまして」
琴音は満足そうに弁当へ戻った。
金曜日に付き合い始めてから、まだ三日しか経っていない。
隣で昼を食べるのも、放課後の予定を話すのも、以前からしていたことだ。違うのは、琴音が少し近づくだけで、その理由を考えるようになったことだった。
「今日も帰ったら勉強する?」
「そのつもりだ。夕飯は何がいい?」
「スーパーで見てから決めたい」
「なら一緒に来いよ」
「うん。彼氏と買い物して帰る」
俺が返事に詰まると、琴音は自分で言ったくせに弁当へ視線を落とした。耳まで赤くなっている。
「お前、自分から言って照れるなよ」
「まだ慣れてないの」
「こっちまで恥ずかしくなってくる」
「言いたいから練習してるんだよ」
琴音はそう言って、少しだけ肩を寄せてきた。
「お前ら、ついに付き合ったのか?」
声がして振り返る。
中庭の入口から、佐々木、三浦、小宮山が歩いてきていた。
佐々木は弁当の入った袋を片手に下げ、面白そうに俺たちを見ている。
冗談半分の聞き方だった。
どうせ二人とも否定すると思っているのだろう。返事を待たず、ベンチへ袋を置いている。
琴音は膝の上へ両手を置いた。
「……うん」
佐々木の動きが止まる。
「金曜日から、付き合ってるよ」
「え?」
「私と颯馬」
「本当に?」
「本当だ」
俺も答えると、佐々木は俺と琴音を何度も見比べた。
「高瀬、お前、告白したのか?」
「俺から言った」
「本当に高瀬から?」
「何回確認するんだよ。俺が琴音に付き合ってほしいって言った」
「颯馬、そこまで言わなくても……」
琴音が小声で止める。
「佐々木が信じないからだろ」
「今ので完全に信じた」
佐々木は三浦へ顔を向けた。
「美咲、知ってた?」
「土曜日に聞いたよ」
「栞さんは?」
「私も」
二人が驚いていないことに気づき、佐々木は立ったまま肩を落とした。
「俺だけ知らなかったのか……」
「ごめんね、悠真君」
「琴音さんは悪くないよ。高瀬が悪い」
「何で俺なんだよ」
「金曜日に付き合ったんだろ。土曜と日曜、二日もあったじゃん」
「こういう話は直接するものだと思ったんだよ」
「じゃあ、今日会ってすぐ言ってくれてもよかったよな?」
「今から話すつもりだった」
佐々木が疑わしそうに俺を見る。
「本当に?」
「お前に隠してどうする。告白する前にも話を聞いてもらったしな」
「高瀬……」
「その顔やめろ」
「ちょっと感動しただけだよ」
「気持ち悪い」
「そこまで言うことないだろ」
佐々木は文句を言いながらも、ようやく弁当を開いた。
「でも、そうか。学校一の美少女に彼氏ができたのか……」
「何でお前が落ち込むんだ」
「俺たち男子の希望が一つ消えたんだぞ」
「お前、琴音をそういう目で見てたのか?」
俺が身体ごと向き直ると、佐々木はすぐに笑った。
「冗談だって。俺が琴音さんを狙ってたわけないだろ」
「なら紛らわしいこと言うな」
「でも、明日には学年中に広がってると思うぞ」
「そんなに早く広がらないよ」
琴音が困ったように言う。
少し離れたベンチでは、女子生徒が二人、こちらを見ていた。琴音と目が合うと、慌てたように顔をそらす。
「もう聞かれたんじゃないか?」
佐々木に言われ、琴音が声を落とす。
「颯馬は平気?」
「一年前ならまだしも、隠すのも今更だろ」
「そっか」
琴音は小さく笑った。
その時は、それで終わると思っていた。
◇
佐々木の予想は、半分だけ外れた。
噂が学年へ広がるのに、次の日までかからなかった。
五時間目が始まる前、前の席の女子が椅子をこちらへ向ける。
「相沢さん、高瀬君と付き合ってるって本当?」
教室の話し声が少しずつ小さくなった。
琴音が俺を見る。頬が赤い。
「本当だ」
俺が答えると、女子生徒の視線がこちらへ移った。
「高瀬君から答えるんだ」
「俺にも関係あるからな」
「高瀬君から告白したの?」
「ああ」
「颯馬」
「事実だろ」
「そうだけど……」
琴音が耳の近くの髪へ触れる。
女子生徒はその様子を見て、隣の友人と顔を見合わせた。
「やっと付き合ったんだね」
琴音が瞬きをする。
「やっと?」
「前から仲よかったでしょ。文化祭でも一緒にいたし、最近は毎日話してるし」
「幼なじみだからだと思われてると思ってた」
「それにしては近かったよ」
別の女子も会話へ入ってきた。
「付き合ったって聞いても、あまり驚かないかも」
「二人とも、おめでとう」
「ありがとう」
琴音が照れたように笑う。
教室の後ろでは、男子が三人ほど集まっていた。
一人と目が合う。
男子は何も言わず、なぜか悲しそうに首を横へ振った。
◇
火曜日には三年五組、水曜日にはほかのクラスまで話が伝わった。
水曜の朝、クラスの男子が一人休んでいると、別の男子が深刻そうな顔で言った。
「あいつ、相沢さんに彼氏ができたって聞いて寝込んだらしいぞ」
「とうとう犠牲者が出たか」
「昨日まで元気だったのに」
「相沢ロスだな」
女子たちが一斉にそちらを見る。
「昨日から熱があったって聞いたけど」
「普通に風邪でしょ」
「失恋で免疫が落ちた可能性もある」
「ないから」
「本人、相沢さんとほとんど話したことないでしょ」
「遠くから見てるだけでも恋は始まるんだよ」
「朝から何言ってるの?」
女子たちは呆れていたが、男子側は妙に真剣だった。
「俺たちの高校生活は終わった」
「まだ三年生になったばかりだよ」
「だから終わったんだ」
「意味分かんない」
琴音は教科書を開き、聞こえないふりをしている。同じページから一度も動いていなかった。
「本人の前で続けるなよ」
俺が言うと、男子たちが口を閉じた。
一人が琴音を見て、気まずそうに頭を下げる。
「相沢、ごめん」
「私は大丈夫だけど、休んでる人に変な噂をつけない方がいいと思うよ」
それには女子も男子もうなずいた。
昼休みには、二年生らしい男子二人が教室の入口からこちらをのぞいていた。
「何か用か?」
「本当に付き合ってるのかと思って」
「付き合ってる」
二人は同時にうつむいた。
「そうですか」
「何で落ち込むんだよ」
「覚悟はしてました」
「何の覚悟だ」
二人は答えず、静かに去っていった。
入れ替わるように来た女子生徒たちは、琴音へ祝いの言葉を伝えた。
「文化祭の時に二人を見たことがあるんです。お似合いだと思ってました」
「ありがとう」
「男子、騒ぎすぎですよね」
「朝からずっとあんな感じだよ」
琴音が苦笑すると、女子生徒たちも笑いながら戻っていった。
◇
木曜日には、知らない一年生まで俺の顔を知っていた。
廊下ですれ違った二人が、少し離れてから振り返る。
「あの人?」
「相沢先輩の彼氏らしい」
「聞こえてるぞ」
「すみません!」
二人は走って逃げていった。
隣の琴音が口元を手で隠す。
「笑うな」
「だって、颯馬が変な顔するから」
「知らないやつに見られれば、ああなるだろ」
「私は普段から見られてるよ」
「よく平気だな」
「平気じゃない時もあるけど、今は颯馬も見られてるから」
「何でそれで平気になるんだよ」
「一人じゃないからかな」
琴音はそう言って、歩幅を少し狭めた。
俺もそれに合わせる。
すれ違う生徒がこちらを見ても、今度は足を止めなかった。
◇
金曜日。
月曜に休んだ男子は、マスクをつけて登校した。
教室へ入った途端、数人に囲まれる。
「もう大丈夫なのか?」
「熱は下がった」
「失恋の方は?」
「何の話?」
「無理するな」
「風邪だって言ってるだろ!」
朝から自分が失恋で寝込んだことにされていたと知り、噂を作った友人の背中を教科書で叩いていた。
昼には、男子たちの大げさな嘆きも落ち着いた。
廊下から教室をのぞく生徒もいない。
一週間で学校中に知られ、一週間で学校の日常に組み込まれたらしい。
放課後、琴音と二人で校門を出た。
「すごい一週間だったね」
「佐々木が変なことを聞くからだ」
「悠真君が聞かなくても、そのうち知られてたと思うよ」
「そうか?」
「教室でも話すし、一緒に帰ってるし」
「それは前からだろ」
「付き合ってからの颯馬、少し違うよ」
「どこが」
琴音は答えず、前を向いたまま笑った。
住宅街へ入ると、周囲から生徒の姿が消えた。二人の家までは、もう十分もかからない。
「颯馬は、嫌じゃなかった?」
「何が」
「私と付き合ってるって、みんなに知られたこと」
「面倒ではあった」
「それは見てれば分かったよ」
「知らない一年生にまで顔を覚えられたからな」
「ごめんね」
「琴音が謝ることじゃないだろ」
琴音は今週、交際しているのかと聞かれるたびに赤くなっていた。それでも、一度も幼なじみだと言ってごまかさなかった。
琴音があまりにも申し訳なさそうな顔をするのを見てため息を一つつく。
「嫌じゃないよ」
琴音が顔を上げる。
「本当?」
「隠すようなことでもないからな。琴音は?」
「恥ずかしかったよ。でも、嫌じゃなかった」
「ああ」
「それだけ?」
「俺も同じだ」
琴音は数歩先へ進み、こちらへ振り返った。
「今週、私は何回も颯馬と付き合ってるって言ったよ」
「俺も聞かれたら答えてたぞ」
「私は颯馬のこと大好きだよ。颯馬は私のこと好き?」
「それはっ……」
「それは?」
「……俺も好きだよ」
「好きだけ?」
琴音は笑っているが、耳まで赤い。
「大好きだよ」
「うん」
琴音が隣へ戻る。
二人の家が見えてきても、今度は少しも離れなかった。




