第60話 あと三日
場所と日付と相手は決まった。
残っているのは、言葉だった。
月曜日の夜。
机へ向かい、スマートフォンのメモを開く。
金曜日まで、あと四日。
展望公園で琴音を前にしてから考えるより、今のうちに決めておいた方がいい。
そう思い、最初の一文を入力した。
『琴音が好きだ』
たった七文字だった。
告白する場所を探して歩いた時間と比べると、随分短い。
これだけなら、途中で忘れることもない。
画面を見たまま、続きを考える。
幼なじみとしてではなく、琴音だから一緒にいたい。
大学へ進んだあとも、その先も、近くにいたい。
二行追加し、最初から読み返す。
まだ何か足りない気がした。
金曜日以外にも琴音が来るようになったこと。
青い花柄の茶碗を、今では最初から食卓へ出していること。
琴音が夕食を食べると分かれば、自然に二人分の献立を考えること。
金曜日だけの幼なじみだったころとは、もう何もかも違っていた。
さらに続きを入力する。
『琴音が帰ってくる場所の近くにいたい』
『これからも御飯を作りたい』
『待っていて、おかえりと言いたい』
そこで指が止まった。
最初から読み返す。
告白のつもりで書き始めたはずだった。
途中から、これからの人生を一緒に過ごしてほしいという文章になっている。
まだ付き合ってすらいない。
好きだと伝えた直後に、十年後の夕食まで用意されても琴音が困る。
文章をすべて選択した。
削除の表示へ指を置く。
すぐには押せなかった。
どれも、嘘ではない。
だからといって、一度に全部言う必要もない。
画面の文章を消し、もう一度入力する。
『琴音が好きだ』
結局、最初へ戻った。
その下に一行だけ足す。
『幼なじみだからではなく、琴音だから一緒にいたい』
二行を何度か読み返す。
これなら言える。
少なくとも、今はそう思えた。
スマートフォンを伏せる。
机の上には、土曜日に琴音からもらったペンがあった。
一緒に勉強していると、途中で貸してほしいと言うから。
琴音はそう言っていた。
ペンを手に取り、ノートを開く。
『琴音が好きだ』
スマートフォンへ入力したときより、字が硬くなった。
二行目を書こうとして、ペン先が止まる。
ノートには琴音がいない。
こちらを見て、返事を待つこともない。
それでも二行目は、最後まで書けなかった。
◇
翌朝、教室へ入ると、琴音は既に席へ座っていた。
「おはよう、颯馬」
「おはよう」
昨日、何度も書いた言葉が頭へ浮かぶ。
本人を前にした途端、どこから言えばいいのかも分からなくなった。
琴音は何も知らない。
俺が来ると顔を上げ、机の上へ教科書を置けるだけの隙間を空ける。
もう十年以上見てきた動きだった。
好きだと分かってからは、その程度の仕草まで目に残る。
鞄を机の横へ掛け、隣へ座った。
「昨日、勉強した?」
「少し」
「どこまで?」
「数学の問題集を六ページ」
「分からないところは?」
「二問あった。あとで見てくれ」
「うん」
会話はいつもどおり進んだ。
昨日用意した二行が入る隙間は、どこにもない。
琴音が俺の手元を見る。
「ペン、使ってる?」
「ああ」
「書きやすい?」
「前のより軽いな。悪くない」
「悪くないだけ?」
「使いやすいよ」
「最初からそう言ってくれればいいのに」
琴音が少し笑う。
その笑顔を見た瞬間、昨日考えた順番が全部飛んだ。
「颯馬?」
「何」
「今、ずっと見てたよ」
慌てて手元へ視線を落とす。
右手には、琴音からもらったペンがある。
「ペンの話をしてたから」
「ペンはそこだよ」
「分かってる」
「私の顔に何か書いてある?」
「書いてない」
「じゃあ、どうして見てたの?」
琴音は少し首を傾けた。
問い詰めているわけではない。ただ返事を待っている。
昨日の夜なら、その先に続く言葉まで決めていた。
今は、一つも出てこない。
「考え事してた」
「金曜日のこと?」
心臓が大きく動いた。
手に持っていたペンを筆箱へ戻す。
「まあ、少しは」
「私も考えてたよ」
「何を?」
「帰りが遅くなったら、夕飯をどうするのかなって」
琴音が考えていたのは、告白ではなく夕食だった。
力が抜ける。
「そこまで遅くならないと思う。帰りに食べてもいいし、うちへ来てもいい」
「颯馬が作るの?」
「時間によるけど」
「じゃあ、早く帰れたら颯馬のところに行く」
「金曜日だけって決まりは、もうないからな」
「うん。行きたい日に行ってる」
琴音は何でもないことのように答え、ノートを開いた。
昨日消した文章が、また浮かぶ。
『これからも御飯を作りたい』
告白には重すぎると思った言葉だった。
けれど琴音は、金曜日の夕食を既に予定へ入れている。
告白したあとも、こうして二人で夕飯の話ができればいい。
そこまで考えていると、琴音がこちらを見た。
「颯馬」
「何」
「また見てる」
顔をそらす。
「悪い」
「謝らなくてもいいけど」
琴音はまだ俺を見ていた。
「何を考えてたの?」
「金曜日のこと」
「今度は本当?」
「ああ」
「楽しみにしてていいんだよね?」
琴音の声は普段と変わらない。
何も知らない相手が、ただ金曜日を待っている。
「いいよ」
「そっか」
琴音の口元が緩む。
たったそれだけで、金曜日まで逃げずに行かなければならないと思った。
琴音は教科書へ視線を戻す。
俺はその横顔を見ながら、昨日用意した文章を思い出す。
好きだ。
幼なじみだからではなく、琴音だから一緒にいたい。
今なら、一文字も言えそうになかった。
◇
放課後、駅前の花屋へ入った。
店の前を通ったことは何度もある。
中へ入るのは初めてだった。
扉が閉まると、道路の音が遠くなる。
色の違う花が何十本も並び、壁際には包装紙やリボンが置かれていた。名前を見ても、知っている花の方が少ない。
花を渡そうと決めたのは、昨夜だった。
手ぶらで告白するより、何か一つ渡したかった。
豪華な花束は違う。
制服姿で大きな花束を持って学校から歩けば、琴音に会う前に何人かから理由を聞かれそうだった。
一輪だけなら紙袋へ入る。
そこまでは考えてきた。
何を選ぶかは決めていない。
並んだ花を端から見ていく。
鮮やかな赤は、見ているだけで落ち着かない。白い花もきれいだったが、琴音へ渡す自分の姿がうまく浮かばなかった。
一輪手に取ろうとして、やめる。
別の花を見る。
買うと決めたのに、選ぶところでまた時間がかかった。
「贈り物ですか?」
店員に声をかけられる。
「一応」
「お誕生日でしょうか。何かの記念日ですか?」
「まだ違います」
答えてから、自分でもおかしな言い方だと思った。
店員が一度瞬きをする。
「これから記念日になるご予定ですか?」
「そうなるかもしれません」
口にすると、喉の奥が乾いた。
琴音の返事によっては、記念日にはならない。
ただ花を買った日になる。
「告白ですか?」
直接聞かれ、返事に詰まる。
琴音へ言う前に、知らない相手へ認めることになる。
「……そうです」
声が小さくなった。
店員は笑わなかった。
「でしたら、一輪で渡しやすいものをいくつかお出ししますね」
「お願いします」
出してもらった花を見比べる。
鮮やかな赤や濃い桃色は、俺が持つには気合いが入りすぎて見えた。
その中から、淡い色の花を一本選ぶ。
「こちらでよろしいですか?」
「はい」
「花言葉もご案内しましょうか?」
一瞬だけ迷い、首を横へ振った。
花の意味まで覚えれば、それに頼ってしまいそうだった。
言うのは俺だ。
「大丈夫です」
「分かりました。持ち歩きやすいように包みますね」
簡単に包装され、細長い紙袋へ入れられる。
店員から受け取ると、思っていたより軽かった。
「うまくいくといいですね」
「ありがとうございます」
店を出る。
紙袋は鞄へ入れられない。
手に持って駅前を歩く。
中身は軽いのに、腕を振るたび、傾いていないか気になった。
信号待ちで止まり、紙袋の口から中を確かめる。
花は何も変わらず入っている。
金曜日には、これを琴音へ渡す。
その前に、好きだと言う。
順番は決めていない。
言葉を忘れたら、先に花を渡してしまうかもしれない。
何も言えず、紙袋を持ったまま立ち尽くす可能性もあった。
信号が青へ変わる。
周囲の人が歩き始め、少し遅れて横断歩道へ足を出した。
場所を決めたときより、琴音を誘ったときより、足が重かった。
紙袋一つ増えただけで、金曜日にすることが急に現実になった。
人混みを抜けたところで、スマートフォンを取り出す。
金曜日まで、あと三日。
場所は決まった。
琴音も誘った。
言葉も書いた。
花も買った。
天気予報を開く。
金曜日の欄には、灰色の雲と傘の印が並んでいた。
降水確率、五十パーセント。
画面を閉じる。
告白するなら金曜日がいい。なぜそう思ったのかは自分でもわからなかった。




