第59話 先約のない先約
月曜日の朝から、琴音を誘う機会を探していた。
席は隣だ。
声をかけるだけなら、腕を伸ばす必要すらない。
ただ、二人で出かけたいと教室で言うつもりにはなれなかった。
周囲にはクラスメイトがいる。
小宮山も近くの席にいる。
前の席では、男子生徒が週末の試合について話していた。
「颯馬」
隣から呼ばれる。
「何」
「英語の課題、どこまで?」
「教科書の31ページまでだろ」
「見せて」
琴音が椅子ごと少し近づく。
「もう自分でやったんじゃないのか?」
「答えが合ってるか見たいの」
「昼でもいいだろ」
「今見たい」
課題を渡すと、琴音が自分のノートと見比べ始める。
今なら言える。
金曜日、空いてるか。
それだけでいい。
「琴音」
「うん」
「金曜……」
琴音が顔を上げる。
思っていたより近かった。
「金曜日?」
「課題、金曜日までだろ」
「今日提出だよ」
「知ってる」
「今、金曜日までって言ったよね」
「言い間違えた」
「なにそれ」
琴音はおかしそうに笑い、俺の課題へ視線を戻した。
月曜日の最初の機会は、それで終わった。
◇
二時間目の休み時間。
琴音は三浦から届いたメッセージへ返事をしていた。
「琴音」
「ちょっと待って」
「ああ」
先に言われれば、待つしかない。
琴音は画面を何度か押したあと、スマートフォンを伏せた。
「何?」
「いや、あとでいい」
「今、終わったよ」
「次の授業が始まる」
予鈴までは、まだ三分ある。
琴音は教室の時計を見た。
「三分あれば話せるよ」
「三分で終わらないかもしれない」
「長い話?」
「そこまでじゃない」
「じゃあ、何分?」
「時間の問題じゃない」
「難しいね」
琴音は少し考え、机の中から次の教科書を出した。
「放課後にする?」
「そうする」
「分かった」
自分から誘う前に、話す時間だけ琴音に決められた。
その後も席は隣だった。
声をかけようと思えば、授業と授業の間に何度でもできる。
琴音が教科書を替えるたび、今なら言えると思った。
琴音が教師に呼ばれれば、戻ってきてからにしようと思った。
戻ってくると、今度は周囲に人がいた。
いつでも話せることと、実際に話せることは違う。
自分がここまで臆病だとは正直思っていなかった。
昼休みも、五時間目のあとも、金曜日という言葉は口から出なかった。
◇
放課後になった。
担任が教室を出る。
琴音は約束どおり、すぐには席を立たなかった。
教科書を鞄へ入れ、こちらを見る。
「話って何?」
「ここで聞くのか?」
「放課後にするって言ったから」
「帰りながらでいいだろ」
「分かった」
琴音は鞄を持ち、椅子を戻した。
廊下へ出る。
小宮山は写真部へ向かい、ほかの生徒たちも部活や昇降口へ散っていく。
階段を下り、靴を履き替えた。
校門を出ても、琴音は話の続きを急かさなかった。
こちらから言うのを待っているらしい。
土曜日に鉢合わせた展望公園とは、反対の方向へ歩いている。
今度の金曜日は、途中で道を曲がることになる。
交差点の手前まで来た。
「琴音」
「うん」
「次の金曜日、放課後空いてるか」
「空いてるよ」
返事が早かった。
「予定は確認しなくていいのか?」
「土曜日に颯馬と会ってから、空けてある」
「何で」
「近いうちに何かあるって言ってたから」
「金曜日だとは言ってないだろ」
「今週か来週だと思ったの。念のため、どっちも空けた」
琴音は前を向いたまま答える。
こちらが誘う前から待っていたことになる。
「来週は?」
「今聞かれたから、もう大丈夫」
「そうか」
「それで、金曜日に何をするの?」
「二人で出かけたい」
できるだけ普通に言った。
思っていたより声が固くなった。
琴音がこちらを見る。
「二人で?」
「ああ」
「どこへ?」
「……まだ教えない」
「ふうん」
返事とは裏腹にやけに楽しそうな顔だ。
「嫌か?」
「嫌なら、二日分も空けないよ」
「それもそうか」
「学校が終わったら、すぐ行く?」
「ああ。駅から少し歩く」
「どのくらい?」
「二十分くらい」
「山に登る?」
「公園だよ」
「靴は普通のでいい?」
「制服のまま行くんだから、通学靴だろ」
「雨だったら?」
「一週間近く先だぞ」
「降ったら中止?」
少しだけ歩く速度が上がった。
考えていなかったわけではない。
展望公園は屋外だ。
雨なら景色も見えない。
それでも、別の日へ延ばせば、また言わない理由が増える。
「中止にはしない」
思っていたより強い声が出た。
琴音の足音が一度止まる。
振り返ると、少し後ろでこちらを見ていた。
「悪い。大きな声を出すつもりじゃなかった」
「ううん」
琴音が追いつく。
「中止じゃないなら、それでいい」
「雨の場合は考えておく」
「私は、濡れない場所ならどこでもいいよ」
「どこでもいいのか?」
「颯馬と二人なら」
また簡単に言われた。
俺だけが一か月も言葉を探している。
「そういうことを、よく普通に言えるな」
「変だった?」
「変じゃないけど」
「じゃあ、颯馬も言えばいいのに」
「何を」
「私と二人なら、どこでもいいって」
「それだと下見した意味がなくなる」
「そっか。颯馬は、そこがいいんだ」
「場所も大事だけど」
言葉が止まる。
「けど?」
「琴音と行くことの方が大事だよ」
言えた。
好きだとは言っていない。
告白のために用意していた言葉でもない。
それでも、琴音は足を緩めた。
「今の、もう一回言って」
「一回で聞け」
「聞こえたけど、もう一回聞きたい」
「金曜日まで待て」
口にしてから、余計なことを言ったと気づく。
琴音が目を細くする。
「金曜日に、もっとすごいことを言ってくれるの?」
「そうは言ってない」
「待てって言ったよ」
「今の話をだよ」
「今の話よりすごいこと?」
「増やすな」
琴音は楽しそうに笑った。
「分かった。金曜日まで待つね」
何を、とは聞かなかった。
土曜日の下見。
琴音に関係があるという言葉。
二人で出かけたいという誘い。
ここまで揃えば、気づかれてもおかしくない。
「夕飯はどうする?」
「帰りに何か食べるか、うちで作る」
「颯馬のところに行ってもいいの?」
「金曜日だけって決まりは、もうないだろ」
「うん。今は、行きたい日に行ってる」
「なら、そうすればいい」
琴音は数歩、黙って歩いた。
次の角を曲がれば、家までほとんど一本道になる。
「金曜日、楽しみにしてるね」
「ああ」
「颯馬も?」
すぐに答えられなかった。
告白することを考えれば、今から緊張している。
断られる可能性も消えてはいない。
それでも、琴音と二人であの場所へ行くこと自体は楽しみだった。
「楽しみだよ」
琴音がこちらを見る。
少し驚いたように目を開き、それから口元を緩めた。
「そっか」
「何だよ」
「今日はちゃんと言ったなと思って」
「言わない方がよかったか?」
「反対。もう一回聞きたいくらい」
「今言ったばかりだろ」
「金曜日まで我慢する」
琴音は満足そうに前を向いた。
俺は金曜日までに、今よりずっと言いづらいことを口にしなければならない。
◇
帰宅してから、スマートフォンのカレンダーを開いた。
予定名のない金曜日の欄へ、開始時刻だけが入っている。
そこへ新しく入力する。
『琴音』
告白とは書けなかった。
ただ、空欄だった昨日までとは違う。
場所も決まった。
琴音も誘った。
金曜日を楽しみにしているとも言えた。
残っているのは、伝える言葉だった。




