第57話 隣だね
琴音が好きだと分かってから、一か月が過ぎた。
好きだとは、まだ言えていない。
春休みの間に、数学の問題集を一冊終えた。
琴音とは何度も一緒に勉強した。昼食も夕食も食べた。五人で花見にも行った。
言えそうな場面はあった。
琴音が問題を解き終え、満足そうにノートを閉じたとき。
二人で洗い物を終え、琴音が濡れた手を拭いていたとき。
琴音の家の前まで送り、琴音が門扉を開ける前に振り返ったとき。
そのたびに、今ではないと思った。
勉強中に言うことではない。
洗い物の途中に言うことでもない。
帰ろうとしている琴音を呼び止めるなら、伝える言葉くらい考えておいた方がいい。
どうせ告白するなら、少しくらいはロマンチックにしたかった。
少なくとも、食器用洗剤の匂いがする台所で、スポンジを持ったまま伝えるよりは、ほかに適した場所があるはずだ。
そうしているうちに春休みが終わった。
三年生になってからも、二週間以上が過ぎた。
俺と琴音と小宮山は一組。
三浦と佐々木は五組。
琴音と同じクラスになったことで、告白する機会は増えた。
増えただけだった。
一度好きだと分かると、不思議なもので、どんな些細な仕草までかわいく見えた。
授業中に髪を耳へかけるところも、難しい問題を前にして少しだけ眉を寄せるところも、教師に当てられて立ち上がる前に一度教科書を確かめるところも。
もう十年以上、近くで見てきたはずだった。
琴音がどういう顔をするのかも、何をするときに迷うのかも、知っているつもりだった。
それなのに、好きだと気づいてから見る琴音は、知っている琴音とは少し違っていた。
正確には、琴音は何も変わっていない。
今まで気づかなかった俺の方が、急に気づくようになっただけだ。
そのせいで、前なら何も考えずに声をかけられた場面でも、余計なことを考えるようになった。
いつでも言える。
明日でも言える。
もっといい場面がある。
そうやって一か月が過ぎた。
ロマンチックな告白を考える前に、告白する度胸の方を用意するべきだったのかもしれない。
◇
朝のホームルームで、担任が小さな箱を教卓へ置いた。
「最初の席は出席番号順だったから、今日は席替えをする」
教室の空気が少しだけ動く。
俺の席は廊下側の後ろから三番目だった。黒板は見えるし、教師にも近すぎない。特に不満はない。
琴音は窓側の前から二番目にいる。
授業中でも、顔を上げれば見える位置だった。
「高瀬君、箱見すぎ」
斜め前の小宮山が振り返る。
「席替えが気になるだけ」
琴音の方へ顔を向ける。
目が合った。
琴音は教卓の箱を指したあと、自分の隣の空席を軽く叩いた。
まだ誰の席になるかも分からない。
俺が首を横へ振ると、琴音は少し笑った。
順番にくじを引き、机を移動させる。
俺が引いたのは二十四番。窓側から二列目、後ろから二番目だった。
今より琴音の席に近い。
ただし、琴音がどこを引くかは分からない。
自分の机を動かしていると、琴音が教卓へ向かった。
紙を一枚引き、座席表を見る。
それから、こちらを見た。
琴音は番号を胸元へ隠し、自分の机を押して歩いてくる。
俺の前を通り過ぎたところで向きを変え、右隣へ机を置いた。
「二十五番」
隠していた紙を見せる。
「隣だね」
「見れば分かる」
「嫌そう」
「そういう顔なんだよ」
「私じゃなくても?」
「比べられないだろ」
「じゃあ、私でよかった?」
机を動かす音が続く教室で、その質問だけが妙にはっきり聞こえた。
「早く机を置けよ。後ろが通れない」
「答えてない」
「琴音で困ることはない」
「よかったとも言ってないね」
琴音が机を押した。
天板の縁が、俺の机へ触れる。
「近くないか?」
「列をそろえただけだよ」
前を見ると、ずれているのは俺の机だった。
「颯馬がこっちへ寄れば?」
「これ以上近づくのか?」
「机の話だよ」
「分かってる」
「何の話だと思ったの?」
「机の話だって言っただろ」
二つの机を列へ合わせる。
琴音は満足そうに椅子へ座った。
「嫌なら離すけど」
「戻すほどじゃない」
「そっか」
離れたくないとは言った。
隣へ座ってほしいとまでは言っていない。
それでも、悪くはなかった。
◇
一時間目は英語だった。
「今日は隣同士で会話文を読んでもらう。窓側がA、廊下側がB」
教室のあちこちで机が寄せられる。
俺たちの机は、既にこれ以上寄らない。
「私がAだね」
琴音が教科書を境目へ置く。
「自分の教科書を使えよ」
「同じところを見た方が、相手の番も分かるでしょ」
琴音が身体を寄せる。
肩は触れていない。
少し動けば触れそうな距離だった。
「始めるよ」
「ああ」
琴音が英文を読み始める。
周囲の声に紛れて聞き取りにくかったのか、琴音がさらに顔を寄せた。
髪が腕へ触れそうになる。
「次、颯馬」
「分かってる」
一文目を読む。
二文目の途中で、琴音が教科書を押さえていた指を動かした。
視線がそれを追い、読んでいた場所を見失う。
「そこ、私のところだよ」
「そうだったか?」
「一行飛ばした」
琴音が笑いをこらえている。
「笑うな」
「まだ笑ってないよ」
「顔に出てる」
「颯馬が英語で間違えるの、珍しいから」
「教科書が中央にないんだよ」
「じゃあ、もう少しこっちに来れば?」
顔を上げる。
すぐ近くに琴音の顔があった。
「……このままで読める」
「さっき間違えたのに?」
「次は間違えない」
「じゃあ、もう一回」
最初から読み直す。
今度は英文だけを見ることにした。
「高瀬と相沢。次、前で読んでくれ」
教壇から教師の声が飛んでくる。
二人で顔を上げた。
「何で俺たちなんだ」
「隣で仲よく読んでたからじゃない?」
「誰が」
「私たち」
琴音は平然と教科書を閉じた。
俺だけが返事を考えているうちに、前の組が読み終える。
「ほら、行くよ」
クラス全体の前で英文を読む方が、琴音へ好きだと言うより簡単だった。
◇
昼休みになると、三浦と佐々木が一組へ来た。
琴音は進路希望の確認で、職員室へ呼ばれている。
「琴音が戻ってから食べようか」
三浦が言い、佐々木も弁当箱から手を離した。
数分後、琴音が教室へ戻ってくる。
「ごめん、遅くなった。みんな、まだ食べてなかったの?」
「琴音を待ってた」
三浦が答えた。
「ありがとう」
琴音は隣へ座り、俺の弁当箱を見る。
「颯馬も?」
「みんなが待ってたからな」
「みんなが先に食べてたら?」
琴音はこちらを見ている。
俺も待っていた。
それだけ言えばいい。
「腹減った。琴音さんも来たし、食べようぜ」
佐々木が弁当箱を開いた。
「悠真君、今いいところだったのに」
「何が?」
「気づいてないなら、そのままでいいよ」
三浦が佐々木の腕を引く。
「悠真には関係ない話」
「俺もここにいるけど」
「いるだけで参加できるとは限らないよ」
琴音も弁当箱を開ける。
「それで?」
小さな声で聞いてくる。
「何が」
「颯馬は、待ってた?」
三浦たちには聞こえない声だった。
「……先に食べるほど腹は減ってなかった」
「ふうん」
琴音の口元が少し緩む。
「待っててくれたんだと思うことにする」
「好きにすればいい」
「うん。そうする」
完全には認めていない。
否定もできていない。
それでも琴音は満足そうだった。
「琴音さん」
佐々木が俺たちの机を見る。
「机、近くない?」
「隣だから」
「高瀬の机とくっついてる」
「列をそろえただけだよ」
「高瀬も離さなかったんだな」
佐々木のくせに、余計なところへ気づいた。
「昼に使うから、そのままにしてただけだ」
「私がいない間も?」
琴音が尋ねる。
「机だけ戻して、またつける方が面倒だろ」
「そっか」
琴音は机の境目へ手を置いたまま、こちらを見た。
「明日も、このままでいいね」
返事をする前に、佐々木が唐揚げを口へ入れる。
「仲いいな」
「今さら?」
三浦が言う。
琴音は答えず、俺の方を見ている。
顔を見ないまま、弁当を食べた。
◇
放課後、琴音は三浦と話すため五組へ行った。
俺も少し遅れて教室を出る。
今日だけで、何度言い損ねたか分からない。
今度こそ言う。
そう決めて五組へ入った。
琴音がこちらを見て笑った。
決意は、五組の扉を越えたところで消えた。
我ながら情けない。
「颯馬」
「帰るか」
「うん」
二人で学校を出る。
まだ四月だというのに桜はほとんど散り、舗装路の端に残った花びらが風に転がっていた。
「席、隣になっちゃったね」
琴音が不意に言う。
「授業に集中できない」
「ふうん。なんで?」
琴音は前を向いたまま、返事を待っている。
「琴音がしゃべりかけてくるからだろ」
「私は颯馬が隣になってうれしかったよ。明日から学校が楽しみ」
なんで琴音はそういうことを簡単に言えるのだろう。
二人しかいない。
今度は佐々木に話を切られることもない。
「……俺も楽しみではある」
「明日も隣だから?」
「ああ」
「私が?」
さらに聞かれる。
「琴音が隣だからだよ」
今度は言えた。
好きだとは言っていない。
それでも、これまでより随分踏み込んだ言葉だった。
琴音は数歩進んでから、こちらを見る。
「私も、颯馬が隣でよかった」
「そうか」
「うん」
琴音の歩く位置が少しだけ近づく。
「颯馬」
「何」
「今日、何回私を見たか知ってる?」
「数えてない」
「私は数えてたよ」
「何回だった?」
「教えない」
「何で」
「明日も増えるから」
明日も隣に座る。
明後日も、その次の日も。
近すぎて言えないまま、また一週間が過ぎる光景が簡単に想像できた。
◇
琴音と別れ、自分の部屋へ戻る。
ベッドへ座り、スマートフォンを取り出した。
琴音とのメッセージ画面を開く。
『さっきの話だけど』
入力する。
その先が続かない。
今日も、言えそうな場面はあった。
隣の席になったとき。
二人で教科書を見ていたとき。
琴音が、隣でよかったと言ったとき。
機会が増えただけで、一度も言えていない。
入力した文章を消し、カレンダーを開く。
翌週の金曜日。
放課後には何も入っていない。
日付を押し、開始時刻だけを入れて保存する。
まずは場所を決める。
言い逃れできないくらい準備して、琴音をそこへ連れていく。
そうでもしなければ、次もきっと言えない。
一か月もあった。
隣の席にまでなった。
それでも何もできなかった。




