第56話 ほとんど?
琴音と離れたくない。
口にしたときは、そこまでおかしな言葉だと思わなかった。
同じ大学を目指す理由を聞かれたから、思っていたことを答えただけだ。
正確には、答えようとしているうちに、その言葉が出ていた。
問題は、その日の夜だった。
自分の部屋へ戻ってから、昼間の会話を思い返した。
離れたくない。
高校を卒業しても、琴音と一緒にいたい。
大学へ進んだあとも、今と同じように会いたい。
そこまで言い換えたところで、考えるのをやめた。
ほとんど告白だった。
自分から琴音へ言ったことが信じられず、机に置いてあった問題集を開いた。
二十分かけて解いた問題には、でたらめなことばかり書いてあった。答え合わせをするまでもなく間違っていた。
翌日は、琴音から連絡が来なかった。
俺も送らなかった。
一緒に勉強すると決めたばかりなので、何時から始めるか聞けばいい。
それだけの文章を入力し、送らずに消した。
夕方になると、琴音からメッセージが届いた。
『明日、十一時に駅でいいんだよね』
春休みに五人で集まる予定を決めていた。
一緒に勉強する話が出るより前から入っていた予定だ。
『合ってる』
それだけ返す。
少しして、琴音から短い返事が来た。
『分かった』
普段と変わらないやり取りだった。
変わっていないことに安心したはずなのに、画面を伏せたあとも落ち着かなかった。
◇
待ち合わせの十分前に駅へ着くと、三浦と小宮山が改札前にいた。
二人とも私服だった。三浦は薄い色のパーカーを着て、小宮山は肩から小さな鞄を下げている。
「おはよう、高瀬君」
「おはよう。二人だけか」
「悠真は電車を一本逃したって」
三浦がスマートフォンの画面を見せる。
佐々木から、今着いたところ、というメッセージが送られていた。現在地は、家の近くの駅らしい。
「一本どころじゃないだろ」
「本人の中では一本なんじゃない?」
乗る予定だった電車ではなく、目の前で逃した一本だけを数えたらしい。
「琴音は?」
尋ねてから、先にほかの三人のことを聞けばよかったと思った。
三浦は気にした様子もなく、駅前の階段を指す。
「さっき着いたよ。飲み物を買ってくるって」
指差した方へ顔を向ける。
階段の横にある売店から、琴音が出てくるところだった。
白いシャツの上に薄い灰色のカーディガンを羽織り、黒いパンツを合わせている。片手に小さなペットボトルを持っていた。
誰なのか考える必要はなかった。
琴音もすぐにこちらへ気づいた。
足が一度止まる。
離れていたため、そう見えただけかもしれない。
琴音は視線を落とし、ペットボトルを持っていた手を身体の後ろへ隠した。数歩進んでから、もう一度こちらを見る。
今度は目を逸らさなかった。
そのまま近くまで来たものの、普段より少し離れた場所で足を止める。
「おはよう」
「おう」
「……それだけ?」
「朝の挨拶だろ」
「そうだけど」
琴音は俺の顔を見たまま、何かを待っているようだった。
こちらが続きを言わずにいると、わずかに顔を伏せる。
「遅くなってないよね?」
「まだ十分前だ」
「颯馬はいつ来たの?」
「今」
「そう」
琴音がもう一度こちらを見る。
目が合うと、今度は琴音の方が先に逸らした。ペットボトルを胸元へ寄せ、三浦の隣へ半歩移る。
会話が途切れた。
まだ待ち合わせの時間になっていない。
佐々木も来ていない。
話すことなら、いくらでもあるはずだった。
先日見た模試の結果。桜嶺大学のこと。一緒に勉強する日程。
どれも、今ここで話すことではない気がした。
琴音も同じなのか、三浦の隣へ立つ。
普段より一人分遠い場所だった。
「琴音も来たなら、先へ行っててもいいんじゃない?」
小宮山が言った。
「悠真、ボウリング場の場所は分かってるの?」
三浦が聞き返す。
「前にも行ったから分かると思う」
小宮山の言葉を信じ、四人で先に向かうことになった。
駅前の大通りを進む。
三浦と小宮山が先を歩き、その少し後ろを俺と琴音が並んだ。
並ぼうとしたわけではない。
三浦たちの後ろを歩いていたら、自然にそうなった。
「昨日、勉強した?」
琴音が前を向いたまま尋ねる。
「少し」
「どこまで?」
「数学の問題集。前に間違えたところ」
「分からないところあった?」
「今のところはない」
「そう」
また会話が終わった。
信号が赤になる。
三浦たちは横断歩道の手前で止まり、俺たちもその後ろへ並んだ。
琴音の袖が腕をかすめそうになった。
少しだけ立つ位置をずらす。
琴音がこちらを見た。
離れた分だけ、琴音も横へ動く。
元と同じくらいの距離になった。
「何?」
「別に」
「なら、何でこっちに寄ったんだ」
「ミサたちが向こうにいるから」
三浦たちは俺たちの正面にいる。琴音が横へ動く理由にはならない。
琴音も気づいたらしく、足元へ視線を落とした。
信号が青へ変わる。
琴音が先に歩き出す。
すぐに追いつくと、こちらへ顔を向けた。
目が合った途端、琴音はわずかに肩を寄せた。
袖同士が触れそうになり、今度は琴音の方から少し離れる。
「何?」
「別に」
「なら見るなよ」
「見てないよ」
「今、見てただろ」
「颯馬が見たからでしょ」
琴音は先へ進み、三浦の隣へ並んだ。
入れ替わるように小宮山が少し下がる。
「高瀬君、今日は寝不足?」
「普通だけど」
「そう」
小宮山はそれ以上聞かず、三浦の反対側へ移った。
代わりに琴音が一度振り返った。
目が合う。
琴音はすぐには前へ戻らなかった。
俺が追いつくのを待つように歩く速度を落としかけ、三浦が振り返ると、何事もなかったように隣へ並び直す。
何も変わっていない。
昨日までと同じはずなのに、すべての動きが少しずつ遅れている気がした。
◇
ボウリング場へ着いて受付を済ませたころ、佐々木が現れた。
「間に合った」
「もう受付、終わったぞ」
「ゲームには間に合っただろ」
佐々木は悪びれず、貸靴を受け取る列の最後へ並ぶ。
小宮山が店員から渡された用紙を確認した。
「一レーンしか空いてないから、五人で順番に投げる」
「チーム分けは?」
佐々木が聞く。
「一人ずつ点数を出せばいい」
「俺たちの結束が試されると思ってたのに」
「ボウリングで試さなくていいよ」
三浦に言われても、佐々木は納得していないようだった。
全員で貸靴へ履き替える。
琴音はベンチへ座り、靴ひもを結んでいた。
一度結んだあと、左右の長さが違ったのか、ほどいて結び直す。
見ている必要はない。
自分の靴ひもへ視線を戻した。
顔を上げると、琴音がこちらを見ていた。
目が合った瞬間、琴音の手が止まる。
すぐに靴ひもへ視線を戻したものの、結び終えている方までほどき始めた。
「高瀬、もう準備できた?」
佐々木が後ろから声をかけてくる。
「ああ」
「ならボール選びに行こうぜ。俺、重いやつにする」
「無理に重い物を使うと投げにくいぞ」
「重さこそパワー!」
「怪我するぞ」
立ち上がる。
琴音はまだ靴ひもを結んでいた。
待つ必要はないので、そのまま佐々木とボールの置かれた場所へ向かった。
自分に合いそうな物を二つ持ち上げ、指の感覚を確かめる。
少しして、琴音たちも来た。
顔を上げる前に、三浦の声が聞こえる。
どれがいいか相談しているらしい。
俺は自分のボールを決め、先にレーンへ戻った。
気にしすぎている。
琴音がどのボールを使っても、俺には関係ない。
今までなら、そんなことを考えることすらなかった。
◇
投球順は、小宮山、佐々木、三浦、琴音、俺になった。
最初の小宮山は、特に迷わず投げた。
速くはないが、ほとんど曲がらない。八本のピンが倒れる。
「栞って、なんでも普通にこなすよね」
三浦が感心する。
「前に写真部で来たことがあるから」
「写真部でボウリング?」
「部員の親睦会」
二投目で残った二本のうち、一本だけ倒した。
小宮山は結果を確認し、静かに席へ戻る。
佐々木は結局重い物を選んだらしく、助走の途中で腕が下がっていた。
ボールが床へ落ち、鈍い音を立てる。
「床が揺れた」
「ボウリング場だから大丈夫だろ」
「床じゃなくて、悠真君の腕が心配」
琴音がレーンの手前へ目を向ける。
佐々木のボールは途中で右へ曲がり、端のピンを一本だけ倒した。
三浦が投げたあと、琴音の番になる。
琴音はボールを持って立ち、レーンへ向かう。
こちらを見た。
目が合ったのは一瞬だった。
琴音はそのまま投球位置へ向かわず、俺の近くで足を止めた。
「何か言わないの?」
「何を」
「別に」
「なら行けよ」
「分かってる」
琴音は前を向き、投球位置へ立つ。
数歩進んで投げる。
ボールは中央より少し右へ入り、手前のピンを倒した。硬い音が続き、一本だけ残る。
琴音が振り返る。
こちらが見ていることを確かめると、わずかに口元を緩めた。
俺はスコア画面へ目を向ける。
倒れた数は、まだ表示されていない。
「惜しい」
三浦が手を叩く。
「一本だけなら取れそう」
「右側を狙えばいい?」
「たぶん」
琴音はもう一度ボールを持つ。
投げる直前、こちらを見た。
今度は目を逸らさなかった。
ボールを胸元へ寄せたまま、こちらが見ていることを確かめるように一拍止まる。
俺が視線を返したままでいると、琴音は少しだけ顎を引いた。
そのまま前へ向き直ったが、耳の辺りがわずかに赤くなっている。
二投目は残っていた一本の左を通り過ぎた。
「ずれた」
琴音は戻りながら言った。
俺の近くまで来たところで足を止める。
「見てなかった?」
「何を」
「二投目」
「見てた」
「一投目は?」
「音は聞こえた」
「そう」
琴音は一歩離れかけて、すぐに戻った。
「二投目は、最初から見てた?」
「ああ」
「そう」
今度の返事は、さっきより少しだけ軽かった。
結果を聞かず、三浦の隣へ戻る。
俺の番を知らせる表示が点く。
ボールを持って立ち上がる。
投球位置へ向かう途中で、一度だけ後ろを見る。
琴音は三浦と話していた。
こちらを見てはいない。
顔を前へ戻し、そのままボールを投げた。
中央から外れたものの、七本倒れた。
自分としては悪くない。
振り返る。
琴音と目が合った。
三浦と話していたはずなのに、身体はこちらへ向いている。
目が合った瞬間、琴音が小さく手を上げた。
胸の前まで上がったところで止まり、その手をどうするか迷う。
俺も反射的に手を上げかけた。
琴音はすぐに手を下ろし、何事もなかったように座り直した。
俺もそのままボールを取りに戻った。
二投目で二本倒し、席へ戻る。
琴音がすれ違うところで、小さく口を開いた。
「今の、よかったね」
「一本残ったけど」
「九本でしょ」
「見てたのか」
「見てない」
「なら何本か分からないだろ」
「画面に出てるから」
琴音が上にあるスコア画面を指す。
確かに表示されていた。
「じゃあ、投げるところは見てないのか」
聞いてから、何を確かめているのだと思った。
琴音の目が少し細くなる。
こちらへ半歩近づく。
「見てほしかった?」
「そうは言ってない」
「ふうん」
そう答えたのに、琴音はすぐには離れなかった。
見上げるようにこちらを見たあと、誰かに気づかれる前に戻るような速さで自分の席へ向かった。
次は小宮山の番だった。
俺は空いていた席へ座る。
いつもと同じ会話のはずだった。
それなのに、どちらが相手を見ていたかを確認している。
離れたくない。
言ったのは、大学の話をしていたからだ。
そう思っていた。
◇
一ゲーム目が終わるころには、全員のスコアにかなり差がついていた。
一位は小宮山だった。
「佐々木君、私の半分もないよ」
小宮山がスコア画面を見る。
「後半から感覚はつかめてた」
「最後も三本だったけど」
「最初は一本だった。三倍だぞ」
「それは成長じゃなくて誤差だと思う」
三浦に言われても、佐々木は二ゲーム目をするつもりらしい。
小宮山は受付の方へ目を向けた。
「待ってる人が増えてるから、一回で終わった方がいい」
「じゃあゲームセンターに行こうぜ。さっき隣にあっただろ」
「ゲームセンター初めて」
「今日の本番はこれからだぜ」
佐々木にとって、ボウリングは前座だったらしい。
三浦と小宮山も付き合うことになり、三人で先に外へ向かった。
俺は荷物をまとめるため、貸靴を脱いでいた。
琴音も隣のベンチへ座っている。
三人の足音が遠ざかる。
急に周囲の音が大きくなった。
隣のレーンでピンが倒れる音。ボールが戻ってくる機械の振動。店内放送。
琴音は靴を履き替えたあとも立たなかった。
俺も貸靴を手に持ったまま座っている。
「行かないのか」
「颯馬を待ってる」
「先に行けばいいだろ」
「一緒に来たんだから、待ってもいいでしょ」
「三浦たちは行ったぞ」
「ミサたちはミサたち」
琴音は足元へ置いた鞄を持ち上げ、膝の上へ載せた。
「今日、あまり話してないね」
「ボウリングしてたからな」
「前も五人で出かけたとき、もっと話したよ」
「今日は投げる順番があった」
「今はないけど」
琴音はこちらを見た。
しばらく目を逸らさずにいたあと、間に空いていた一席へ視線を落とす。
琴音は鞄を持ったまま立ち上がった。
帰るのかと思ったが、空いていた席へ座り直す。
さっきより、一人分近くなった。
「何で座り直したんだ」
「話しにくかったから」
「声は聞こえてただろ」
「聞こえるだけじゃなくて、普通に話したかったの」
答えたあと、琴音は膝の上の鞄へ視線を落とした。
さっきまで一人分あった隙間が、今は半分もない。
普段なら、どちらがどこへ座っているかなど考えない。
うちの食卓でも、学校の昼休みでも、琴音が座る場所はいつの間にか決まっていた。
今日は、二人とも少しずつ位置を間違えている。
「颯馬」
「何」
「この前の問題集、明日持っていってもいい?」
「ああ」
「何時?」
「いつでもいい」
「いつでも?」
「家にいるから」
「じゃあ、昼前」
琴音は一度こちらを見てから、さらに少しだけ身体の向きを変えた。
膝が俺の方へ向く。
「御飯は?」
「食べるなら作る」
「食べる」
答えが早かった。
俺が見ると、琴音は目を逸らさなかった。
「何?」
「別に」
「なら見ないで」
「琴音が先に見ただろ」
「見てないよ」
「今も見てるだろ」
「颯馬も見てる」
どちらも先に逸らさなかった。
隣のレーンでピンが倒れる。
音に気を取られたように、琴音がゆっくりと前を向いた。
朝にも似たようなやり取りをした気がする。
それだけ話すと、琴音は立ち上がった。
俺も靴を持って続く。
貸靴を返し、ボウリング場を出る。
ゲームセンターの音が、通路まで聞こえていた。
入口の近くで佐々木がクレーンゲームを見ている。三浦と小宮山は少し離れた場所にいた。
琴音は三人のところへ向かう。
俺も続こうとして、一度足を止めた。
今日一日、琴音を意識しないようにしていた。
五人でいれば、普段と同じように過ごせると思っていた。
琴音から離れた場所へ座った。
投げるところも見ないようにした。
二人きりになっても、話さなくていい理由を探した。
それでも、琴音がどこにいるかは分かっていた。
誰と話しているのか。
自分の方を見たのか。
明日も来るのか。
気にしないようにしたことを、全部覚えている。
あの言葉を口にしたから、琴音を意識しているわけではなかった。
順番が逆だった。
琴音を意識していたから、離れたくないと言った。
幼なじみだから。
昔から一緒にいるから。
同じ大学へ行きたいから。
どれも間違ってはいない。
ただ、それだけでは足りなかった。
俺は、琴音が好きだった。
「颯馬」
顔を上げる。
少し先で、琴音が振り返っていた。
目が合う。
琴音はその場で足を止めたまま、こちらへ身体ごと向き直った。
「何してるの?」
「今行く」
琴音は先へ行かなかった。
隣まで追いつく。
琴音は俺の顔を見上げたまま、しばらく歩き出さなかった。
「何だよ」
「ちゃんと来たと思って」
「呼ばれたからな」
「うん」
琴音はようやく前を向いた。
それでも一人では歩き出さず、俺が並ぶのを待ってから足を進める。
「考え事?」
「ああ」
「何を?」
「まだ言わない」
「まだ?」
「今は言わない」
琴音はこちらを見た。
すぐには前へ戻らず、何かを言いかけるように唇が動く。
足が止まりかける。
「分かったら、教えてくれるの?」
もう分かっている。
そう答えそうになり、前を歩く三人を見る。
「そのうち」
「私に?」
「ああ」
琴音は少しだけ目を見開いた。
次の瞬間、俺の袖へ手を伸ばしかける。
指先が触れる前に止まり、その手を自分の身体の横へ戻した。
琴音は前を向いた。
佐々木たちのところへ向かいながら、わずかに歩く速度を落とす。
俺も同じ速度で歩いた。
離れたくない。
数日前に言った言葉が、また頭へ戻ってきた。
ほとんど告白だった。
そう思ったから、言いすぎたと考えた。
違った。
ほとんどでは、足りなかった。
もう前のようには戻れない。




