第55話 春からは
十時になる少し前、玄関の鍵が回った。
「ただいま」
「おかえり」
食卓に並べていた模試結果の角を揃え、玄関へ向かう。
琴音は大きな鞄を肩へ掛け、片手にも薄い手提げを持っていた。
「多くないか」
「今使ってる物だけだよ」
受け取った鞄は、見た目以上に重かった。腕へ力を入れ直す。
「問題集と参考書が入ってるから」
「答案を見るだけだと思ってた」
「今日から一緒に勉強するんでしょ。使ってる物もあった方がいいと思って」
昨日、俺が桜嶺を受けると話した直後から、琴音はそのつもりだったらしい。
「運ぶよ」
「ありがとう」
琴音は靴を揃え、俺のあとに続いた。
食卓には、模試結果と桜嶺大学の案内を出してある。鞄を椅子の横へ下ろすと、中で教材同士がぶつかって鈍い音がした。
「何か飲む?」
「あとでいい。先に聞きたい」
琴音はいつもの椅子へ座った。
学校でも家でも、いつの間にか琴音の場所になった席だった。
俺も向かいへ座り、大学案内を琴音の方へ向ける。
「桜嶺は、前から候補に入れてた」
「進路希望には書いてなかったよね」
「ああ。判定がDだったからな。県外へ出れば金もかかるし、母さんを一人にする。地元の大学へ通う方が現実的だと思ってた」
「一度、諦めたんだ」
「そのつもりだった」
琴音は模試結果ではなく、大学案内を見ていた。
表紙には、長い桜並木と、その向こうに建つ洋風の校舎が写っている。
「颯馬は、桜嶺で何を勉強したいの?」
「建築」
琴音の視線が上がった。
すぐには次の言葉が出てこないらしく、大学案内と俺の顔を見比べている。
「建築?」
「ああ。理工学部の建築学科を考えてる」
「颯馬、建築に興味あったの?」
「あったよ。家の間取りを見るの、昔から好きだったし」
新聞の折り込みに入った住宅広告や、不動産屋の窓に貼られた物件情報。
探してまで見るほどではない。ただ、一度目に入ると、階段や台所の位置まで確かめてしまう。
同じ広さでも、部屋の並び方で使いやすさは変わる。窓の位置が少し違うだけで、置ける家具も変わる。
「知らなかった」
琴音の声が、少しだけ小さくなった。
「話したことがなかったからな」
琴音の指が、大学案内の端をゆっくりとなぞる。
「昔から?」
「たぶん、小学生のころから。新しい家の広告が入ってると、何となく見てた」
「全然気づかなかった」
残念そうに聞こえた。
昔から一緒にいたのだから、知っていて当然だと思っていたのかもしれない。
「俺も、進路にするほど好きだとは思ってなかったよ。面白いとは思ってたけど、それで将来を決めていいのか迷ってた」
「家を造りたいの?」
「仕事までは決めてない。でも、住みやすい家を考えるのはやってみたい」
琴音は大学案内から視線を外し、居間を見回した。
食卓から台所。食器棚。廊下の先へ続く扉。
何度も過ごしてきた部屋を、今日は少し違う角度から眺めている。
「私の家も見てみる?」
「一階なら大体分かる。でも、二階はほとんど入ったことないな」
「じゃあ、今度見せてあげる」
琴音の口元が、わずかに緩んだ。
建築の話をしていたはずなのに、間取りだけを見せる言い方には聞こえない。
「琴音の部屋も?」
「片づけてからね」
「普段の部屋じゃなくなるな」
「見せられないほど散らかってないよ」
「なら、そのままがいい。琴音が普段いる部屋を見たい」
言ったあとで、息が詰まった。
間取りだけではない。本当に琴音の部屋が気になっている。
机の上に何を置いているのか。どんな本を読み、何を捨てずに残しているのか。
うちにある青い茶碗や古いジャージとは別に、琴音の家にだけある物を見てみたい。
冬休みに入ったときは、そこまで考えなかった。考える必要もなかった。
琴音は視線を落とした。
大学案内の角を指で何度か撫で、耳にかかった髪を直す。その下が、薄く赤くなっていた。
「……少しくらいは片づける」
「俺の部屋も見ていいよ」
琴音がすぐに顔を上げた。
「今日でも?」
返事が早かった。
「休憩のときにな」
「うん。机と本棚を見る」
「そんなに面白い物はないぞ」
「今日みたいに、私が知らなかった物があるかもしれないから」
知らなかったことを一つ見つけて、もう次を探すつもりらしい。
「見つけたら教えてくれ。俺も気づいてないかもしれない」
「分かった」
琴音は大学案内へ視線を戻した。
さっきより表情が柔らかい。
桜嶺について話している途中で、その前に果たせそうな約束が一つ増えた。
◇
「建築をやりたいなら、どうして桜嶺へ戻したの?」
昨日、公園で答えを保留した質問だった。
その場で短く答えて終わらせたくなくて、今日ここへ来てもらった。
「琴音が桜嶺を受けるって聞いたから」
「私が?」
「ああ。琴音が本気で目指すって聞いたら、俺だけ最初から無理だと決めてるのが、ダサいと思った」
「でも、私はB判定だよ」
「Bでも、受かるために勉強するんだろ」
琴音がうなずく。
「俺はその前に、難しいからって候補から外した。一度くらい本気で目指して、それでも届かなかったときに考えればいいと思った」
大学案内を開く。
一度は途中で閉じ、引き出しへしまったものだった。
「もう一度見たら、やっぱり建築を勉強してみたかった。最初に桜嶺を候補へ入れた理由も、なくなってなかった」
琴音の指が、開かれたページの端へ触れる。
「私が桜嶺を選ばなかったら?」
「たぶん、地元のままだった」
そこは曖昧にしたくなかった。
「きっかけは琴音だ。今は、俺自身が桜嶺へ行きたいと思ってる」
琴音は模試結果へ目を落とした。
判定欄に印刷されたDの文字を見てから、大学案内へ視線を戻す。
「同じところへ行きたいと思った?」
少し迷ってから、うなずく。
「琴音が県外へ行って、俺だけ地元に残るのを考えたら、それでいいとは思えなかった。同じところを目指せるなら、諦める前にやってみたい」
琴音はすぐに返事をしなかった。
模試結果の端を押さえていた指が、わずかに動く。
「離れたくなかったの?」
建築を学びたい。県外へ出てみたい。難しい大学へ挑戦したい。
どれも嘘ではない。
ただ、琴音が聞いているのは、そのどれでもなかった。
「ああ。離れたくないと思った」
琴音の指が止まった。
顔を上げた琴音は、何かを言いかけて口を閉じた。頬に赤みが差し、視線だけが落ち着かずに大学案内と俺の間を行き来する。
「颯馬」
「何」
「今の、もう一回言える?」
「聞こえただろ」
「聞こえたけど、確認したい」
同じ言葉を二度言う方が難しかった。
それでも、ここで誤魔化せば、昨日から考えてきた意味がなくなる。
琴音の顔を見たまま言うのは無理だった。
窓の方へ視線を逸らす。首の後ろまで熱くなっているのが、自分でも分かった。
「琴音と離れたくない」
返事がない。
恐る恐る視線を戻すと、琴音は大学案内を持ち上げ、鼻から下を隠していた。
隠しきれない頬も、髪の隙間から見える耳も赤い。
「ずるいよ」
「何が」
「私が期待しても、颯馬は怒れないから」
言葉の意味を考える。
何を期待されているのかは、まだ分からない。
ただ、期待するなとは言いたくなかった。
「怒らないよ」
本の向こうから、琴音の目だけがこちらを見る。
「じゃあ、期待する」
「何を?」
「今は言わない」
大学案内が少しだけ下がった。
口元はまだ隠れたままだったが、その端は緩んでいる。
「颯馬が忘れたら言う」
「忘れない」
「そっか」
琴音は大学案内を静かに食卓へ戻した。
隠れていた口元には、抑えきれなかった笑みが残っている。頬の赤みも、まだ消えていない。
「私も、同じところがいい」
「桜嶺が?」
「それも」
さっきの仕返しらしい。
今度は俺が返事に困った。
琴音はそんな俺を見て少し笑い、大学案内を持って立ち上がった。
「こっち座る」
食卓を回り、俺の隣の椅子を引く。
二冊の大学案内を並べ、肩が触れない程度の距離へ座った。
「同じページを見るなら、隣の方がいいよ」
琴音は構内図を開いたが、学部棟を探す前に桜並木の写真を眺めていた。
近くなった横顔には、まだわずかに赤みが残っている。
「経済学部は、この辺りかな」
「理工学部は反対側だな。昼休みに会える距離だと思う」
「なら、お昼は一緒に食べられるね」
「ああ。琴音の方へも行くよ」
琴音の指が構内図の中央へ動く。
経済学部と理工学部の間には、中庭があった。
「受かったら、ここで待ち合わせしよう」
「春なら外で食べられそうだな」
「最初に二人で見に行こうね」
「ああ」
返事をすると、琴音の指先が中庭の上で小さく弾んだ。
昨日までは知らない大学の、知らない場所だった。
今は、そこで琴音が待っているところまで想像できた。
◇
「次は、勉強の話」
琴音が模試結果を持ち上げる。
まだ頬が赤いままなのに、何事もなかったような顔を作っている。
「数学は私が見る。国語は颯馬が見て。英語は一緒にやる」
「張り切ってるな」
「同じところを受けるって聞いたら、そりゃ張り切るよ」
琴音は鞄から問題集を出し、机の上へ積んでいく。少し急いでいるのか、一冊だけ上下が逆になっていた。
「分からないところだけ教えて、あとは隣で自分の勉強をする。それなら二人とも進むでしょ」
「俺からも、それを頼むつもりだった」
琴音の手が止まった。
「数学は琴音の方が上だし、英語も一人より二人の方が続きそうだから。国語は俺が見る」
「昨日から考えてたの?」
「ああ。公園へ誘ったときから」
琴音はうなずき、逆さだった問題集を何事もなかったように直した。
口元には、また小さな笑みが浮かんでいる。
「そっか。私だけじゃなかったんだ」
「何が?」
「一緒に勉強したいと思ってたの」
「ああ。俺もだよ」
琴音はそれ以上答えず、予定表を開いた。
昨日つけた三つの印が残っている。
「この三日でいい?」
「今日やってみてから増やそう。減らすつもりはない」
琴音は今日の日付にも丸をつけた。
その横へ、小さな文字を書き始める。
「何を書いてるんだ」
「見ないで」
「隣に来たのは琴音だろ」
「少しだけ向こうを見てて」
言われたとおり、食器棚へ視線を向ける。
ガラス越しに、青い花柄の茶碗が見えた。
「もういいよ」
予定表をこちらへ向けられる。
『一緒に桜嶺を目指し始めた日』
「そのままだな」
「分かりやすい方が忘れないでしょ」
「ああ。俺も覚えておく」
琴音は書いた文字を指でなぞった。
「さっきのことも?」
頬に、また赤みが戻る。
「覚えてる」
「何を期待してるか、まだ言ってないよ」
「それを聞くのは、もう少し先でいい」
琴音が顔を上げた。
「聞いてくれるんだ」
「ああ。琴音が話したくなったときに」
「じゃあ、そのときまで忘れないで」
「分かった」
琴音は予定表を閉じ、大学案内の上へ大切そうに重ねた。
◇
勉強は、一問ずつ試すことにした。
琴音が選んだ数学を俺が解き、俺が選んだ国語を琴音が解く。
答え合わせまで終えたころには、昼を過ぎていた。
途中で構内図を見直し、休憩のつもりで俺の部屋まで見せたせいだ。
本棚の前に座り込んだ琴音は、昔買った建物の写真集を見つけた。
「これも建築?」
「そうだよ」
「外国の建物ばかりだね」
「日本と違う形が多くて面白かったんだ」
琴音は表紙を開き、何ページかめくった。
「借りてもいい?」
「琴音が読むのか?」
「颯馬が何を見てたのか知りたいから」
何でもないことのように言いながら、写真集を胸元へ抱える。
その姿を見ていると、貸すのが惜しいとは思わなかった。
「好きなだけ読んでいいよ」
「ありがとう。ちゃんと返すね」
「急がなくていい。読み終わったら感想を聞かせてくれ」
「うん」
返事をした琴音は、ページへ目を落としたまま笑っていた。
写真集も、予定表と一緒に琴音の鞄へ入った。
勉強はほとんど進まなかったが、今日の目的が一問多く解くことだった気もしない。
「昼、何にする?」
問題集を閉じながら訊く。
「冷蔵庫には何がある?」
「卵と昨日の肉じゃが。冷凍の御飯もある」
「炒飯?」
「それでいこう」
「手伝う」
「なら卵を頼む」
琴音は紺色のエプロンをつけ、冷蔵庫から卵を出した。
俺も隣へ立ち、フライパンを用意する。
金曜日ではない。
親の勤務で決められた夕食でもなかった。
話したいことがあり、問題集を持ち寄り、腹が減ったから二人で台所へ立っている。
琴音が卵を割る。
殻が入っていないのを確認し、箸を渡した。
「大学へ行ったら、台所も狭くなるのかな」
「部屋によるだろうな」
「二人で立てなかったら困るね」
「なら、琴音が隣に立てる部屋を探す」
卵を溶く箸が止まった。
琴音はボウルを見たまま動かない。
横からでも、頬が赤くなっていくのが分かった。
「私が行く前提なんだ」
「ああ。離れたくないって、さっき言っただろ」
二度目より、少しだけ簡単に言えた。
琴音の耳が、さらに赤くなる。
「それ、何回も言うつもり?」
「琴音が聞くなら」
琴音は答えず、卵を溶き始めた。
箸の動きだけが、さっきより少し速い。
「近くに住めたら、行くよ」
「食費は半分な」
「分かった。颯馬の部屋ばかりにならないように、私も台所が広いところを探す」
「もう部屋を決めるのか」
「条件を一つ決めただけ」
琴音は溶いた卵を差し出す。
「二人で立てること」
「ああ。それは必要だな」
受け取るとき、琴音の指先が一瞬だけ触れた。
琴音はすぐに手を離し、食器棚へ向かう。
髪で横顔を隠していたが、耳の赤さは隠れていなかった。
卵を熱したフライパンへ流す。
その隣で、琴音が二人分の皿と青い花柄の茶碗を出した。
◇
昼食を終えると、琴音は教材を鞄へ戻し始めた。
大学案内だけはほかの物と分け、食卓の端へ置く。
「これは置いていっていい?」
「次も使うなら、その方が楽だな」
「颯馬のと一緒にしておいて」
「ああ」
二冊の大学案内を横へ並べる。
同じ桜並木だが、琴音の方には付箋が何枚も挟まっていた。
琴音は二冊が並んだところを眺め、満足したように一度うなずいた。
鞄の中身は、来たときより少し軽くなっている。
その分が食卓へ残った。
「次は木曜日?」
「明日も空いてるだろ」
琴音の手が止まった。
「空いてるよ」
「今日、一問ずつしか進まなかったからな。明日もやろう」
琴音の顔が明るくなる。
「何時?」
「九時半。父親が仕事なら、夕飯までいていいよ」
琴音は予定表を開き、明日の日付へ丸をつける。
その線をもう一度なぞり、少しだけ太くした。
「朝から夜までだよ」
「分かって誘ってる」
琴音の頬が、また薄く赤くなる。
「じゃあ、明日はずっとこっちにいる」
「ああ。待ってる」
琴音は予定表を鞄へしまい、肩へ掛けた。
玄関で靴を履き、扉へ手をかける。
「今日は、お父さんと買い物に行ってくる」
「分かった」
琴音は扉を開けた。
そのまま外へ出るかと思ったが、敷居の手前で足を止める。
「颯馬」
「何」
琴音は一度俯いた。
頬の赤みを隠すように髪を耳へかけようとして、途中でやめる。
それから顔を上げ、まっすぐこちらを見た。
「私、期待してるからね」
「ああ。忘れない」
今度は何にも隠れず、琴音が笑った。
頬を赤くしたまま、隣家へ続く短い道を歩いていく。
扉が閉じたあと、居間へ戻る。
食卓には、桜嶺大学の案内が二冊並んでいた。
明日は九時半から、夕食まで。
金曜日だけだった時間は、もう必要な分だけ増やしていける。
大学案内の桜並木は、まだ一度も歩いたことがない。
その前に始まった春を、明日も琴音と過ごす。




