第54話 同じところ
二時を少し過ぎたころ、琴音から連絡が来た。
『話、終わったよ。今から行くね』
『分かった。気をつけて』
送信し、スマートフォンを食卓へ置いた。
母さんは来客用のカップを出し、焼き菓子を皿へ並べている。袋にはまだ半分以上残っていたが、全部出すつもりらしい。
「多くないか」
「余ったら琴音ちゃんに持って帰ってもらうから」
「最初から渡せばいいだろ」
「一緒に食べる分も必要でしょう?」
母さんは四つ目の焼き菓子を並べ、皿の空いた部分を確かめた。
「琴音ちゃんのお母さんと会うの、久しぶりね」
「大学を見に行った日に会った」
「颯馬はね。私はもっと久しぶり」
母さんはそう言ってから、カップの向きを揃えた。
いつもなら、取っ手がどちらを向いていても気にしない。
「緊張してるのか」
「少しはね。琴音ちゃんがお世話になってます、って言われる側になるとは思わなかったから」
「昔から来てただろ」
「昔は二人とも子どもだったでしょう。今は勝手に御飯を作って食べてるし、合鍵まで持ってるし」
「渡せって言ったのは母さんだ」
「渡したのは颯馬」
そこで呼び鈴が鳴った。
母さんはもう一度カップを見てから、俺へ玄関を指した。
◇
扉を開けると、琴音と母親が並んでいた。
琴音は畳んだ古いジャージを抱えている。
「こんにちは。急に伺ってごめんなさい」
琴音の母親が頭を下げた。
「大丈夫です。母さんも待ってます」
「お久しぶりです」
後ろから来た母さんが、明るい声で二人を迎えた。
「そんなところに立ってないで、どうぞ。琴音ちゃんも入って」
「うん。ただいま」
「おかえり、琴音ちゃん」
母さんが先に返したため、俺は扉を押さえたままになった。
琴音は母親の前へ客用のスリッパを置き、自分はそのまま上がる。
「ジャージ、洗ったよ」
「棚に置いておけばいい」
「あとで忘れそうだから、先に置いてくる」
琴音は洗面所へ向かった。
母親はその背中を見送ってから、俺へ顔を向ける。
「いつも、あんなふうに入っているの?」
「だいたい同じです」
「そう」
咎める響きはなかった。
事実を一つ確認し、そのまま居間へ入る。
◇
母さんと琴音が台所へ行き、俺は琴音の母親と食卓に残った。
向かいに座った母親は、食器棚の青い花柄の茶碗へ一度だけ目を向けた。何の茶碗かは聞かなかった。
「こちらへ来るのは、だいぶ久しぶりじゃないですか?」
沈黙したまま待つのも変なので、こちらから話を振る。
「ええ。仕事では何度か近くまで来ているけれど、今日は久しぶりに駅から歩いたわ」
「前と変わってましたか」
「駅前は。住宅街は、それほど変わっていなかった」
母親は窓の外へ目を向ける。
「二軒の家が並んでいるのも、昔のままね」
「塀を一度直したくらいです」
「琴音からは、家の話をあまり聞いていなかったの。今も金曜日に来ていることも、この前知ったわ」
「金曜日以外にも来てます」
「そうみたいね」
そこで母さんと琴音が戻ってきた。
琴音は来客用のカップを母親の前へ置き、自分のカップを俺の隣へ置く。席は向かいに空いているのに、鞄を置いた方へ回って座った。
「颯馬君から、金曜日以外にも来ていると聞いたところよ」
母親が言う。
「うん。最近はそっちの方が多いかも」
琴音は平然と紅茶へ口をつける。
「今は学校でも一緒にいるから、前より会ってるよ」
「文化祭の準備とか?」
「最初はそうだったけど、今は五人で集まってる」
琴音が、今日決まった春休みの予定を話す。
佐々木が集合時間を間違えたことや、小宮山が代わりに日程をまとめたことまで説明し始めた。
母親は途中で口を挟まずに聞いている。
「友達が増えたのね」
「増えたというか、いつの間にか五人になってた」
「颯馬君も?」
「俺も入ってます」
「颯馬は最初からいたよ」
琴音が言う。
「文化祭より前から?」
「ずっと前から」
俺が答えるより早かった。
母親は琴音を見たあと、紅茶へ口をつける。
「そうだったわね」
◇
焼き菓子が二つ減ったところで、琴音の母親が母さんへ姿勢を向けた。
「改めて、琴音がいつもお世話になっています」
「お世話なんて。私がいない日の方が多いくらいですよ」
「食事や合鍵のことを聞いたので、一度ご挨拶をしたいと思っていたんです」
「琴音ちゃんに鍵を持ってもらった方が、私も安心なんです。颯馬より帰りが早いこともありますから」
「ご迷惑にはなっていませんか?」
「全然。琴音ちゃんが来ると家が明るくなるし、颯馬も一人で食べなくて済みますから」
母さんはそこで俺を見る。
「何だよ」
「本人にも聞いてみようかなと思って」
「琴音が来るのを迷惑だと思ったことはないよ」
言ってから、琴音へ視線を移す。
「来るなら連絡してくれればいい。夕飯が必要なら、そのときに言ってくれた方が作りやすい」
「うん。これからもそうする」
琴音は余計な確認をせず、すぐに答えた。
母親が小さく口元を緩める。
「二人の間で決まっているなら、私から言うことはないわ。ただ、琴音」
「何?」
「高瀬家の厚意を、当たり前にはしないようにね」
「分かってる」
「私たちも、できないことはできないって言いますよ」
母さんが焼き菓子の皿を母親へ寄せた。
「それより、久しぶりなんだから、今日はもっと気楽に話しましょう。仕事は忙しいんですか?」
母さんが新しい話題を始める。
琴音の母親も、今度は姿勢を少しだけ崩した。
◇
それからは、母親たちの仕事や、昔住んでいたころの話になった。
俺と琴音の知らない出来事も多かった。
「琴音ちゃん、小さいころは急にうちへ来てたのよ」
母さんが言う。
「覚えてない」
「玄関の前で、颯馬と遊ぶって待ってたの」
「颯馬は?」
「琴音ちゃんが来るまで昼寝してた」
「今も変わってないね」
「そんなことない」
「休みの日は遅いでしょ」
「琴音に言われたくない」
いつものように返しかけ、少し考える。
「春休みは、朝から勉強する日を作るつもりだ。琴音も来るなら、寝坊できないしな」
「行っていいの?」
「予定を合わせよう。五人で集まる日以外にも、何日か空いてただろ」
琴音はカップから手を離した。
「あとで決める」
「ああ。問題集も見せてくれ。何をやってるか知りたい」
「颯馬のも見せてね」
「そのつもりだ」
母さんが何か言いそうになったが、琴音の母親が仕事の話を続けたため、口を挟まなかった。
進路については、会話の終わり際に短く出ただけだった。
「今日、三人で今後のことを話しました」
「進路、決まったんですか?」
母さんが訊く。
「第一志望は決めたよ」
琴音が答えた。
「本人が希望するところを受験させることにしました」
「そうですか。琴音ちゃんも、もう受験生だものねえ」
感慨深そうに天井を仰いだ。かと思うと俺の方に顔を向ける。
「颯馬もよ」
「わかってるよ」
大学名は出なかった。
俺も聞かなかった。
本人から聞く時間は、このあとに作ればいい。
◇
四時を過ぎ、琴音の母親が帰る支度を始めた。
「駅まで送ります」
「道は分かっているから、大丈夫よ」
「少し歩きたいので。帰りに書店にも寄ります」
一度外へ出れば、琴音と話す時間もできる。
「それなら、お願いします」
母親はそれ以上遠慮しなかった。
「私も行く」
琴音が鞄を取る。
「あなたは一緒に来るでしょう?」
「うん」
母さんが玄関まで見送る。
「今度は挨拶じゃなく、普通に遊びに来てください」
「予定が合えば、ぜひ」
「そういうところ、琴音ちゃんに似てますね」
「私がお母さんに似たんじゃなくて?」
「そうとも言うわね」
琴音の母親も穏やかに笑い、母さんへ頭を下げた。
◇
駅までの道では、春休みの日数や新学期の話をした。
駅前の交差点が見えたところで、俺から母親へ尋ねる。
「帰りは、今日中ですか」
「ええ。このあとの電車で戻る予定よ」
「仕事は明日から?」
「明後日から。明日は家のことを済ませるつもり」
「忙しいんですね」
「予定が先に決まっている方が、私は楽なの」
「琴音と反対ですね」
「どうして?」
琴音が横から聞く。
「空いてる日に、急にうちへ来るだろ」
「先に連絡してるよ」
「来る日の朝にな」
「空いてるかは確認してる」
「駄目とは言ってない。母親とは違うって話だよ」
琴音は少し考えてから、母親を見る。
「確かに、お母さんは一か月くらい前に決めるね」
「あなたは、直前でも動けるところが長所でしょう」
「褒めてる?」
「必要な準備まで直前にしなければね」
母親の言葉に、琴音は返事をしなかった。
俺は笑いそうになり、前を向いた。
◇
改札前で、琴音の母親は足を止めた。
「ここで大丈夫です。今日はありがとう」
「いえ。母さんにも伝えておきます」
「琴音、帰ったら連絡して」
「分かった」
「お父さんとの夕食に遅れないようにね」
「六時には帰る」
母親は琴音の返事を聞き、改札を通った。
向こう側から小さく手を上げる。琴音も手を振り返した。
姿が見えなくなってから、駅の時計を見る。
このまま帰れば、六時には十分間に合う。
「琴音。少し寄っていかないか」
「どこに?」
「まちかど公園。第一志望の話を聞きたい」
目的まで先に伝える。
琴音は駅の出口と時計を見比べた。
「うん。まだ時間ある」
二人で住宅街とは別の道へ向かった。
◇
公園には、帰り支度を始めた親子が一組残っていた。
端のベンチへ座る。
夕方の風はまだ冷たい。
「それで、どこにしたんだ」
「桜嶺大学」
以前から候補として聞いていた大学だった。
今の家からも、琴音の母親が暮らす街からも通えない。
「やっぱり、桜嶺か。一番長く資料を見てたもんな」
「見てたの?」
「隣で開いてたら目に入る。それに、ほかの大学の話より具体的だった」
「迷ってたけどね」
「母親の街か、地元か?」
「うん。でも、それだけで大学を選ぶのは違うと思った」
「桜嶺でやってみたいことは?」
「行動経済学っていうのを勉強してみたいの」
「どんなの?」
「人が何かを選ぶとき、置き方とか見せ方で選び方が変わるっていう話」
「文化祭の案内みたいな?」
「うん。場所を変えただけで、持っていく人が増えたでしょ」
「あのあと、琴音は何度も数えに行ってたな」
「そこまで見てたんだ」
「俺は琴音を見てた」
言ってから、意味が一つにしか聞こえないことに気づく。
「実行委員として動いてるところを、って意味だ」
「今、付け足したね」
「必要だったからな」
一度言葉を切り、正面の遊具を見る。
親子が出口へ向かい、公園には俺たちだけが残った。
「それで、俺の話もしておきたい」
琴音が黙ってこちらを見る。
「俺も桜嶺を第一志望にした」
「同じところ?」
「ああ。前から候補には入れてた。県外へ出るなら、あそこまで挑戦してみたいと思ってた」
「それなら、どうして進路希望に書かなかったの?」
「判定がDだった。母さんを一人にしてまで受ける理由も、前は言葉にできなかった」
「今は?」
「受けたいと思ってる。母さんとも話したし、判定も上げる」
地元の大学が嫌になったわけではない。
現実的な選択であることも変わらない。
それでも、最初から届かないと決めて候補から外したままにしたくなかった。
「じゃあ、一緒に勉強しよう」
琴音の声が、急に近くなった。
鞄からスマートフォンを取り出し、予定表を開く。
「春休みなら、五人で集まる日と家の予定以外は空けられるよ。颯馬が苦手なところは私が見る。数学と英語だよね」
「まだ問題集も見せてないだろ」
「模試の話、前に少し聞いたから。教材も合わせた方がいいよね。明日持ってくる」
琴音の指が画面を滑る。
俺へ相談する前に、空いている日へ印をつけ始めていた。
「待て。琴音の勉強もあるだろ」
「一緒にやればいいよ」
「俺に教えてるだけじゃ進まない」
「ずっと教えるわけじゃないよ。分からないところだけ見て、あとは隣で自分の勉強をする」
「もう全部決めてるな」
「だって、同じところを受けるんでしょ」
琴音は画面から顔を上げた。
「だったら、一緒にやった方がいいよ」
「俺からも頼もうとしてた」
琴音の指が止まった。
「琴音に、勉強を見てほしいって。それだけじゃなくて、俺が分かるところは琴音の方も見る。どっちかだけが教える形にはしたくない」
「本当に頼むつもりだった?」
「ああ。その話も含めて、明日話そうと思ってた」
琴音はスマートフォンを膝へ置いた。
「じゃあ、もう決まりだね」
「日程は二人で決める。先に全部埋めるなよ」
「まだ三日しかつけてないよ」
「十分早いだろ」
「減らす?」
「問題集を見てから決める。減らすとは言ってない」
「うん」
琴音は印を消さず、予定表を閉じた。
「どうして桜嶺に変えたの?」
「それは明日、ちゃんと話したい」
琴音の質問を先送りにするだけにならないよう、その先も続ける。
「十時に、うちへ来てくれ。俺の模試結果と問題集を見てほしい。琴音のも持ってきてくれたら、その場で予定を決める」
「今日じゃ駄目なの?」
「短く答えるだけなら、今でもできる。でも、それで終わらせたくない」
琴音は鞄の持ち手を握り直した。
「分かった。問題集も持っていく」
「全部じゃなくていい。今使ってる物だけで」
「重いなら、颯馬が取りに来てくれる?」
「隣なんだから、必要なら行く」
「じゃあ、十時に行くね」
「ああ。待ってる」
時間を確認し、公園を出る。
今度は寄り道せず、まっすぐ家に向かった。




