第53話 金曜日
玄関の鍵が回ったのは、肉じゃがの鍋を火にかけた直後だった。
「ただいま」
「おかえり」
廊下を進む足音が洗面所の方へ消える。
いつもと同じだった。
少しすれば、琴音は古いジャージへ着替えて台所へ来る。鍋を覗き、人参が小さいと言う。食卓へ着けば、人参から先に食べる。
大丈夫だ。いつも通りにすればいい。
分かっているのに、火を弱めてから時計を見た。
琴音が来て、まだ五分も経っていない。
「何見てるの?」
振り返る。
琴音は古いジャージの袖から指先だけを出し、台所の入り口に立っていた。
「煮込む時間」
「まだ五分だよ」
「分かってる」
琴音はそれ以上聞かず、鍋の横へ来た。
蓋へ手を伸ばし、触れる前に止める。
「まだ?」
「まだ」
「味見は?」
「早い」
「人参は、もう食べられそう」
「じゃがいもが硬い」
「人参だけなら?」
「駄目」
琴音は少し残念そうに手を引いた。
そのまま、まな板の端に残っていた人参の切れ端を見る。
「同じ大きさ」
「昼にも見ただろ」
「ちゃんと切ってくれたんだなと思って」
「肉じゃがにするなら、いつもこれくらいだ」
「うん。知ってる」
琴音は紺色のエプロンをつけ、冷蔵庫から味噌を取り出した。
「味噌汁は私が作る」
「できるのか」
「具は切ってあるんでしょ」
「豆腐だけ」
「ならできる」
小さな鍋へ水を入れ、コンロに置く。
以前なら、火をつけるところから横で見ていた。今は一度こちらを見ただけで、琴音は自分でつまみを回した。
「これくらい?」
「少し弱く」
「これ?」
「それでいい」
琴音が鍋へ向き直る。
危なげがなくなったとは言い切れない。それでも、最初に卵焼きを焦がしたころより、見ていなくても任せられることは増えた。
二つの鍋から、それぞれ違う音がする。
琴音のジャージの袖が火へ近づきそうになり、肘の辺りまで押し上げた。
「何?」
「袖」
「あ」
琴音は押し上げられた袖を見る。
反対側も自分で同じところまでまくった。
「これ、最初に借りたの、雨の日だったね」
「ああ」
「制服が乾くまでって言われた」
「そのあとも勝手に着ただろ」
「颯馬が返せって言わなかったから」
「返せと言ってたら返したのか?」
琴音は少し考えた。
「たぶん」
「返さなかったんだな」
「でも、持って帰ってはいないよ」
「うちに置いてる時点で似たようなものだろ」
琴音は袖口をつまんだ。
「持って帰った方がいい?」
「何で」
「何となく」
「置いておけば、来たときに着られるだろ」
袖口をつまんでいた指が止まる。
「そうだね」
琴音はすぐに布地から手を離し、味噌汁の鍋へ向き直った。
「じゃあ、置いておく」
その声は、さっきより少しだけ軽かった。
◇
食卓へ肉じゃがと味噌汁を並べる。
琴音は青い花柄の茶碗を自分で出した。
俺が炊飯器を開けると、両手で茶碗を持って待っている。
「どのくらい」
「いつもと同じ」
「分かった」
聞かなくても分かっていた。
茶碗へ御飯をよそい、琴音の前へ置く。
「ありがとう」
「いただきます」
琴音は肉じゃがの中から人参を選んだ。
息を吹きかけ、口へ入れる。
いつもと同じ順番だった。
「どうだ」
「おいしい」
「味噌汁は?」
「あとで」
「自分で作ったんだから先に飲めよ」
「人参が先」
二つ目の人参をつまみ、半分に割る。
琴音は断面を確かめるように見たあと、片方を食べた。
「颯馬の切った人参、好き」
「昼にも聞いた」
「昼は食べてなかったから」
「味は毎回同じだろ」
「少し違うよ」
「何が」
琴音は残った半分を皿へ置いた。
すぐには答えず、自分で作った味噌汁へ口をつける。
「今日のは、覚えてると思う」
「明日になったら忘れる」
「忘れないよ」
「肉じゃがだぞ」
「肉じゃがだから」
答えになっていない。
そう言おうとしたが、琴音はもう味噌汁を飲んでいた。
本人にしか分からないなら、聞いても同じらしい。
「味噌汁は?」
「少し薄いかも」
一口飲む。
確かに普段より薄い。
「肉じゃがが濃いから、これくらいでいい」
「本当に?」
「ああ」
琴音は頬を緩めた。
大げさに喜ぶわけでもない。それでも、もう一度自分の味噌汁へ口をつけた。
食事は普段より長くかかった。
会話が多かったわけではない。
琴音が一口食べるたび、少し箸を止める。俺も先に食べ終える気になれず、いつの間にか同じ速さになった。
皿の肉じゃがが減っていく。
残りが少なくなると、琴音は一つずつ選ぶのをやめた。じゃがいもを半分に割り、肉を一切れ食べ、味噌汁へ口をつける。
最後に残ったのは、小さな人参だった。
琴音はそれをしばらく見てから、口へ運んだ。
「今日のが、一番好きかも」
「毎回同じだ」
「でも、今日のが一番」
「何が違うんだよ」
琴音は空になった皿を見た。
「今日の味だから」
「答えになってない」
「私には分かるからいいの」
箸を揃え、皿の横へ置く。
いつもなら、そのまま食器を持って立つ。
今日は重ねようとした皿へ手を伸ばし、触れる前に止めた。
「また作って」
「また作る」
琴音が顔を上げる。
返事が早かったせいか、少しだけ目を見開いていた。
「いつ?」
「肉じゃがにするとき」
「それだと分からない」
「食べたいなら言えよ」
「言っていいの?」
「駄目なら、また作るなんて言わない」
琴音の指が、箸袋の端を何度か折る。
「金曜日じゃなくても?」
「今さら何言ってるんだ」
「何が?」
「月曜日にも来ただろ。冬休みも来てたし、合鍵まで持ってる」
「それは、そうだけど」
「金曜日以外にも何度も食べてるだろ」
「数えてるの?」
「数えてない」
「じゃあ、何度もって分からないよ」
「少なくとも一度や二度じゃない」
琴音は箸袋から指を離した。
青い花柄の茶碗へ視線を落とす。
「ほかの日は、行くって決めてから来てたから」
「金曜日だって、来るって分かってただろ」
「私が決めたんじゃないよ」
それだけ言い、琴音は皿を重ねた。
立ち上がった拍子に椅子が小さく鳴る。
誰かが決め直さなくても、金曜日になれば琴音が来た。
俺は二人分の夕食を作り、琴音は自分の茶碗で人参から食べる。
親同士の勤務から始まった予定だった。
明日からは、最初から決められているわけではない。
「来たい日は来ればいいだろ」
食器を持ち上げた琴音の手が止まった。
「御飯がなくても?」
「腹が減ってるなら作る」
「減ってなかったら?」
「茶でも飲めばいいだろ」
琴音はこちらを見る。
さっきまで止まっていた手が、少しだけ動いた。
「用事がなくても?」
「鍵を渡したとき、用事を書いて出せとは言ってない」
「そうだけど」
「来るなら連絡はしろよ」
「うん」
琴音は食器を持って台所へ向かった。
歩く速さが、立ち上がったときより少しだけ軽くなっていた。
◇
洗い物は二人で片づけた。
琴音が皿を洗い、俺が布巾で拭く。
最後に渡されたのは、青い花柄の茶碗だった。
受け取ろうとしたが、琴音はすぐには手を離さない。
「何だよ」
「欠けてない?」
「見れば分かるだろ」
「颯馬が見て」
茶碗を一周させる。
縁にも底にも欠けたところはない。
「大丈夫だ」
「そっか」
琴音はようやく手を離した。
食器棚を開け、いつもの場所へ戻す。
隣に琴音の箸も置いた。
「持って帰らないんだな」
自分から訊いておいて、余計だったと思った。
琴音は食器棚を見たまま動かない。
「持って帰った方がいい?」
「そんなこと言ってない」
「じゃあ、置いておく」
「琴音のだからな」
「うん。だから置いておく」
食器棚を閉める。
ガラス越しに青い花柄が見えていた。
何も片づける必要はないらしい。
◇
テレビはつけなかった。
琴音は食卓の向かいへ戻り、何も置かれていないテーブルへ座った。
俺も同じ席につく。
明日の母親の訪問。春休みの課題。五人で集まる日。
話そうと思えば、話題はいくらでもあった。
それなのに、琴音も俺も黙っている。
冷蔵庫の駆動音が止まり、壁の時計の秒針が急に近くなった。
「テレビ、つけないの?」
琴音が訊いた。
「見たいのか」
「颯馬は?」
「別に」
「じゃあ、このままでいい」
琴音は食卓へ両手を置いた。
指先が、木目をゆっくりたどる。
「静かだね」
「テレビをつけてないからな」
「そういうことじゃなくて」
「なら何だよ」
「分からない」
琴音は椅子の背へ身体を預けた。
窓の外を車のライトが横切り、カーテンの隙間が一瞬だけ明るくなる。
「小学生のころも、こんな感じだったのかな」
「覚えてない」
「私も」
「なら聞くなよ」
「少しくらい覚えてない?」
「母さんがいた日もあった」
「私のお父さんが、途中で迎えに来た日もあったよね」
「たぶんな」
どちらも曖昧だった。
何を食べたかも、何を話したかも、ほとんど残っていない。
何年もあった金曜日を、一つずつ分けて覚えている方がおかしい。
「いつから二人だけになったんだろう」
「母さんの勤務が変わったころじゃないか」
「そうかも」
琴音は食卓へ視線を戻した。
「最初は、おばさんに会いに来てたのかな」
「今は母さんがいなくても来るだろ」
「うん」
「むしろ、いない日の方が多い」
「それでも来てるね」
琴音は細く息を吐いた。
「何でだろう」
「隣だから」
「それだけ?」
「幼なじみだから」
「それだけ?」
「腹が減るから」
「それは颯馬でしょ」
琴音が小さく笑う。
それ以上は訊かなかった。
答えが足りなかったのか、最初から求めていなかったのかは分からない。
時計の長い針が進む。
琴音は一度そちらを見たが、立ち上がらなかった。
「帰らないのか」
「帰ってほしい?」
「まだ早いしもう少しいてもいいんじゃないか」
「じゃあ、もう少しいる」
「ああ」
琴音は自分の椅子を、ほんの少しだけ食卓へ寄せた。
◇
「そろそろ帰るね」
それから三十分ほど経って、琴音がようやく言った。
「ああ」
立ち上がったのに、鞄は持たない。
先に食器棚へ向かい、ガラス越しに青い花柄の茶碗を見る。
扉を開き、位置を少しだけ直した。
隣に置かれた箸も揃える。
振り返ってから、洗面所へ向かった。
古いジャージのまま戻ってくる。
鞄だけを肩へ掛けた。
「それ、着て帰るのか」
「隣だから」
「明日、持ってくるのか?」
「うん」
「また置くのか」
「駄目?」
「聞く必要あるか、それ」
琴音の手が、鞄の肩紐で止まる。
「ないかも」
「だろ」
琴音はジャージの袖口へ目を落とした。
袖から出た指先で、布地を一度つまんだ。
「これも置いておく」
「ああ」
「茶碗も」
「ああ」
鞄の内側へ手を入れ、紺色のキーホルダーを少しだけ見せる。
「これは?」
「母さんも俺も琴音が持ってて困るとは思ってない」
「うん」
鍵をしまい、ファスナーを閉じる。
茶碗も、ジャージも、合鍵も、そのままだった。
◇
琴音は玄関で靴を履いた。
扉へ手を伸ばしたところで、俺も靴を履く。
「颯馬も出るの?」
「送る」
「隣だよ」
「知ってる」
「一人で帰れるよ」
「俺が出たいだけだ」
理由になっていないのは分かっていた。
琴音は何も指摘しなかった。
「じゃあ、お願い」
扉を開ける。
夜の空気は少し冷たかった。
二軒の間は、十数歩しかない。
並んで歩けば、会話を始める前に着く。
今日は琴音の歩幅が小さかった。
合わせるつもりもなかったのに、俺も普段よりゆっくり歩いていた。
「本当に近いね」
琴音が言う。
「毎日見てるだろ」
「送ってもらうと、もっと近い」
「意味が分からない」
「すぐ着いちゃうから」
琴音の家の門へ着く。
琴音は手をかけたが、すぐには開けなかった。
足元の影が、外灯の下で横に並んでいる。
「来週は、お父さんと食べるから」
「知ってる」
「その次は、まだ分からない」
「ああ」
「でも、食べたくなったら言う」
「そうしろ」
「用事がなくても行く」
「連絡はしろよ」
「うん」
琴音は門を少しだけ開けた。
「明日も行くけど」
「母親と一緒にな」
「終わったら、先に入っててもいい?」
「連絡すれば」
「ただいまって言うね」
「誰もいなかったら返事はないぞ」
「颯馬が帰ってきたら、もう一回言う」
「二回もいらない」
「じゃあ、颯馬が帰るまで待つ」
「合鍵の意味がないだろ」
「どっちがいい?」
琴音はこちらを見る。
「先に入ってろ」
「分かった」
「外で待つなよ」
「中なら待ってもいい?」
「そう言ってる」
琴音は門をもう少し開けた。
「おやすみ、颯馬」
「おやすみ」
内側へ一歩入り、また振り返る。
「帰らないの?」
「琴音が入るまで」
「隣なのに?」
「さっきと同じ話をするな」
「そっか」
琴音は笑い、玄関まで歩く。
鍵を開け、扉へ手をかけたところで、こちらを向いた。
袖から出した手を小さく上げる。
俺も片手を上げた。
琴音が家へ入り、扉が閉まる。
玄関灯が消えるまで待ってから、高瀬家へ戻った。
◇
居間へ入っても、テレビはつけなかった。
食器棚には青い花柄の茶碗が残っている。
洗面所の棚には、明日戻ってくる古いジャージのための場所がある。
琴音の椅子は、少し引かれたままだった。
背もたれへ手をかける。
そのまま戻さず、手を離した。
親同士の勤務に合わせて、金曜日だけ幼なじみに戻っていたころは、今日で終わった。
琴音はもう、金曜日を待たなくても帰ってくる。
次に肉じゃがを作る話も、明日を待つ約束も残っていた。
なら、終わったのは曜日だけでいい。
そのくらいは、俺から増やしてもいいのかもしれない。




