第52話 これで最後だね
終業式が終わったあとの教室は、いつもの放課後より騒がしかった。
通知表を見せ合う声。椅子を引く音。ロッカーから出した教科書や置き傘を、鞄へ押し込む音。
「入らない」
佐々木が机の上の荷物を見下ろした。
春休みの課題が七冊。教科書が三冊。折り畳み傘と、置きっぱなしにしていたらしい空のペットボトル。
「それは捨てろよ」
「いつのだろうな、これ」
「聞きたくない」
佐々木はペットボトルを机の横へ置き、空いたところへ教科書を差し込もうとした。
代わりに数学の冊子が押し出される。
「高瀬、入れてくれ」
「何で俺が」
「お前、こういうの得意だろ」
「得意不得意の話じゃない。傘は手で持て」
「両手が塞がる」
「片手は空いてるだろ」
「帰りにスマホを見る」
「歩きながら見るな」
佐々木が何か言い返そうとしたところで、後ろの扉が開いた。
「まだいた」
三浦が教室へ入ってくる。
その後ろに小宮山と琴音もいた。三人とも鞄を持っている。自分たちの教室の片づけを終え、そのまま来たらしい。
「終業式の日くらい、先に昇降口にいると思ったのに」
琴音が俺の机の横で足を止めた。
「佐々木の鞄が閉まらない」
「高瀬が手伝ってくれないからだ」
「悠真、それ以上押したら冊子が曲がるよ」
三浦に言われても、佐々木はファスナーを引こうとしている。
小宮山が数学の冊子を抜き、教科書と向きを揃えて入れ直した。最後に置き傘を佐々木へ渡す。
「これで閉まる」
「栞さん、ありがとう」
「傘は持って」
「最初からそう言ってくれればよかったのに」
「高瀬が言ってた」
「聞いてなかった」
「だろうな」
佐々木が鞄を閉じる横で、琴音は俺の隣の椅子を引いた。
以前は俺の鞄を置いていた机だった。琴音が昼休みに来るようになってから、椅子の背へ掛けるようになった。
「颯馬、机の中は?」
「空」
「見た?」
「見た」
琴音は鞄を椅子へ置き、自分で机の中を覗いた。
肩から髪が落ち、机の縁をかすめる。
「本当だ」
「信用してないなら聞くなよ」
「前にプリントを忘れてたから」
「一枚だけだろ」
「取りに来たの、春休みに入ってからだったよね」
「覚えてるのか」
「颯馬のことだから」
返事を考えているうちにに、琴音は身体を起こした。
机の中へもう一度目を向ける。
「これで、学校に戻ってくる理由はないね」
「休み中は教室に入れないだろ」
「そうじゃなくて」
琴音は椅子へ座り、鞄を膝へ乗せた。
「学校に来なくても会えるから、別にいいけど」
「隣だからな」
「うん」
それだけで納得したらしい。
琴音は鞄の持ち手を指で揃えた。
◇
「春休み、一回くらい集まらない?」
立ち上がった佐々木が言った。
「一回でいいの?」
三浦が聞き返す。
「二回でもいいけど、全員の予定を合わせるのが面倒だろ」
「言い出した悠真が調整してね」
「俺?」
「任せたら、集合時間を間違える」
「まだ打ち上げのこと言ってるのかよ」
「店に入る時間と、駅に集まる時間を間違えた人が悪いでしょ」
「あれは書き方が紛らわしかった」
「時間しか書いてなかったよ」
小宮山は既にスマートフォンを取り出していた。
「駄目な日だけ送って。あとで合わせる」
「栞さんに任せれば早いな」
「悠真に任せられないから」
「俺は集まろうって言う係だったのか」
「必要な係だよ」
琴音が慰めるように言う。
「その言い方、全然信用してないよね?」
三浦が笑い、琴音も口元を緩めた。
教室に残っていた生徒が一度こちらを見る。すぐに興味をなくし、鞄を持って出ていった。
三浦は家族と出かける日、小宮山は写真部の活動日を送る。
佐々木は店の手伝いを確認するため、母親へメッセージを打っていた。
「颯馬は?」
琴音が訊いた。
「特にない」
「水曜日、買い物じゃなかった?」
「それは母さんの予定だろ」
「颯馬も付き合うって言ってたよ」
「聞いてない」
「たぶん今日言われる」
「何で琴音の方が先に知ってるんだよ」
「昨日、おばさんと話したから」
琴音が俺のスマートフォンを指す。
「水曜日以外なら大丈夫?」
「たぶん」
「じゃあ送って」
「自分で送る」
「早くしてね」
急かされながら予定を入力する。
送信した画面を確認すると、琴音からもすぐに予定が届いた。
明日以外は、ほとんど空いている。
「家の予定は決まってないんじゃなかったのか」
「決まったら直す」
「二度手間だろ」
「颯馬の空いてる日が分かったから、それ以外に入れればいいし」
琴音は画面を見たまま言った。
「五人の予定を合わせるんだろ」
「そうだよ」
返事は早かったが、顔は上がらない。
三浦が何も言わず、小宮山の画面を覗き込んだ。
「一日、全員空いてるね」
「じゃあ、そこ」
小宮山が候補日へ丸をつける。
五人の名前が並んだ画面を見て、佐々木が小さく笑った。
「また五人なんだな」
「今さら一人減る方が変でしょ」
三浦が言う。
「ああ、いや。文化祭のときは、終わったらそれまでだと思ってたから」
「私も。悠真とは、そんなに話さなくなると思ってた」
「何で俺だけ?」
「高瀬君は琴音がいるし」
「俺には誰もいないみたいに言うなよ」
「ひよりちゃんがいるでしょ」
「妹は友達に数えないだろ」
「悠真君より、予定は忘れなさそう」
琴音が言い、また笑いが起きた。
佐々木は納得していない顔で傘を持ち直す。
「栞さんは、こうなると思ってた?」
小宮山は少し考えた。
「写真を渡したあとも、会ったから」
「初雪の日とか?」
「クリスマスも」
三浦が指折り数える。
「結構会ってるね」
「うちの店が多くない?」
「ケーキがあるから」
「ひよりちゃんもいるし」
「だから俺は?」
「店にいるね」
「扱いが店員なんだよな」
会うたびに何か理由はあった。
写真を見る。雪の日に店へ行く。クリスマスに集まる。
どれが最初だったかは、もう順番にする必要もない。
「高瀬は?」
佐々木がこちらを見る。
「何が」
「この五人で集まると思ってた?」
「考えてなかった」
「今は?」
「もう日程まで決まってるだろ」
「そういう返しだと思った」
「なら聞くなよ」
琴音が俺の隣の机へ手を置いた。
「颯馬は、この席も空けるようになったよね」
「毎回鞄をどかすのが面倒だからな」
「私が来ない日も空いてる」
「次の日に来るかもしれないだろ」
口にしてから、三浦と佐々木の視線が動いた。
琴音は机の傷を指でなぞる。
「そっか」
「何だよ」
「別に」
そう言いながら、口元は緩んでいた。
教室の前方で、担任が書類を抱えた。
「施錠するから、そろそろ帰れよ」
三浦が返事をする。
担任が出ていくと、グラウンドの掛け声だけが遠く聞こえた。
小宮山がスマートフォンをしまう。
「三年になったら、教室も変わる」
「そうだな」
佐々木が俺の隣の机を見る。
「ここも、別のやつの席になるんだよな」
琴音の指が止まった。
「クラスが分かったら教えて」
俺を見る。
「校内に貼られるだろ」
「颯馬から聞く」
「同じじゃないか」
「同じじゃないよ」
何が違うのかは説明しなかった。
琴音は鞄を持ち、椅子を机へ戻す。
「琴音も教えろよ」
少し遅れて言うと、琴音の手が止まった。
「うん」
短い返事だった。
三浦と小宮山が先に教室を出る。佐々木も傘を持って続いた。
琴音は俺が鞄を持つまで扉の前で待っていた。
◇
昇降口へ向かう途中、佐々木が進路予定表を見上げた。
「春休みが終わったら、また進路希望調査か。高瀬、志望先は変えないのか?」
「今のところは」
「判定、厳しかったんだろ。地元へ戻すなら早い方がよくないか?」
少し前を歩く琴音の足が、わずかに遅くなる。
「戻すとは言ってない」
「じゃあ、そのまま?」
「今のところは、って言っただろ」
佐々木は首を傾げたが、それ以上は聞かなかった。
琴音も何も言わない。
ただ、鞄を握っていた指から力を抜いた。
◇
校門の外で三人と別れ、琴音と住宅街へ向かう。
「本当に集まるんだね」
琴音がグループメッセージを見ながら言った。
「日まで決めただろ」
「文化祭の準備をしてたころは、思ってなかったな」
「そうか」
「颯馬は?」
「考えてなかった」
「今は?」
「楽しみなんじゃないか」
言ってから、佐々木たちではなく、自分のことを聞かれていたと気づいた。
琴音が画面から顔を上げる。
「颯馬が?」
「嫌なら行かない」
「そっか」
「何だよ」
「ちゃんと答えたから」
琴音はスマートフォンをしまった。
歩く速さが、少しだけ上がる。
「明日、第一志望のことも話す」
声から、さっきまでの軽さが消えた。
「まだ言ってなかったのか」
「候補にしてることは知ってる。でも、受けるって決めたことはまだ」
「反対されそうなのか」
「反対はされないと思う。心配はされるかもしれないけど」
「遠いから?」
「それもある」
今の家からも、母親の家からも通えない大学。
以前、琴音から資料を見せてもらった。場所も寮の情報も知っている。
「颯馬は、本当に受けるの?」
「進路希望にはそう書く」
「そうじゃなくて」
琴音は口を閉じた。
「明日、聞く」
「何で明日なんだ」
「今日は聞かない」
「気になるんだろ」
「うん。でも、今日はほかのことを考える」
「何を」
琴音は答えず、家の方を見た。
「夕飯、何にする?」
「まだ決めてない」
「冷蔵庫に何がある?」
「じゃがいもと玉ねぎ。肉もあったと思う」
「人参は?」
「一本」
「じゃあ、肉じゃが」
「また人参だけ先に食べるのか」
「颯馬が小さく切ってくれるなら」
「大きく切る」
「颯馬は切らないよ」
「何で言い切れるんだ」
「私が食べにくいから」
「自分で切ればいいだろ」
「颯馬が切った方が好き」
琴音は、それ以上理由を足さなかった。
二軒の前へ着く。
琴音は自宅の門へ手をかけた。
「颯馬」
「何」
「今日で、これも最後だね」
何が、と聞けばよかった。
金曜日の夕食か。琴音が一度自宅へ戻り、着替えてから隣へ来ることか。父親の帰りが遅い夜を、うちで過ごすことか。
「まだ食べてないだろ」
琴音が目を瞬かせる。
それから、少しだけ笑った。
「そうだね。あとで行く」
門を開き、玄関へ向かう。
扉の前で振り返る。
「クラス、颯馬から教えてね」
「まだ決まってないだろ」
「決まったら」
「分かった」
「私も教える」
「ああ」
琴音は今度こそ家へ入った。
俺も自宅の鍵を取り出す。
今日で最後。
颯馬が切った方が好き。
クラスは、颯馬から聞きたい。
三つとも琴音が言った言葉だった。
この五人で春休みの予定を決めるようになることも、琴音の何気ない一言にいちいち足を止めるようになることも、少し前までは考えもしなかった。
鍵を一度差し損ねた。




