第51話 今来たところ
三月十四日の放課後、佐々木の家の店へ寄った。
予約票を渡すと、制服の上にエプロンをつけた佐々木が冷蔵ケースから白い箱を取り出した。
「小さいチョコレートケーキ、一台。傾けるなよ」
「分かってる」
「本当にカードなしでいいのか?」
「いらない」
佐々木は箱を袋へ入れたが、すぐには渡さなかった。
「なら、自分で選んだとは言えよ」
「何で」
「俺に選んでもらったと思われてもいいなら、言わなくていいけど」
袋の持ち手をつかむ。
佐々木はまだ離さない。
「これに決めたのは高瀬だからな」
「分かったから離せ」
「ホワイトデーの礼だってことも」
「それは見れば分かるだろ」
「ケーキを見て日付まで当てろって?」
「今日は三月十四日だぞ」
「そういうところだよ」
意味の分からないことを言って、佐々木はようやく手を離した。
店を出る。
袋が脚へ当たらないように持つと、普段より歩きにくい。
今日は琴音がうちへ来ない。
昼休みに、父親が夕食を作ってあるから自分の家で食べると言っていた。
別の日に渡してもいい。そう思ったのに、予約を変えることは考えなかった。
◇
家へ着き、制服から着替えた。
ケーキを冷蔵庫へ入れる。
食卓には、母さんが朝に置いていったメモが残っていた。夕食は冷蔵庫にある物を使うように、と書かれている。
その横へ、今日は隣で食べる、と書き足した。
ペンを置いてから、二行を見比べる。
まだ琴音には聞いていない。
断られたら、このメモを捨てればいい。
冷蔵庫を開けて、さっき入れたばかりの箱を取り出す。
玄関を出た。
隣の家のチャイムを鳴らすと、少しして扉が開いた。
琴音は薄い灰色のカットソーに着替えていた。下ろした髪が肩の前へ落ちている。
「颯馬?」
「今から食べるんだろ」
「そうだけど」
「俺もこっちで食べる」
琴音が目を見開いた。
そのまま何も言わないので、急に居心地が悪くなる。
「やっぱり駄目か?」
「颯馬から来るって言うと思わなかった」
「来たら悪いのか」
「悪くない」
返事が速かった。
琴音は一歩下がり、俺が入れるだけ扉を開けた。
「いらっしゃい」
靴を脱ぐ。
琴音は扉を閉めたあとも、俺の持っている袋を見ていた。
「それ、何?」
「冷蔵庫に入れる」
「中身を聞いたんだけど」
「あとで出す」
「私にも関係ある?」
「なかったら持ってこない」
琴音の頬が少し緩んだ。
「じゃあ、入れておく」
袋を受け取ろうと手を出してくる。
持ち手へ指が重なりそうになり、互いに一度止まった。
琴音が先に手を引く。
「颯馬が入れて」
「最初からそうするつもりだった」
冷蔵庫へ箱を置く。
扉を閉めると、琴音がすぐ隣に立っていた。思ったより近くて、半歩下がる。
「何だよ」
「何か隠してる?」
「箱を冷蔵庫に入れただけだろ」
「今日、ちょっと変」
「琴音に言われたくない」
「私はいつもどおりだよ」
そう言いながら、琴音は楽しそうだった。
◇
夕食後、白い箱を食卓へ置いた。
琴音は洗い物を途中でやめ、向かいに座る。
箱を開けると、小さなチョコレートケーキが現れた。
「悠真君の家の?」
「ああ」
「今日買ったの?」
「前に予約した」
琴音はケーキを見たあと、俺を見た。
「悠真君が選んだの?」
「候補は出してもらった」
言ってから、それでは駄目だったと思い出す。
琴音の口元から、少しだけ笑みが消えた。
「でも、これにしたのは俺」
「颯馬が?」
「ああ。甘すぎないやつで、二人で食べきれる大きさにした」
琴音の視線がケーキへ戻る。
「二人で食べるつもりだったの?」
「そうじゃなかったら、これにしない」
「今日、私が行かないって言う前から?」
「予約したのは前だからな」
琴音が黙る。
言うべきことは言ったはずなのに、まだ何か足りない気がした。
佐々木の顔が浮かぶ。
「ホワイトデーのお礼」
声が思ったより大きくなった。
琴音が瞬きをする。
「バレンタインにもらったから。俺が選んだ」
「二回言ったね」
「一回目で反応しないからだろ」
「聞いてたよ」
琴音は両手を膝へ重ねた。指先が落ち着かないように何度も組み直される。
「嬉しい」
小さな声だった。
「そう」
「それだけ?」
「何て返せばいいんだよ」
「分からないけど、もう少し何かあると思った」
「嬉しいならよかった」
「うん」
今度は、はっきり頷いた。
ケーキを切る。
力を入れすぎて、片方のクリームが少し崩れた。
「雑になってる」
「ケーキが柔らかいんだよ」
「さっきまできれいだったよ」
琴音が笑う。
腹が立ったので、大きい方を琴音の前へ置いた。
「こっちが琴音」
「いいの?」
「お礼なんだから当たり前だろ」
琴音はフォークを入れたが、口へ運ばず俺を見た。
「食べないのか」
「颯馬も」
「先に食べればいいだろ」
「一緒に食べるために選んだんでしょ」
仕方なくフォークを持つ。
同時に食べると、琴音がこちらを見たまま笑った。
「何だよ」
「本当に一緒に食べた」
「食べるって言っただろ」
「うん」
琴音はまた一口食べる。
「美味しい」
「ならよかった」
「颯馬は?」
「普通に美味い」
「私が作ったのと、どっち?」
フォークが止まる。
「比べる必要あるか?」
「ある」
「琴音のは琴音が作った味だった」
「何、その感想」
「こっちは店の味」
琴音の眉が寄る。
失敗したらしい。
「でも、もらった方は一人で全部食べた」
琴音の動きが止まった。
「三日で」
「早くない?」
「箱は残してる」
そこまで言うつもりはなかった。
琴音の頬が目に見えて赤くなる。
「どうして?」
「捨てる理由がなかったから」
「カードも?」
答えずにケーキを食べる。
琴音はしばらく待っていたが、やがて俯いた。
「そっか」
声が弾んでいた。
◇
琴音は大学案内を取りに二階へ上がった。
二十分近く待っても戻ってこない。
階段の下から呼んでも返事がないため、二階へ上がる。
少し開いた扉を二度叩いた。
「入るぞ」
琴音はベッドで眠っていた。
腕の中には、クリスマスに渡した雪だるまがある。
胴体が買ったときより少し潰れていた。
近づいて、起こそうと肩へ手を伸ばす。
琴音が雪だるまを抱え直した。
俺の手まで引き寄せられる。
手首の上へ腕が乗り、雪だるまと一緒に抱え込まれた。
息が止まった。
「琴音」
返事はない。
抜こうとして、少しだけ動かす。
琴音の腕が強くなった。
心臓が一度、大きく鳴る。
聞こえるわけがないのに、反射的に琴音の顔を見る。
眠っている。
早く起こせばいい。
そう思うのに、声が出なかった。
手の甲へ寝息が触れる。
熱い。
琴音ではなく、自分の手の方が。
「……何してるんだよ」
眠っている相手へ言っても意味はない。
もう一度抜こうとして、やめた。
今度は琴音のせいではなかった。
疲れているのに起こすのは酷だ。
そう思うことにした。
◇
それからどのくらいの時間が経っただろうか。一瞬のようにも思えたし、永遠のようにも思えた。
琴音がゆっくりとまぶたを開けた。
「……颯馬?」
「起きたか」
声が変になった。
咳払いをする。
琴音は自分の腕の中を見る。
雪だるま。その下にある俺の手。
目が一気に覚めたらしい。
「えっ」
勢いよく腕を離す。
雪だるまが床へ落ちそうになり、二人で同時に手を伸ばした。
指がぶつかる。
また二人とも止まった。
「颯馬が取って」
「琴音のだろ」
「今は無理」
何が無理なのか分からない。
雪だるまを拾い、琴音の膝へ置く。
「いつからいたの?」
「今来たところ」
琴音が俺の手首を見る。
薄く跡が残っていた。
「今じゃないよね」
「今だよ」
「すぐ抜けばよかったのに」
「抜こうとした」
「抜けなかった?」
答えられない。
琴音がこちらを見ている。
何か言わなければならない気がして、口を開く。
「思ったより、強かったから」
「私のせいにするの?」
「実際、離さなかっただろ」
「寝てたから」
「なら仕方ない」
「颯馬も、嫌なら起こせばよかったでしょ」
その通りだった。
琴音の顔を見られず、雪だるまへ目を落とす。
赤い帽子が少し曲がっている。
「嫌では、なかったけど」
言った瞬間、耳まで熱くなった。
琴音が黙る。
顔を上げると、琴音も赤くなっていた。
「何か言えよ」
「今、無理」
さっきと同じ答えだった。
◇
玄関で靴を履く。
琴音は空になったケーキの箱を胸元へ抱えていた。
「それ、残すのか」
「颯馬も残してるんでしょ」
「カードを入れてるだけだ」
「箱も一緒に?」
「細かいな」
「じゃあ、私も残す」
琴音は箱を抱き直す。
またさっきの姿を思い出し、目を逸らした。
「何で逸らすの?」
「別に」
「雪だるまのこと考えた?」
「考えてない」
「手のこと?」
「聞くなよ」
琴音が笑った。
「颯馬、今日ずっと変」
「誰のせいだよ」
「ケーキを持ってきたときからだよ」
言い返せなかった。
外へ出る。
隣の家へ向かおうとすると、後ろから呼ばれた。
「颯馬」
振り返る。
琴音は箱を抱いたまま、扉の内側に立っていた。
「さっきのこと、忘れなくていいよ」
「自分から忘れろって言ってないだろ」
「あれ、言ってなかった?」
「言ってない」
「じゃあ、今のも忘れて」
琴音が扉を閉めようとする。
「どっちだよ」
閉まりかけた隙間から、琴音の赤い顔が見えた。
「颯馬が決めて」
扉が閉まった。
右手を見る。
跡はほとんど消えている。
それでも、すぐにポケットへ入れる気にはならなかった。




