第50話 返すものが決められない
三月に入ってから、佐々木の家の店は白い箱だらけになった。
入口の棚には、水色や銀色のリボンをかけた焼き菓子が並んでいる。普段から売っている物にも、ホワイトデー限定と書かれた札が添えられていた。
放課後の店内は、俺が思っていたより混んでいた。
制服姿の男子が二人、棚の前で真剣に箱を見比べている。少し離れたところでは、中学生らしい男子が店員へ何度も値段を確認していた。
「高瀬、こっち」
店の奥から佐々木が手を上げる。
制服の上に店のエプロンをつけていた。学校で見る姿より似合っているのが少し腹立たしい。
「忙しそうだな」
「三月に入ってからはずっとこんな感じだ。十四日が近づいたら、もっと増える」
「今のうちに来て正解だったか」
「正解だけど、注文する物が決まってる場合に限る」
佐々木は俺の顔を見た。
「決まってないのか?」
「だから見に来た」
「種類くらいは?」
「食べ物」
「範囲が広すぎる」
棚の前へ移動する。
クッキー、フィナンシェ、飴、チョコレート。大きさも値段も違う箱が、隙間なく並んでいた。
二月十四日から、もう半月以上が経っている。
琴音からもらった菓子は、とっくになくなった。
一度に食べるのが惜しくて机の引き出しへ入れていたのに、三日目には空になった。箱は捨てず、カードを入れたまま残している。
捨てる理由がないだけだ。
佐々木へはそう言った。
今も、その考えは変わっていない。
ただ、空になった箱を引き出しへ戻すとき、カードの文字を毎回確認していることまでは言わなかった。
「予算は?」
佐々木が尋ねる。
「決めてない」
「琴音さんからもらった物より、高すぎない方がいいと思う」
「いくらか聞いてない」
「手作りだから、値段だけでは比べられないだろ」
「なら、どうやって決めるんだよ」
「相手が喜びそうな物を選ぶ」
「最初からそれで困ってる」
佐々木が棚から細長い箱を取った。
「これは?」
「何が入ってる」
「焼き菓子の詰め合わせ。甘さは控えめで、日持ちもする。ホワイトデーでは定番」
箱の裏を見る。中身の写真と原材料が書かれていた。
琴音なら普通に食べると思う。
だが、琴音の父親と分けて食べて終わるところまで想像できた。
「違う」
「何が?」
「琴音は、こういうのをもらったら父親と分ける」
「仲がいいな」
「一人で食べるには多いからな」
「別に、分けてもらっていいだろ」
「俺が返した物なのに?」
口にしてから、自分でもおかしいと思った。
佐々木は箱を棚へ戻さず、俺を見る。
「それは、琴音さん一人に食べてほしいってことか?」
「そういう意味じゃない」
「じゃあ、どういう意味?」
「分からない」
「今日もそれか」
前に相談したときも、同じ答えを何度も使った。
琴音の好きな相手が自分だったら困るのか。
自分でなかったら安心するのか。
どちらにも答えられなかった。
それから琴音と顔を合わせるたび、少しずつ考えている。
琴音は今までどおり、鍵を使って先に家へ入り、ソファで俺を待っている。夕飯を食べ、一緒にテレビを見て、帰る前には次の予定を確認する。
何も変わっていない。
変わっていないはずなのに、以前と同じようには見られなくなった。
二人でいる時間のどこまでが幼なじみなら普通なのか。琴音が誰にでも同じことをするのか。
一度考え始めると、判断できないことばかり増えた。
「分けられたくないなら、小さい物にするか?」
佐々木が別の箱を示す。
「これは一人分。チョコレートが五個入ってる」
「五個」
「数が気になるのか?」
「少なくないか」
「一人分だからな」
「二人で食べたら足りない」
「誰と誰が?」
答える前に、佐々木の口元が上がった。
「高瀬も食べるつもりなのか」
「まだ決めてない」
「でも、二人で食べる前提で数を見たよな」
「家で渡したら、その場で開けるかもしれないだろ」
「琴音さんの家じゃなくて、高瀬の家で渡すのか?」
「三月十四日は金曜日だ」
「そうだったな」
佐々木は手にしていた箱を戻した。
「じゃあ、持ち帰る物じゃなくてもいいのか」
「たぶん」
「夕飯のあとに渡す?」
「そうなると思う」
「二人で食べる?」
「琴音が食べるなら」
「高瀬も?」
「一人で食べてるのを隣で見るのは変だろ」
「何も変じゃないけどな」
「店員として役に立て」
「友人として確認してるんだよ」
「確認はいいから、候補を出せ」
佐々木は肩をすくめ、冷蔵ケースの方へ歩いた。
焼き菓子の棚とは違い、こちらには普段どおりのケーキが並んでいる。春らしい飾りのついた物もあったが、ホワイトデーの文字は見当たらなかった。
「生菓子でもいいなら、小さいホールがある」
「どれ」
「これ」
佐々木がケースの端を指す。
表面に薄くココアが振られた、チョコレートケーキだった。飾りは小さな板チョコとクリームだけで、派手ではない。
「甘さは?」
「見た目より控えめ。琴音さんが作った物より少し甘いと思うけど、うちの商品では低い方」
「食べたことあるのか」
「店の商品だからな」
「大きさは?」
「二人なら十分。食後でも食べきれると思う」
もう一度ケーキを見る。
箱へ入れて渡し、琴音が自分の家へ持って帰る物ではない。
夕飯のあとに冷蔵庫から出し、俺が切る。
琴音の分を青い花柄の茶碗の隣へ置くところまで、簡単に想像できた。
その想像だけは、ほかの箱を見ていたときより自然だった。
「これにする」
「急に決まったな」
「二人で食べられるから」
「それを選ぶ理由としては十分だと思う」
佐々木は冷蔵ケースの向こうへ回り、注文票を取り出した。
「受け取りは十四日の放課後?」
「ああ」
「名前は高瀬颯馬。小さいチョコレートケーキが一台」
「分かってるなら聞くな」
「注文内容を確認してるんだよ」
佐々木はペンを動かし、途中で止めた。
「飾りはどうする?」
「今のままでいい」
「ホワイトデー用なら、プレートもつけられるぞ」
「プレート?」
「短い言葉を書ける。ありがとう、とか」
「いらない」
「即答だな」
「ケーキに文字を書く必要はないだろ」
「じゃあ、カードは?」
佐々木がレジの横から、小さなカードを一枚持ってきた。
白い紙の端に、水色の線が入っている。
「店で用意してる。手書きでもいいし、定型文なら印刷もできる」
「定型文は何がある」
「ありがとう。これからもよろしく。ずっと仲良くしてください」
「最後のは使わない」
「まだ何も言ってないだろ」
「顔に出てる」
「琴音さんのことは顔で分かるって、いつも高瀬が言ってるからな」
「俺と琴音を一緒にするな」
「今ので、カードに書いてあった文面も思い出した?」
答えずにいると、佐々木がカードを俺の前へ置いた。
いつもありがとう。
これからもよろしく。
琴音のカードに書かれていた言葉は、それだけだった。
佐々木に相談したときは、普通すぎると言われた。幼なじみでも、友達でも、家族でも書ける言葉だと。
それでも俺は、何度も読み返した。
文面だけではなく、学校で渡さなかったことや、鍵を使わなかったことまで含めて考えている。
「同じことを書けばいいんじゃないか」
佐々木が言った。
「同じこと?」
「ありがとう。これからもよろしく」
「そのまま返したら、考えてないみたいだろ」
「ちゃんと同じ意味で返すなら、それでもいいと思うけど」
「同じ意味か分からない」
琴音がどこまでを考えて、これからもと書いたのか。
昨日と同じ今日。
高校を卒業するまで。
大学へ進んだあとまで。
以前、直接聞いたときも、琴音は答えなかった。
決まり文句だと言ったあとで、俺の方が分かるかもしれないとも言った。
俺にはまだ分からない。
分からないのに、同じ言葉を返せば、こちらだけが意味を決めることになる。
「高瀬は、琴音さんからもらって嬉しかったんだろ」
「それは何度も言った」
「なら、嬉しかったって書けば?」
「本人にも言った」
「もう一度伝えても減る物じゃない」
「カードに書く必要があるか?」
「ない。直接言えるなら」
ペンを持たされる。
カードの白い面を見た。
嬉しかった。
うまかった。
ありがとう。
それくらいなら、すぐに書けるはずだった。
だが、どれも既に言った言葉だった。
琴音が時間をかけて、俺の好みに合わせた物を作ったこと。学校では渡せず、家の玄関まで来たこと。ほかの誰とも違う箱だったこと。
その全部を受け取ったと伝えようとすると、一行では済まない。
書き始めたら、自分が何を期待しているのかまで残りそうだった。
「佐々木」
「何?」
「お前は袋を残してるんだったな」
「ああ。ちゃんと取ってある」
「ホワイトデーは何を返す」
「友チョコだから、みんなへ同じ物を返す予定。美咲と栞さんも含めてな」
「琴音だけ変えないのか」
「変えない。俺がもらったのは、三人とも同じ友人用だったから」
佐々木は迷わず答えた。
同じ物をもらったから、同じ物を返す。
単純で分かりやすい。
俺がもらった物は、佐々木たちとは違った。
なら、俺も違う物を返していい。
そこまでは分かる。
ケーキを二人で食べることも決められた。
だが、その違いに何という名前をつけるのかは、まだ決められない。
「書かないのか?」
佐々木に聞かれ、ペンを置いた。
「今は書けない」
「当日までまだあるぞ」
「時間があれば書けるとは限らないだろ」
「それもそうだな」
佐々木は無理に勧めず、カードを注文票の下へ挟んだ。
「一応、取っておく。受け取りに来たとき、いらなければ外せばいい」
「今、いらないって言っただろ」
「今は、って言った」
「細かいな」
「客の言葉は正確に確認する主義なんだ」
「学校でもそうしろ」
「学校で高瀬の言葉を正確に受け取ったら、面倒なことになる」
注文控えを受け取り、財布へ入れる。
店の外へ出る前に、もう一度冷蔵ケースを見た。
飾りの少ない、普通のチョコレートケーキ。
特別な名前はついていない。
俺が選んだ理由も、甘さと大きさだけだと言える。
それでも、琴音一人へ渡す箱ではなく、最初から二人で食べる物を選んだ。
言葉は添えられない。
だが、それだけは間違っていないと思った。




