第45話 明日はいかない
二月十四日は金曜日だった。
普段なら、琴音が十九時に帰ってくる日だ。
前日の昼休み、琴音は弁当を食べ終えても、蓋を閉めようとしなかった。
箸を揃え、空になった仕切りを見ている。
「琴音、蓋」
三浦が指摘する。
「分かってる」
琴音は蓋を閉めたが、留め具には触れなかった。
朝から普段より落ち着きがない。
廊下を誰かが通るたびに顔を上げ、こちらと目が合うと何でもなかったように視線を戻す。
「颯馬」
「何」
「明日は、そっちには行かないから」
言い方が曖昧でも、意味は分かった。
「金曜日だぞ」
「分かってる」
「何かあるのか」
「お父さんに家で食べようって言われたから」
「そうか」
適当に選んだ理由のようにも聞こえたが、父親と夕飯を食べること自体は不自然ではない。
「母さんにも言っておく」
「うん」
「七時になっても来ないんだな」
「来ないよ」
「来週の献立は、そのままでいいのか」
「いい」
「なら問題ないな」
琴音の眉尻がわずかに下がる。
「問題ないんだ」
「父親と食べるんだろ」
「そうだけど」
「何か違うのか」
「別に」
琴音はようやく留め具を閉じた。
明日はバレンタインだ。
父親と夕飯を食べることと、その前に誰かへ会うことは両立する。
佐々木が挙げていた名前が、必要もないのに浮かぶ。
瀬尾。
西園寺。
倉橋。
佐々木本人。
最後の一人だけは、さすがに違うと思う。
視線を向けると、佐々木は焼きそばパンの袋を開けていた。
「何だ、高瀬」
「別に」
「今、俺を見て可能性を再検討したな?」
「下がった」
「残ってるなら十分だ」
「悠真、自分で候補者一覧を処分したでしょ」
三浦が言う。
「紙を捨てても、俺の希望までは捨ててない」
「明日になったら現実が分かるよ」
「美咲は厳しいな」
「私の分はあるけどね」
「何で今言うんだよ。明日の楽しみが一つ減った」
「分かってても、もらえたら嬉しいでしょ」
「それはそう」
佐々木は簡単に立ち直った。
琴音の口元も一瞬だけ緩んだが、こちらを見るとすぐに戻った。
「明日は、放課後すぐ帰るのか」
尋ねると、琴音が瞬きをする。
「どうして?」
「父親と食べるなら、遅れない方がいいだろ」
「少しくらいなら大丈夫」
「何か用事があるのか」
「ちょっとだけ」
「学校で?」
「まだ決めてない」
場所が決まっていないのか。
相手の都合が分からないのか。
そこまで考える必要はない。
「遅くなるなら、父親へ連絡しろよ」
「颯馬には?」
「何で俺に連絡するんだ」
琴音の指が、弁当袋の紐で止まった。
「いつもなら、七時に待ってるかもしれないから」
「明日は来ないって、今聞いた」
「そうだね」
正しい答えのはずだった。
しかし、琴音は浮かない顔のままだった。
◇
放課後、昇降口の前で琴音に呼び止められた。
三浦と小宮山は少し先で待っている。
「颯馬」
「まだ何かあるのか」
「明日は、鍵も使わないから」
「来ないなら使わないだろ」
「うん」
琴音は鞄の内ポケットを開けた。
キーホルダーのついた鍵が見える。
すぐ取り出せる位置にあった鍵を、筆箱や小物の下へ押し込んだ。
「奥へ入れすぎだろ」
「明日は使わないから」
「さっき聞いた」
「確認しただけ」
ファスナーを最後まで閉める。
家へ来ないことに、鍵の位置まで変える必要はない。
「何でそこまで気にするんだ」
「明日は、いつもの金曜日じゃないから」
「父親と食べるだけだろ」
「それだけじゃないけど」
琴音は言い切る前に視線を逸らした。
廊下の向こうでは、数人の男子が明日の予想を続けている。
「瀬尾は昼休みじゃないか?」
「でも、西園寺が放課後に生徒会室へ残るらしい」
「仕事だろ、それ」
「倉橋先輩が二年の教室へ来るって話も聞いた」
「何の用事かは?」
「知らない」
断定できる情報は一つもない。
それでも、話す男子だけが増えている。
「噂、聞いてるの?」
琴音が尋ねる。
「佐々木が勝手に送ってくる」
「悠真君、まだ調べてるの?」
「ノートは捨てたらしい」
「頭の中は?」
「残ってるんだろ」
琴音が小さく息を吐く。
「颯馬は、誰だと思ってるの?」
「知らない」
「考えてない?」
「候補が多すぎる」
「多いんだ」
琴音の眉尻が下がる。
「俺が決めたんじゃないぞ」
「颯馬の中にも候補がいるの?」
「佐々木から聞いた名前だけだ」
「颯馬は、その中にいないの?」
一瞬、意味が分からなかった。
琴音も自分の言葉に気づいたらしい。目を見開き、鞄へ視線を落とす。
「今のは、悠真君が言ってた候補の話」
「俺は幼なじみ枠らしい」
「そう」
「候補とは別だって」
「そうなんだ」
琴音の声が少し低くなる。
「何だよ」
「別に」
耳だけが赤くなっていた。
「明日、先に帰って」
「琴音は?」
「ミサたちと帰る」
「そのあとは」
「お父さんと夕飯」
「その前に用事があるんだろ」
「聞くの?」
「もう聞いてる」
琴音の口がわずかに開いた。
いくつか言葉を探したあと、鞄の持ち手を握り直す。
「ちゃんと渡せるか、まだ分からないから」
「誰に」
「そこまでは言わない」
「なら、聞かない」
「またそういう言い方する」
「言いたくないのは琴音だろ」
「颯馬だって、気になるなら気になるって言えばいいのに」
「気になるから聞いてる」
琴音が黙った。
驚いたようにこちらを見たまま、少しずつ口元を緩める。
「何で笑うんだよ」
「別に」
「さっきからそればかりだな」
「颯馬もでしょ」
三浦が少し先から声をかけた。
「琴音、行くよ」
「うん」
琴音は二人へ追いつく前に、一度振り返った。
「にぶちん」
意味が分からない。
しかし琴音は言いたいことだけ言って、今度こそ三浦たちを追っていった。
琴音が誰へ何を渡すのかは、結局分からなかった。
それが誰だろうと、明日が来なければいい、と思った。




