第44話 逃げてない
日曜日の午前、琴音は三浦家の台所に立っていた。
淡い青のシャツにデニムパンツ。髪は低い位置でまとめ、三浦から借りたエプロンをつけている。
「琴音、その格好だとちゃんと料理する人に見えるね」
三浦がオーブンを予熱しながら言った。
「普段は違うってこと?」
「高瀬君の家で御飯ができるのを待ってる人」
「最近は手伝ってるもん」
「琴音用のエプロンもあるんだっけ」
「私用じゃないよ。おばさんのを借りてるだけ」
「でも毎回使ってるんでしょ」
「たぶん」
「それを琴音用って言うんじゃない?」
「美咲、バター」
小宮山が計量器を指した。
「今入れます」
三浦が作業へ戻る。
今日作るのは、焼き菓子だった。
友人用は同じ物を数個ずつ小袋へ詰める。渡す相手は三浦、小宮山、佐々木、それに琴音の父親。
「四人分なら、これで足りる」
小宮山が材料表へ印をつけた。
琴音は買ってきたチョコを見る。
表に書かれた量より、一枚多い。
「それは?」
三浦が気づいた。
「別に使う」
「四人分とは別?」
「少し甘さを変えたいから」
「誰か、甘い物が苦手?」
「四人の分じゃないよ」
三浦の手が止まった。
小宮山は材料表に、新しい線を一本加えて正の字を完成させる。
「五人分」
「同じ物じゃないから」
「渡す相手は五人?」
「そうなるけど」
「なら五人分」
琴音は何も言わず、一枚多く買ったチョコを、友人用とは別のボウルへ入れた。
三浦は名前を聞かなかった。
聞かなくても分かっている顔だった。
◇
友人用の生地を休ませている間に、琴音は別のチョコを刻んだ。
包丁がまな板へ当たる音が続く。
「細かいね」
三浦が横から覗く。
「溶けやすい方がいいでしょ」
「友チョコ用より細かい」
「さっきは三人でやったから」
「甘さも変えるんだ?」
「甘すぎる物が苦手だから」
「誰が?」
琴音は包丁を止めた。
「分かってるでしょ」
「私は名前を言ってないよ」
「顔に出てる」
三浦は笑ったまま、否定しなかった。
「味見用は?」
小宮山が尋ねる。
「必要?」
「初めての配合なら」
「その分だけ減るよ」
「多めに作ればいい」
「一箱でいいから」
口にしたあと、琴音はボウルへ視線を落とした。
三浦と小宮山は、すぐには何も言わなかった。
無言の方が落ち着かない。
「いつも御飯を作ってもらってるし、朝も電話してもらったから」
「うん」
三浦の相槌は短い。
「鍵も渡してもらったし、大学にも一緒に行ってくれた」
「うん」
「普通の友達とは違うから、同じ物じゃなくても変じゃないでしょ」
「幼なじみだから?」
「そう」
琴音はすぐに答えたが、チョコを混ぜる手を動かさなかった。
小宮山が、友人用の小袋と空の紙箱を並べる。
「幼なじみなら、この違いは普通?」
「しおりんまで何?」
「琴音が普通だと思ってるなら、普通」
「答えになってないよ」
「琴音が決めることだから」
判断を返され、琴音は唇を結んだ。
「分からない」
三浦が作業の手を止める。
「何が?」
「幼なじみだから別なのか、それだけじゃないのか」
言葉にした途端、台所が静かになった。
オーブンの予熱が終わり、短い電子音が鳴る。
「でも、本命とか、そういうふうには決めたくない」
「決めると何か変わる?」
三浦の声は柔らかかった。
「渡せなくなりそうだから」
颯馬へ渡す物だと考えるだけなら作れる。
本命だと名前をつけた途端、その箱を持って颯馬の前に立つ自分が想像できなくなる。
「決めなくても作れるよ」
三浦が言った。
「渡すまでに答えを出す必要もないし」
「颯馬に聞かれたら?」
「分からないって言えば?」
「それを言うのも変でしょ」
「じゃあ、聞かれないうちに帰る?」
「逃げるみたいじゃない」
「琴音なら、本当にやりそう」
「やらないよ」
否定したものの、返事を聞かずに済むなら悪くない気もした。
「相手がどう受け取るかまでは、琴音には決められないよ」
三浦の言葉に、琴音は混ぜ終えたチョコへ目を落とす。
「分からないままでも、渡していいのかな」
「渡したいなら」
「渡したいかは分かってる」
そこだけは迷わず言えた。
小宮山が型を琴音の前へ置く。
「なら、今決めるのはそこまででいいと思う」
琴音は小さく頷き、型へチョコを流し始めた。
◇
焼き上がった菓子を冷ましている間に、三人で包装を始めた。
友人用は透明な小袋へ同じ数ずつ入れ、名前を書いたシールを貼る。
ミサ。
しおりん。
悠真君。
お父さん。
四つを並べる。
その横に、浅い紙箱が一つ残っていた。
琴音は別に作った菓子を、仕切りの中へ一つずつ並べる。
少し形の崩れた物を手に取り、箱へ入れずに戻した。
「味は変わらないと思うけど」
三浦が言う。
「開けたら全部見えるでしょ」
「友チョコは見えなくていい?」
「袋の中で重なるから」
「そういうことにしておく」
琴音は包装紙を選び、箱を包んだ。
角がずれたため、テープを外してやり直す。
二度目は折り目が曲がった。
三度目でようやく形が揃う。
「渡す前に箱が傷みそう」
「ミサが見てるから失敗するの」
「見てなくても二回くらいはやり直したと思う」
「見てたから分かるんでしょ」
小宮山は余った材料を袋へ戻していた。
「カードは?」
「今から書く」
琴音は小さなカードとペンを持ち、食卓の端へ移動した。
一枚目は数行書いたところで止める。
読み返し、裏返した。
二枚目は途中まで書き、首を振って破る。
三枚目を書き終えると、しばらく動かなかった。
「決まった?」
三浦が尋ねる。
「たぶん」
「見せて」
「笑わない?」
「笑わない」
「今、少し笑ってる」
「これは琴音が三枚目までいったことへの笑顔」
「やっぱり見せたくない」
「しおりんが止めてくれる」
「笑う前提じゃん」
三浦は口元を指で隠した。
「本当に笑わない」
琴音は迷ったあと、カードを三浦へ渡した。
三浦が二行を読み、小宮山も隣から目を落とす。
二人とも、しばらく黙った。
「何?」
沈黙の方が不安になる。
三浦がにやにやしながらカードを琴音へ返す。
「逃げたね」
「逃げてる」
二人が同時に言う。
「何から?」
「琴音が書かなかったことから」
「書くことは書いたよ」
「嘘はない」
小宮山が言う。
「でも、これなら幼なじみにも、友達にも、家族にも書ける」
「それでいいの」
「なら、いいと思う」
三浦は笑わなかった。
琴音はカードを受け取り、二行をもう一度読み返す。
「颯馬は、どう読むと思う?」
「高瀬君にしか分からないよ」
「ミサはどう読んだの?」
「それを言ったら、私の答えになるでしょ」
「しおりんは?」
「書かなかった方を考える」
「何も書いてないのに?」
「二回書き直したから」
琴音は破った二枚を見た。
最初に何を書こうとしたのかは、もう読ませられない。
三枚目のカードを伏せ、箱へ入れる。
文字のある面は、蓋を開けなければ見えなくなった。
最後にリボンを結び、友人用とは別の紙袋へしまう。
「渡す場所、決めた?」
三浦が尋ねる。
「まだ」
「学校だと、みんな見てると思う」
小宮山が言った。
「分かってる」
「高瀬君の家?」
「それだと、いつもの金曜日になるから」
「いつもと同じじゃ駄目なの?」
琴音は答えず、紙袋の口を閉じた。
箱の意味は決められない。
それでも、いつもと同じ渡し方だけは嫌だった。




