第40話 知らない街の大学
土曜日の朝、駅へ着くと、琴音は既に改札の前にいた。
白いコートの下には淡い青色のニットを着ている。肩に掛けた鞄は普段より小さく、手には紙の切符が二枚あった。
「早いな」
「颯馬が遅れたら困るから」
「待ち合わせの十分前だぞ」
「私も今来たところ」
「切符を二枚買う時間はあったんだな」
琴音が手元を見る。
「交通費は自分で出すって言ったよね」
「だから一枚返せ」
「帰りに何か買って」
「何を」
「まだ決めてない」
「それなら現金で返す」
「駄目」
琴音は一枚を俺へ押しつけ、改札を通った。
追いかけなければ電車に乗り遅れる。
仕方なく受け取り、後に続く。
休日の車内は空いていた。
琴音は窓側へ座り、鞄を膝へ置く。隣へ座ると、乗換案内の画面を開いた。
「次は四十二分後」
「乗り換えは?」
「三番線」
「調べてるなら、ずっと画面を見なくていいだろ」
「間違えたら困るから」
「一度しか乗り換えない」
「颯馬を連れてきたから」
「俺がいなければ間違えてもいいのかよ」
「一人なら自分だけだから」
琴音は画面を閉じた。
窓の外を建物が流れていく。
見慣れた住宅地を越え、川を渡り、駅名も知らないものへ変わっていった。
「お母さんには、今日行くって伝えたのか」
「うん」
「大学で会うのか?」
「午前中は仕事。終わったら連絡するって」
「会うつもりだったのか」
「まだ決めてないよ」
「母親のいる街まで来て、会わないのも変だろ」
「颯馬がいるから」
琴音がこちらを見る。
「邪魔か」
「ううん。お母さんには、一人で大学を見るとは言ってないから」
「俺のことを知らない?」
「名前は知ってるよ」
「どこまで」
「幼なじみで、隣に住んでて、金曜日に御飯を食べてたこと」
「昔の話みたいだな」
「今も食べてるとは言ってない」
「何で」
「聞かれてないから」
琴音は窓へ視線を戻した。
高瀬家の鍵を持っていることも、金曜日以外に来るようになったことも話していないらしい。
「会ったら説明するのか」
「会ったらね」
「母親から見れば、娘が男と大学を見に来てるんだぞ」
琴音の肩がわずかに動いた。
「そういう言い方しないで」
「間違ってないだろ」
「友達でも一緒に来ることはあるよ」
「なら説明すればいい」
「颯馬は平気なの?」
「何が」
「お母さんに会うの」
「琴音の母親だろ」
「だから聞いてるの」
琴音は口元を引き結んでいる。
俺が気にする理由はない。
そう答えようとして、琴音が何を心配しているのか分からなくなった。
「会うことになったら考える」
「そうだね」
琴音は少しだけ息を吐き、窓へ額を近づけた。
◇
大学は駅から緩い坂を上った先にあった。
門の横には守衛室があり、見学だと伝えると、構内図を一枚渡された。
「広い」
琴音が地図を眺めて目を見開いた。
「高校よりはな」
「この棟から駅まで、何分かかるかな」
「正門まででも五分以上あるだろ」
「授業が終わってから電車に乗るまで、二十分くらい?」
「混んでたらもっとかかる」
琴音は構内図の端へ、小さく数字を書き込んだ。
案内板に従い、琴音が考えている学部の建物へ向かう。
ガラス張りの入口は閉まっていたが、中の掲示板やロビーは見えた。壁には研究内容を紹介するポスターが並んでいる。
琴音は一枚ずつ足を止めて読んだ。
「興味あるのか」
「うん。こっちの大学より、選べる授業が多いみたい」
「昨日は、どっちでも同じように勉強できるって言ってただろ」
「同じではないよ。どっちでもやりたいことはできるって言ったの」
「違うのか」
「少し違う」
琴音の目は掲示物を追っている。
母親と暮らせることだけで候補にしたわけではないらしい。
次の建物へ移る途中、ベンチの横に学生向けの掲示板を見つけた。サークルの案内やアルバイト募集が貼られている。
「入るなら、何をするんだ」
「サークル?」
「今は何もしてないだろ」
「料理のサークルがあったら入るかも」
「家で作ればいい」
「友達を作るためだよ」
「料理はついでか」
「颯馬に教わったのと違う物を作れるようになるかもしれない」
「俺に聞かなくて済むな」
琴音の足が止まる。
「そういうこと言う」
「何が」
「聞かなくて済むようにしたいわけじゃないよ」
琴音は頬をわずかに膨らませたまま、掲示板へ向き直った。
「一人でできるようになっても、颯馬には聞く」
「何を」
「今日作った物が合ってるか」
「写真で?」
「帰れたら、食べてもらう」
「毎回?」
「嫌?」
「量による」
琴音の口元が緩んだ。
「なら、一人分より多く作る」
「最初から俺の分を入れるな」
「颯馬が食べないなら、朝に食べるよ」
もう向こうで生活する場面を考えている。
その生活から俺を外す気はないらしい。
◇
昼は、大学近くの店で食べることになった。
予定していた食堂は休みだったため、駅へ戻る途中の定食屋へ入る。
琴音はメニューを開き、魚の定食と親子丼を見比べている。
「決まらないのか」
「親子丼、前に作ったでしょ」
「ああ」
「店の物と比べたい」
「なら親子丼にしろよ」
「魚も食べたい」
「俺が魚にするから、少しやる」
答えてから、琴音の目元が緩んだ。
「交換する?」
「一口だけな」
「じゃあ、親子丼」
店員へ注文し、琴音は大学でもらった構内図を折り畳んだ。
「颯馬は、どうだった?」
「何が」
「大学」
「普通に大学だった」
「ちゃんと見てた?」
「駅から遠い。近くの店は少ない。学食は土曜に閉まってる」
「生活のことばかり」
「毎日通うなら重要だろ」
「学部は?」
「俺がやりたいことは、まだ分からない」
「来なきゃよかった?」
琴音の表情がわずかに曇った。
「そんなことは言ってない」
「じゃあ、来てよかった?」
「実際に見ないと分からないことはあった」
「どんなこと?」
「琴音が、母親だけで選んだわけじゃないこと」
琴音が瞬きをする。
少しして、頬の力を抜いた。
「うん」
「授業も気になるんだろ」
「どっちも理由だよ」
「なら、志望理由に書けるな」
「まだ第一希望にはしない」
「決めたみたいになるから?」
「それもあるけど」
琴音は構内図を鞄へしまう。
「颯馬がどう思うか、まだ全部聞いてないから」
俺の返事を待って、進路を決めるつもりではない。
それでも、決める前に話す相手から外す気もないらしい。
料理が運ばれてくる。
琴音は自分の親子丼より先に、俺の焼き魚へ視線を向けた。
「一口」
「まだ自分の方も食べてないだろ」
「約束した」
魚の端を小皿へ置くと、琴音の口元が緩んだ。
「颯馬も親子丼、食べる?」
「少しだけな」
琴音が箸を入れようとしたところで、食卓の上のスマートフォンが震えた。
画面を見た琴音の笑みが止まる。
「お母さん?」
「仕事、終わったって」
「そうか」
「駅前まで来てるみたい」
琴音は画面を見たあと、俺へ視線を移した。
「颯馬も一緒に会うって、返していい?」
箸を持ったまま、答えを待っている。
母親に挨拶するだけだ。
そう考えたのに、琴音が俺を何と紹介するのかまでは聞けなかった。




