第39話 週末の予定
玄関を開けると、リビングからテレビの音が聞こえた。
靴を脱ぎ、廊下へ上がる。
「おかえり」
琴音はソファの端に横向きで座り、クッションへ頬を載せていた。
食卓には開いた教科書とノートがある。勉強していた形跡は残っているが、今はテレビで紹介されている駅前の店を眺めていた。
「ただいまは?」
「入ったときに言ったよ」
「誰に」
「誰もいなかったけど」
以前は俺が帰るまで待っていたが、今は一人でも言うらしい。
鞄を置き、上着を脱ぐ。
「宿題は終わったのか」
「あと一問」
「先にやれよ」
「颯馬が帰ってきたら休憩するって決めてたから」
「俺が帰る前からテレビを見てただろ」
「音だけ聞いてた」
琴音の隣には、菓子の空袋が置かれている。
「食べながら?」
「それは勉強しながら」
「テレビも見て、菓子も食べて、何をやってたんだよ」
「宿題」
琴音はクッションへ頬をつけたまま答えた。
鍵を渡してから、高瀬家で待つことに遠慮がなくなった。
学校から俺より先に帰れば、メッセージを一件送って中へ入る。宿題をする日もあれば、テレビを見ている日もある。
母さんと帰宅が重なった日は、一緒に洗濯物まで畳んでいた。
弁当箱の場所だけでなく、タオルをしまう棚まで琴音の方が知るようになっている。
「飲み物は?」
「まだ」
「勝手に入れればいいだろ」
「冷蔵庫は勝手に開けるなって言ったよね」
「俺がいないときの話だ」
「今はいるから、開けていい?」
「そこまで聞かなくても開けていいよ」
琴音が勢いよく身体を起こした。
子供のようにはしゃぎながら、台所へ向かう。
「颯馬も飲む?」
「麦茶」
「私も同じにする」
「好きにしろ」
二人分のコップを持って戻り、片方をこちらへ置く。
琴音は再びソファへ座ったが、教科書を開こうとはしなかった。
「あと一問は?」
「休憩のあと」
「いつ終わるんだよ」
「颯馬が休憩を終えたら」
「俺は今帰ってきたところだぞ」
「だから少し休んでいいよ」
自分が休みたいだけだろう。
琴音は麦茶を一口飲み、ソファの横に置いた鞄へ手を伸ばした。
「お母さんから、これが届いた」
取り出したのは、何冊かの大学案内だった。
琴音が第二希望へ書いた大学の物もある。ほかにも二校あり、表紙には見覚えのない校舎の写真が載っていた。
「郵送?」
「うん。お母さんが取り寄せて送ってくれたの」
「返事を待ってもらってるのに、案内は送ってくるんだな」
「急がなくていいけど、見るだけ見てほしいって」
琴音は一番上の冊子を開いた。
付箋が何枚か挟まれている。学部紹介、授業内容、学生生活。母親が貼ったらしく、短い文字も添えられていた。
「ちゃんと読んだのか」
「少し」
「いつ届いたんだ」
「一昨日」
「少ししか読んでないのかよ」
「一人で読むと、行くつもりになったみたいでなんか悔しい」
琴音の指が、母親の字をなぞる。
第一希望へ大学名を書かなかったときと同じだった。
調べることと決めることを、琴音は簡単には分けられないらしい。
「読むだけで進路は決まらないだろ」
「分かってるよ」
「なら読めばいい」
「一緒に見る?」
琴音は冊子を持ち上げた。
最初から、そのために高瀬家へ持ってきたように見える。
「宿題は?」
「一問だけだから、あとでやる」
「提出は明日だろ」
「大学を決める方が大事だよ」
「今すぐ決めないって言ってたじゃないか」
「見るだけ」
自分で言って、琴音の口角が少し上がった。
断られないと分かっている顔だった。
隣へ座ると、琴音が冊子を二人の間へ置く。
学部紹介のページには、授業名や研究分野が並んでいた。琴音は付箋のついた箇所を一つずつ開いていく。
「これが、この前話してた学部」
「地元の大学にも似たのがあるんだろ」
「あるよ。でも、選べる授業はこっちの方が多い」
「母親の家からは?」
「電車で三十分とか」
「近いな」
「さすがにこっちの家からは通えないけどね」
琴音の指がページの上で止まる。
「毎日新幹線に乗れば別だろ」
「学費より高くなりそう」
「なら無理だな」
「簡単に言うね」
「琴音も分かってただろ」
「分かってたけど」
琴音はページをめくった。
キャンパスマップ、図書館、食堂、学生寮。写真だけでは、地元の大学との違いはよく分からない。
「ここ、土曜日なら見られるんだって」
琴音が見学案内の欄を指す。
「説明会があるのか」
「説明会はないけど、構内には入れるみたい。建物の外と、図書館の一部」
「母親に聞いたのか」
「うん。お母さんも、見てから考えた方がいいって」
「一緒に行けばいいだろ」
「仕事があるから、今週は無理だって」
「別の日にすればいい」
「お父さんも今週末は仕事なの」
「なら来週」
琴音はページへ視線を落とした。
行く時期を急ぐ必要はないはずだ。
それでも、指先は今週の見学可能日を押さえたまま動かない。
「今週、行きたいのか」
「少し」
「何で」
「写真だけ見てると、ずっと決められない気がするから」
琴音は冊子を閉じかけ、また開いた。
「一人でも行けるよ。前にお母さんのところへ行ったことがあるから、電車も分かるし」
「なら行けばいいだろ」
「うん」
返事はしたが、冊子を鞄へ戻そうとはしない。
琴音の目が、一度こちらへ向く。
すぐに見学案内へ戻った。
「何だよ」
「何も言ってないよ」
「顔に出てる」
「颯馬も分かるようになったんだ」
「前から分かる」
答えると、琴音の目元がわずかに緩んだ。
「週末、予定ある?」
「ない」
「そう」
「それだけか」
「一人で行けるって言ったから」
「一緒に行ってほしいなら、そう言えばいいだろ」
琴音が顔を上げる。
何度か瞬きをしたあと、抱えていたクッションを膝の上へ置き直した。
「来てくれるの?」
「見るだけだろ」
「颯馬は受けないかもしれないよ」
「そんなの今は分からない」
自分で言ってから、琴音が笑った。
「さっき調べるだけで決まらないって言ったの、颯馬だよ」
「琴音が一人で行くよりはましだろ」
「心配?」
「知らない街で迷われると面倒だからな」
「行ったことあるよ」
「大学までは?」
「ない」
「なら同じだ」
琴音は冊子を閉じ、表紙を両手で押さえた。
唇を結ぼうとしているが、口角は上がったままだ。
「一緒に行きたい」
今度は、はっきり言った。
「最初から言えよ」
「断られたら、一人で行くつもりだったから」
「断ってないだろ」
「今はね」
琴音は鞄からスマートフォンを取り出し、乗換案内を開いた。
「朝八時十二分」
「もう調べてるのか」
「行くなら、この電車がちょうどいいよ」
「一人のつもりだったんじゃないのか」
「二人でも同じ電車に乗れるでしょ」
人数で時刻は変わらない。
「交通費は?」
「私が出す」
「自分の分は自分で払う」
「私が誘ったのに?」
「関係ない」
「じゃあ、お昼は私が出す」
「高校生同士で奢るな」
「この前、団子を買ってもらったよ」
「一本だろ」
「大学の近くに安い店があるか探す」
「話を聞け」
琴音は地図を開き、大学周辺の店を調べ始めた。
進路希望調査の第一希望は、まだ空欄だ。
それなのに、週末に乗る電車と昼飯の場所だけが先に決まり始めている。
「お母さんには、颯馬も行くって言っていい?」
「隠す必要あるか?」
「ないけど」
琴音の指が止まった。
「名前は知ってるよ」
「俺の?」
「幼なじみで、隣に住んでることも」
「金曜日の夕飯は?」
「昔のことは知ってる」
「今も続いてることは?」
「言ってない」
「何で」
「聞かれてないから」
琴音は少し考え、母親とのメッセージ画面を開いた。
「高瀬家の鍵を持ってることも、まだ言ってない」
「それも聞かれてないからか」
「うん」
答えながら、琴音の手が鞄の内ポケットへ向かう。
紺色のキーホルダーへ触れ、すぐに離した。
「お母さんと仲が悪いわけじゃないよ」
「分かってる」
「小学校へ入る前までは、三人で住んでた。別々に暮らすことになって、お父さんの仕事と私の学校がこっちだったから、そのままお父さんと住んだの」
「別居してるのは知ってる。決まった時泣きながら俺に言っただろ」
「どっちも好きだもん。離れ離れは嫌」
琴音の口元から笑みが消えた。一人で呟くように続ける。
「お父さんと暮らすことを選んだだけ。お母さんを選ばなかったわけじゃない」
「ああ」
「だから、一緒に暮らさないかって言われて、嫌じゃなかった」
琴音は大学案内へ視線を落とした。
「でも、今度は自分で全部決めるから」
大学だけではない。
父親と暮らす今の家も、学校の友人も、高瀬家の鍵も、金曜日の夕飯も含めて決めることになる。
「週末に見たくらいで、全部は決まらないだろ」
「うん」
「なら、見るだけ見ればいい」
「颯馬も一緒に?」
「もちろん」
琴音の顔から硬さが抜ける。
口元がゆっくり緩み、スマートフォンを持つ指まで落ち着いた。
「ありがとう」
「まだ何もしてない」
「一緒に行くって決めた」
「それだけだろ」
「私にとっては、それだけじゃない」
琴音は母親へメッセージを打ち始めた。
画面は見えない。
送信したあと、満足そうにスマートフォンを伏せる。
「何て送ったんだ」
「週末に大学を見に行くって」
「俺のことは?」
「一緒に行く人がいるって書いた」
「名前は」
「聞かれたら言う」
「最初から言えよ」
「聞かれなかったら?」
「好きにしろ」
琴音は声を立てずに笑った。
「颯馬」
「何」
「宿題、終わったら時刻表を一緒に確認して」
「先に残り一問をやれ」
「終わったら?」
「見る」
「待っててね」
「どこにも行かない」
「分かってる」
そう答えながら、琴音は一度スマートフォンを確認した。
画面を伏せ、問題集へ向き直る。
数秒後、また振動した。
「お母さん?」
「うん」
「何て?」
琴音は届いたメッセージを読み、シャープペンシルを持ったまま動かなくなった。
「琴音」
「今週、その街にいるって」
「住んでるんだから、そりゃいるだろ」
「そうじゃなくて」
琴音はスマートフォンをこちらへ向けた。
『大学を見終わったら、少し会えない?』
その下には、もう一文続いている。
『一緒に来る人にも、よかったら挨拶させて』
「俺のこと、書いたのか」
「一緒に行く人がいるってだけ」
「名前は?」
「書いてない」
それなのに、母親は俺が同行することを知っているような文章だった。
「どうする?」
琴音が尋ねる。
週末は大学を見るだけの予定だった。
返事を待っているのは、琴音の母親だけではなくなった。




