第37話 空欄と合鍵
進路希望調査の提出期限は、翌週の金曜日だった。
第一希望から第三希望まで、大学名と学部を書く欄がある。その下には、志望理由を短く記入する枠も用意されていた。
「一週間で決める物なのか、これ」
佐々木が用紙を机へ置く。
「今の時点での希望だから、あとで変えてもいいって言ってたでしょ」
三浦は既に一つ目の欄へ大学名を書いていた。
「美咲、決まってるのか?」
「候補は三つあるよ。順番で迷ってるけど」
「栞さんは?」
「二つ。三つ目は空欄にする」
小宮山の用紙には、細かな字で大学名が二つ並んでいる。
「琴音さんは?」
佐々木は次々と尋ねる。
琴音は用紙を机へ置いたまま、まだ何も書いていなかった。
「考えてるところ」
「高瀬は?」
「家から通える範囲」
「俺と同じじゃないか」
「佐々木は範囲も決めてないだろ」
「国内」
「広すぎる」
佐々木は進路希望調査を裏返した。
見えなくしても、空欄が埋まるわけではない。
俺は第一希望へ、以前から候補にしていた大学を書く。県外で一人暮らしをする理由もなく、母さんの勤務を考えても、今の家から通う方が都合はよかった。
隣で紙の擦れる音がした。
琴音が、第一希望を空けたまま第二希望へ大学名を書いている。
大学名の上にある県名だけが目に入った。
ここから通える場所ではない。昨夜聞いた、母親の住む地域だった。
「そこ、候補にしてるのか」
琴音のペン先が止まった。
「見たの?」
「少しだけ見えた。隠してなかっただろ」
「隠してないよ」
口ではそう答えながら、琴音は用紙の端を指で押さえた。裏返しはしない。
「お母さんの家から通えるところ」
「昨日言ってた大学か」
「一つだけじゃないけど、近いのはここ」
「受けるのか」
「まだ候補」
「第二希望に書いたのに?」
「第一希望が決まってないから」
「順番が逆じゃないか」
「一番上に書いたら、決めたみたいになるでしょ」
琴音は第二希望の文字を見つめたまま、唇をわずかに結んだ。
書く場所を一段下げても候補に入れたことは変わらない。ただ、琴音には違うらしい。
「高瀬、琴音さんの進路を知ってたのか?」
「昨日聞いただけだ」
「昨日?」
「夕飯のとき」
三浦がこちらを見る。
「冬休み最後の夕飯を一緒に食べたの?」
「初詣の帰りに決めた」
「二人で?」
「母さんは日勤だったからな」
「そうなんだ」
三浦の口元が緩んだ。
「何だよ」
「何も言ってないけど」
「顔に出てる」
「高瀬君、琴音以外の顔も分かるようになったんだ」
「今のは誰でも分かるだろ」
琴音が自分の用紙を手前へ引いた。
「ミサ、颯馬の話より自分の順番を決めたら?」
「三つとも書いたよ」
「なら提出できるね」
琴音の声が、さっきより少しだけ硬い。
三浦は気づいたらしく、笑いを収めて自分の用紙へ戻った。
「俺も第二希望から決めようかな」
佐々木が進路希望調査を表へ戻す。
「高瀬と同じところ」
「勝手に入れるな」
「知ってるやつがいた方が安心だろ」
「佐々木の進路を俺で決めるな」
「琴音さんも、お母さんの近くなら安心だから入れたんだろ?」
「それだけじゃないよ」
「他にも理由があるの?」
「学びたいことも考えてる」
「何を学びたいんだ?」
「まだ言わない」
「どうして俺には教えてくれないんだよ」
「悠真君に話したら、決まったことみたいに広めそうだから」
「俺の信用、低くない?」
「今の質問で上がると思った?」
三浦が吹き出し、小宮山も口元をわずかに緩めた。
琴音も一度だけ笑ったが、用紙へ視線を戻すと、すぐに表情が静かになった。
第二希望の大学名。
その下の志望理由は、空欄のままだった。
◇
昼食を終え、階段の前で別れるところで琴音が足を止めた。
「颯馬」
「何」
「これ、一緒に考えてほしい」
鞄から進路希望調査を少し出す。
「志望校を?」
「理由を書くところ。決めてもらいたいわけじゃないよ」
「自分で書く物だろ」
「書く前に話したいの」
琴音は用紙を鞄へ戻し、こちらの返事を待った。目を逸らさないが、鞄の持ち手を握る指には力が入っている。
「今日でいいなら」
琴音の眉が上がった。
「放課後、予定ないの?」
「ない」
「じゃあ、高瀬家に行っていい?」
「金曜日じゃないぞ」
「昨日も金曜日じゃなかったよ」
琴音の頬が少し緩む。断られないと分かった顔だった。
「一度帰るんだろ」
「着替えてから行く」
「俺より早く着いたら?」
「家の前で待ってる」
「寒いだろ」
「すぐ帰ってくる?」
「琴音より遅いかもしれない」
「じゃあ、自分の家で待つよ」
琴音は簡単に引き、教室へ戻ろうとした。
その背中を見て、母さんに言われていたことを思い出す。
「琴音」
琴音が振り返った。
「鍵、持ってくか」
一度瞬きをし、それからもう一度した。
「どこの?」
「うち以外に何があるんだよ」
「高瀬家の?」
「ああ。母さんが、最近よく来るなら渡しておけって言ってた」
「おばさんが?」
「毎回チャイムを鳴らすのも面倒だろ」
琴音は黙ったまま、こちらを見ている。
驚いているのかと思ったが、少しずつ口角が上がっていった。
「颯馬は、いいの?」
「嫌なら言わない」
「本当に?」
「何回聞くんだよ」
「だって、颯馬の家の鍵でしょ」
「母さんの家でもある」
「颯馬の家でもあるよ」
「だから俺が渡すって言ってる」
琴音は唇を引き締めようとしたが、上がった口元を隠しきれていなかった。
「いる」
「まだ出してないぞ」
「もらう」
「なくすなよ」
「なくさない」
「勝手に入るな。俺がいないときは連絡しろ」
「返事がなかったら?」
「急ぎじゃなければ待て」
「先に帰っていいって言われてたら?」
「入っていい」
「ただいまって言って?」
「誰もいないだろ」
「颯馬が帰ってきたら言う」
そんなことまで決めてもしょうがないと思ったが、口にはしなかった。
「鍵は家にある。四時くらいに来い」
「もっと早くてもいい?」
「俺が帰ってない」
「鍵があれば入れるよ」
「まだ渡してないだろ」
「じゃあ、颯馬が帰る時間に行く」
琴音は満足したように頷いた。教室へ戻りかけ、また振り返る。
「颯馬」
「今度は何」
「忘れないでね」
「進路希望調査を?」
「鍵」
琴音は笑みを隠さないまま、自分の教室へ戻っていった。
俺の手には、第一希望まで書き終えた進路希望調査がある。
琴音の第一希望は空欄のままだった。
◇
四時を少し過ぎた頃、玄関のチャイムが鳴った。
扉を開けると、着替えを済ませた琴音が立っていた。
「鍵を渡すって言っただろ。何で鳴らすんだよ」
「まだもらってないから」
琴音は靴を脱ぐ。
「ただいま」
「おかえり」
玄関脇の棚から、予備の鍵を取る。母さんが付けた紺色のキーホルダーが揺れた。
「ほら」
差し出すと、琴音はすぐには受け取らなかった。
「本当に、私が持ってていいの?」
「昼にも聞いただろ」
「颯馬の家に、私の鍵があるの、変じゃない?」
「琴音の鍵じゃない。うちの鍵だ」
「私が持ってる、高瀬家の鍵」
「同じだろ」
「少し違うよ」
琴音は両手で受け取った。
キーホルダーを指で裏返し、鍵の形を確かめる。目元が柔らかく細まり、朝の卵焼きが成功したときより嬉しそうだった。
「嫌になったら返せよ」
「ならないよ」
返事が早い。
「まだ何も言ってないだろ」
「返さない」
琴音は鍵を鞄の内ポケットへ入れ、ファスナーを閉めた。その上から一度、二度と押さえる。
「なくすな」
「うん」
「今度は鍵を使えよ」
「今日は颯馬がいたから」
「いても使っていい」
「じゃあ、次は自分で帰るね」
琴音の口元がまた緩んだ。
進路希望調査は、まだ鞄の中にある。




