第35話 その先の春
始業式前日の午後、俺は琴音へメッセージを送った。
『六時でいいんだよな』
返事はすぐに来た。
『うん』
少しして、もう一文届く。
『帰っていいなら』
来ていいなら、ではなかった。
『初詣の日に決めただろ』
『確認しただけ』
確認しなければ変わるような予定でもない。
夕飯は、冷蔵庫に残っていた鶏肉とじゃがいもで鶏じゃがにする。
二人分の米を研ぎながら、冬休みに入ってから二人分と考える機会が増えたと思う。
クリスマスには二人で夕飯を食べた。年末は相沢家の台所に立ち、大晦日も一緒に過ごした。元日には四人で初詣へ行った。
学校が始まれば、毎日のように会うことはなくなる。
金曜日は残る。
それ以外の日まで元に戻るのかは、まだ分からなかった。
六時より五分前に、玄関のチャイムが鳴った。
扉を開けると、白いニットに紺色のスカートを合わせた琴音が立っていた。
「まだ六時前だぞ」
「遅いって言われないように」
「五分なら連絡しなくていいのか」
「今日は待ってた?」
「俺が呼んだんだから、いるに決まってるだろ」
「いるかどうかは聞いてないよ」
琴音はそれ以上説明せず、靴を脱いだ。
「ただいま」
「おかえり」
今日は、言う相手が玄関にいた。
琴音はコートをいつもの場所へ掛け、そのまま台所へ入ってくる。
「何作るの?」
「鶏じゃが。じゃがいもの皮をむいてくれ」
「何個?」
「三つ」
「二人なのに?」
「明日の弁当にも使う」
「私の分は?」
自分も数に入っていることを疑っていない聞き方だった。
「始業式は午前で終わるだろ」
「そのあと、ミサたちとお昼を食べるかもしれない」
「購買へ行けばいいんじゃないか」
「混むと思う」
琴音は既に三つとも流しへ運んでいる。
断られた場合の動きではない。
「弁当箱は?」
「昔おばさんが使ってた物が、下の棚にあるよ」
言われた場所を探すと、奥から小さな二段の弁当箱が出てきた。
何で琴音の方が知ってるんだ。
「前におばさんと片づけたから。必要なら使っていいって」
どうやら顔に出ていたらしい。
「俺を通さず話が進んでるな」
「今、颯馬にも話したよ」
「使ったら駄目?」
「駄目とは言ってない」
「なら、私の分もあるんだ」
琴音は弁当箱を受け取り、蓋を開けた。
「颯馬と同じおかず?」
「わざわざ別に作ると思うか」
「卵焼きも同じ?」
「まだ作ると決まってない」
「じゃあ、私が作る。颯馬の分も」
「成功すればな」
「失敗しても同じにはできるよ」
「二人分焦がす気かよ」
琴音は弁当箱を食卓へ置き、じゃがいもの皮をむき始めた。
俺が鶏肉を切り、琴音がじゃがいもと玉ねぎを切る。最後のじゃがいもだけ大きかったため、半分にするよう言うと、琴音は少し迷ってから包丁を入れた。
「今切った片方は颯馬のね」
「同じじゃがいもだぞ」
「最後のは、颯馬に言われて切ったから違うの」
何が違うのかは分からなかった。
鍋へ油を入れ、鶏肉を炒める。琴音が背後の棚からボウルを取ろうとして、進む方向が重なった。
「ボウル取る」
「ああ」
互いに身体をずらす。
袖と肘が軽く触れ、琴音の動きが一瞬止まった。
俺も菜箸を止める。
クリスマスの翌日なら、必要以上に距離を取っていたかもしれない。今は琴音が横を通り過ぎるのを待ち、鍋へ視線を戻した。
「今日は、避けすぎないね」
「火を使ってるから、動ける場所が決まってる」
「前も火は使ってたよ」
「通れたならいいだろ」
「うん。通れた」
琴音は玉ねぎを鍋へ入れた。
調味料を加えて落とし蓋をすると、琴音が冷蔵庫を開けた。
「卵、二つ使っていい?」
「今作るのか」
「明日の朝」
「なら今出すなよ」
「あるか確認しただけ。颯馬の分も作るなら、二つ必要だから」
琴音は卵を戻し、冷蔵庫を閉めた。
「普通の卵焼きなら、弱火でいい?」
「ああ」
「焦げたら?」
「焦げないように作れ」
「颯馬がいないと分からない」
「一人で作れるようになるための練習だろ」
「電話なら、一人で作ってることになるよ」
判断の基準がおかしい。
「朝からかけてくるのか」
「火加減だけ聞く」
「動画でも見ればいいだろ」
「颯馬に聞いた方が早い」
「俺も弁当を作ってる最中だぞ」
「同じ時間に作ればいいでしょ」
琴音は次の予定を作るときだけ、理由を見つけるのが早い。
「七時」
「私からかけるね」
「どっちでも同じだろ」
「颯馬が起きてなかったら困るから」
「七時には起きてる」
「なら、颯馬からでもいいよ」
通話がつながれば同じはずだが、琴音の中では少し違うらしい。
「七時にかける」
琴音は一拍遅れて頷いた。
「待ってる」
蓋の隙間から上がった湯気が、換気扇へ吸い込まれていく。
「次の金曜、何を食べたい」
青い茶碗を出していた琴音が振り返った。
「今、決めるの?」
「買い物するなら早い方がいい」
「明日の卵焼きを作ってから決める」
「何で卵焼きが基準なんだ」
「上手くできたら、次は別の物を作りたいから」
「琴音が作る前提なのか」
「一品なら?」
「献立による」
「じゃあ、水曜日までに考える」
「水曜に聞く」
琴音の手が止まった。
「颯馬から?」
「忘れてるかもしれないからな」
「私は忘れないよ」
「なら、確認するだけだ」
琴音は二つの茶碗を食卓へ並べ、位置を揃えた。
「それも待ってる」
◇
鶏じゃがをよそい、向かい合って座る。
琴音はじゃがいもを一つ取り、箸で半分に割った。その片方を俺の皿へ入れる。
「これ、颯馬の」
「まだ言ってるのか」
「私が切った方」
「全部同じだろ」
「なら食べても問題ないでしょ」
返す理由もなく、そのまま口へ運ぶ。
「どう?」
「普通」
「甘い?」
「少し」
「じゃがいもが?」
「煮汁が」
「そうじゃなくて」
「じゃがいもに他の味があるのかよ」
琴音は答えず、自分の半分を口へ入れた。
同じじゃがいもを分けたことに意味があるような顔をしている。
「明日から学校だな」
「うん。冬休み、颯馬とは結構会ったね」
「年末からほとんど毎日な」
「学校が始まったら減る?」
「金曜は変わらない」
「明日の朝も電話するよ」
「一回増えただけだろ」
「水曜日は颯馬から連絡する」
「献立を聞くだけな」
「次の金曜日も決まってる」
琴音は一つずつ口に出して確認した。
減るかと聞いたわりに、既に三つ増えている。
「それなら、今週はあまり変わらないね」
「学校では毎日会うだろ」
「それは別」
「何が違うんだよ」
「学校では、颯馬はおかえりって言わないから」
琴音は何でもないように鶏肉を食べた。
こちらだけが返事を探すのも癪なので、味噌汁へ口をつける。
「そういえば、お母さんから連絡が来てるんだ」
明日の弁当について話していたときと、ほとんど同じ調子だった。
「今日?」
「少し前」
「何の連絡?」
「大学のこと」
「もう志望校を決めろって?」
「そうじゃなくて」
琴音は玉ねぎを飲み込んでから続けた。
「進学するとき、向こうへ来ないかって」
「向こう?」
「お母さんのところ」
母親が暮らす場所は、ここから毎日通える距離ではない。
「一緒に住むってことか」
「うん。近くに大学もあるから、選択肢に入れてみないかって」
「返事は?」
「まだ。待ってもらってる」
「いつ来たんだ」
「年末より前」
「結構前じゃないか」
「うん」
返事を忘れていたわけではない。
決められずに待ってもらっている。
「父親には話したのか」
「話したよ」
「何て?」
「私が決めればいいって。聞きたいことは、お母さんに直接聞いた方がいいとも言われた」
琴音の父親なら、そう答える気がした。
引き止めるとも、行った方がいいとも言わない。
「琴音は、どうしたいんだ」
「まだ分からない。それだけで大学は決められないでしょ」
「そうだな」
「まだ一年以上あるし」
「ああ」
今すぐ決める話ではない。
選択肢が一つ増えただけだ。
そう考えたのに、さっき琴音が数えた予定が頭に残った。
明日の朝。
水曜日。
次の金曜日。
一年後の予定だけが、その続きに並ばない。
「颯馬には、まだ言ってなかったけど」
「何で今日なんだ」
「今日じゃ駄目だった?」
「そういう意味じゃない。決めてから言うつもりだったんだろ」
「うん」
「なら、何で」
琴音は皿へ視線を落とした。
「颯馬が、先に次の金曜日を決めたから」
「それと関係あるのか」
「少し」
「どこが」
「言っておいた方がいいと思ったの」
琴音はそれ以上説明せず、最後の玉ねぎを口へ運んだ。
俺が次の金曜日を先に決めたことと、琴音が進学後の話をしたこと。
琴音の中では、同じ予定の続きらしい。
食後、二人で片づけをする。
青い茶碗を拭き、いつもの場所へ戻した。
弁当箱へ鶏じゃがを詰めると、琴音は二つを見比べた。
「颯馬の方が一個多い」
「弁当箱の大きさが違うからな」
「私が切ったじゃがいもは?」
「全部そうだろ」
「じゃあ、全部食べて」
「弁当なんだから食べる」
琴音は二つの弁当箱へ蓋をした。俺の分を冷蔵庫へ入れ、自分の分だけ鞄へしまう。
「同じお弁当だね」
「おかずだけな」
「卵焼きも同じにするから」
「焦げ方まで合わせなくていいぞ」
「颯馬が電話してくれたら大丈夫」
失敗した場合の責任までこちらへ移されている気がする。
琴音はコートを着て、玄関で靴を履いた。
「明日、七時だからね」
「分かってる」
「水曜日も?」
「俺から聞く」
「次の金曜日も?」
「六時だろ」
琴音は満足したように頷き、扉へ手を掛けた。
「お母さんの話、驚いた?」
「少し」
「言わない方がよかった?」
「決まってから言われるよりはいい」
「困る?」
「急ならな」
「今なら?」
「一年以上ある」
「そうじゃなくて」
琴音は扉の取っ手から手を離した。
「今日、言ってよかった?」
「父親にしか話してないよりはいいんじゃないか」
「そっちじゃない」
「他に何がある」
琴音は少しだけ待った。
答えが足りなかったらしい。
何が足りないのかは分からない。
「おやすみ」
「ああ」
琴音は扉を開け、一歩外へ出た。
「明日、七時」
「忘れない」
「颯馬からだからね」
「何度言うんだよ」
「確認しただけ」
最初のメッセージと同じことを言い、琴音は隣の家へ戻っていく。
玄関の前で鍵を出したところで、こちらを振り返った。
俺がまだ扉の前にいると分かると、今度こそ家へ入る。
食器棚には、青い茶碗が残っている。
琴音が遠くの大学に進むかもしれない。
その先の春からも、茶碗はうちにあるのだろうか。




