第32話 新年最初のおかえり
元日の朝、目を覚ましたのは九時を少し過ぎた頃だった。
カーテンの隙間から入る光が、床の上へ細長く落ちている。昨夜寝たのは一時を回っていたが、普段より少し遅い程度で済んだ。
枕元のスマートフォンには、琴音からの連絡が一件届いていた。
『おばさん、帰ってきた?』
送信時刻は八時四十二分。
母さんの靴を確認するために玄関へ下りる。仕事用の黒い靴が揃えてあり、膨らんでいた鞄も廊下の端へ置かれていた。
『帰ってる』
返事を送ると、すぐに既読がつく。
『起きてる?』
『今から確認する』
母さんの部屋の前まで行き、扉を軽く叩いた。
「母さん」
返事はない。
もう一度叩いてから、扉を少しだけ開ける。カーテンは閉じられ、布団の中に頭まで埋まっていた。
「一時に初詣」
「聞こえてる」
布団の中から声だけが返る。
「起きてるのか」
「今、帰ってきたところ」
「靴はあった」
「見れば分かることを報告しないで」
「昼まで寝るんだろ」
「十二時半に起こして」
「一時に出るって」
「着替えるのに五分あれば足りる」
「食事は」
「帰ってから食べる」
夜勤明けの母さんに、これ以上話しても意味はなさそうだった。扉を閉める直前、布団が少し動く。
「琴音ちゃんたちには、行くって伝えておいて」
「分かった」
琴音へ母さんが寝たことを送る。
『十二時半に起こす』
『私も十二時半に行くね』
『一時でいい』
『起きなかったら困るでしょ』
『二人で起こす方が困る』
既読がついたあと、返事は来なかった。
来ないとは書いていない。
朝食を済ませ、風呂を洗い、昨夜使わなかった母さんの作り置きを昼用に分ける。正月らしいことは何もしていないのに、テレビだけが朝から晴れ着姿の出演者を映していた。
冷蔵庫には、相沢家で食べたような料理は入っていない。母さんの作り置きは、豚肉と野菜の炒め物と、容器に小分けされたひじきの煮物だった。
勤務の合間に正月料理を作る余裕などなかったのだろう。
母さんは毎年それを気にしない。俺も、家で大晦日を過ごしていた頃は適当に済ませていた。
今年は相沢家で、三人分の食卓に座った。
昨夜の写真を開く。
料理の端に、短い箸が写っている。俺がそこにいた証拠と言うには小さすぎるが、見れば自分には分かった。
画面を閉じたところで、母さんの部屋から目覚ましが鳴った。
一度止まり、五分後にまた鳴る。
十二時半になっても、扉は開かなかった。
部屋へ行こうとしたところで、玄関のチャイムが鳴る。
扉を開けると、琴音が白いコートと同じ色のマフラーを巻いて立っていた。片手には、持ち手のついた紙袋がある。
「ただいま」
「本当に来たのか」
「昨日言ったよ」
「一時でいいって送っただろ」
「おばさん、起きた?」
「まだ」
「だから来てよかった」
琴音は靴を脱ぎ、廊下へ上がる。母さんの仕事用の鞄を見て、帰宅していることを自分でも確認した。
「その袋は?」
「お父さんから。黒豆と煮物」
「昨日食べただろ」
「元日用は別に取ってあったから」
「自分の家で食べる分じゃないのか」
「まだ残ってるよ」
琴音は台所へ入ると、保存容器を冷蔵庫へ収めた。どの段に空きがあるか、一度開けただけで判断している。
「おばさん、何か食べた?」
「まだだと思う」
「病院では?」
「俺に聞くなよ」
「看護師って、忙しいと食事が遅くなることもあるって聞いたから」
「母さんは食えるときに食う」
「じゃあ、起きたら聞こう」
琴音は自分が持ってきた料理なのに、食べさせることまで勝手に決めなかった。
母さんの部屋から三度目の目覚ましが鳴る。
「起こしてくる」
俺が廊下へ出ると、琴音も後ろからついてきた。
「何で来るんだ」
「私も挨拶する」
「起きてからでいい」
「起きなかったら?」
「布団を剥がす」
「本当にするの?」
「必要なら」
扉を叩く。
「母さん、十二時半」
「あと十分」
「一時に出るんだろ」
「十二時四十分に起きる」
琴音が俺の後ろから扉へ顔を寄せた。
「おばさん、琴音です」
部屋の中が静かになる。
数秒後、布団の擦れる音がした。
「琴音ちゃん?」
「はい。起こしに来ました」
「今起きる」
さっきまでの抵抗が嘘のようだった。
俺が扉から離れると、琴音は口元へマフラーを寄せる。
「私の方が効いたね」
「外面がいいだけだ」
「使えるものは使った方がいいでしょ」
琴音は自分の手柄のように言いながら、リビングへ戻った。
母さんが着替えて出てきたのは、十二時四十五分だった。髪は一つにまとめられているが、足取りは普段より遅い。
「琴音ちゃん、おはよう」
「おはようございます。あと、お疲れさまです」
「ありがとう。昨日は颯馬が迷惑をかけなかった?」
「海老天の大きい方を食べました」
「それだけ聞くと迷惑ね」
「琴音のお父さんが半分に切ったんだよ」
琴音は冷蔵庫を示した。
「お父さんが、黒豆と煮物を持っていってって」
「相沢さんにお礼を言わないと。帰ったら連絡する」
「今、食べますか?」
「お腹は空いてるけど、先に初詣へ行こうかな。食べたらまた眠くなりそう」
「水くらい飲んだ方がいいよ」
「やっぱり颯馬より琴音ちゃんね」
「俺もさっき食事はって聞いた」
「尋ねるだけなら誰でもできるでしょ」
母さんはコップへ水を注いだ。
琴音は食卓の椅子へ座らず、玄関近くで待っている。迎えに来ただけだから、長居するつもりはないらしい。
「お父さんは?」
「家で待ってる。おばさんが起きたって送った」
「いつの間に母さんと連絡先を交換したんだ」
「前から知ってるよ」
「俺は知らない」
「颯馬が聞かなかったから」
琴音はスマートフォンをしまった。
母さんが飲み終え、玄関で靴を履く。
「財布とスマートフォン、持った?」
「子どもじゃないんだから」
「さっきまで起きなかった人が言っても説得力ないよ」
今度は琴音が母さんを急かしている。
母さんは玄関まで来てから、小さな鞄を忘れたと言って部屋へ戻った。
「やっぱり来てよかったでしょ」
琴音が小声で言う。
「俺一人でも同じだった」
「おばさん、私が言ったらすぐ起きたよ」
「外面だって言っただろ」
「でも、起きた」
結果だけを見れば、琴音の言うとおりだった。
母さんが戻り、今度こそ忘れ物がないことを確かめる。
琴音は玄関の鏡でマフラーを直したあと、俺の手元へ視線を移した。
今日は手袋をしている。
指先まで収まっていることは、既に確認されていた。
「颯馬、マフラーは?」
「いらない」
「外、冷たいよ」
「手袋がある」
「首と手は別だけど」
「神社まで歩くだけだ」
「じゃあ、来年はマフラーにする」
「何の話だ」
琴音は答えず、先に扉を開けた。
外では父親が相沢家の門を閉めているところだった。こちらに気づき、軽く手を上げる。
母さんがその横へ歩いていき、昨夜の礼を伝えた。
「颯馬がお世話になりました」
「こちらこそ、料理を手伝ってもらって助かりました」
「来年は私も休みを取れるといいんですけど」
「無理をしなくても、元日にこうして会えれば十分ですよ」
大人二人の会話を聞きながら、俺と琴音は数歩遅れて歩く。
「迎えに来る必要、なかっただろ」
「おばさんを起こせたよ」
「それ以外は」
「新年最初に、ただいまって言えた」
琴音は前を歩く二人を見る。
「おばさんも普通に受け入れてくれたし」
「母さんなら、いつもどおりだろ」
「うん。いつもどおりだった」
短い返事のあと、琴音の歩幅が僅かに広くなる。
交差点で父親と母さんへ追いついた。
四人で信号が変わるのを待つ。
昨日まで三人だった予定に、母さんが加わっている。
誰かが立ち位置を決めたわけではない。
青信号になると、母さんと父親が先に歩き、俺の隣には琴音が残った。




