第31話 今年も帰ってきていい?
日付が変わってから、三人で初詣の予定を確認した。
「高瀬さんは何時頃に帰る?」
琴音の父親がテレビの音量を下げる。
「朝には勤務が終わるって言ってました。昼まで寝ると思います」
「じゃあ、一時くらいがいいか」
「起こしてって頼まれてます」
「おばさん、起きられるかな」
琴音が壁の時計を見る。零時を十分ほど過ぎていた。
「自分で起きる気がないみたいだから、起こす」
「電話?」
「同じ家だぞ」
「起きなかったら?」
「布団を剥がす」
「看護師さんにそれをするの、少し怖くない?」
「家ではただの母親だ」
父親が小さく笑った。
「高瀬さんらしいな。昔から仕事の後はなかなか起きなかった」
「お父さん、知ってるの?」
「お前たちが小さい頃、四人で出かける約束を何度かしただろ。待ち合わせに遅れそうになって、俺が電話した」
「覚えてない」
「琴音は車で寝てたからな」
「颯馬は?」
「後部座席で琴音に寄りかかられて、動けないって文句を言ってた」
父親の言葉に、琴音が俺を見る。
「本当?」
「覚えてない」
「さっきは昔のそばの味を覚えてたのに」
「全部覚えてるわけじゃない」
「私は?」
「何が」
「私が颯馬に寄りかかって寝たこと」
「今言われたから知った」
琴音は少し考え、長いソファの背もたれへ身体を預けた。肩が近づいたわけではない。ただ、間に残っていた空間が少し狭くなる。
「今は寝ないよ」
「当たり前だろ」
「眠くなったら帰る?」
「零時半には帰る」
「あと十五分」
「隣なんだから十分だ」
「分かってる」
琴音は引き止めず、空になった湯呑みを持ち上げた。
父親が食卓の重箱を確認するために台所へ戻る。琴音もついていき、俺は一人でリビングへ残った。
テレビでは神社からの中継が流れている。画面の向こうでは、知らない人たちが肩を寄せ合って長い列を作っていた。
明日の初詣も混むのだろう。
母さんと琴音の父親、俺と琴音の四人で出かけるのは久しぶりだった。子どもの頃には何度かあったらしいが、俺の記憶に残っているのは写真の中の景色ばかりだ。
台所から琴音の声が聞こえる。
「お父さん、それ元日の方」
「同じ煮物だろ」
「付箋に書いたのに」
「食べれば同じじゃないか」
「量が違うの」
「じゃあ戻しておいてくれ」
少しして、琴音が重箱を両手で持ってきた。
「颯馬、これ見て」
「何を」
「黒豆、減ってる」
蓋を開けると、端の一角だけ不自然に空いていた。
「お父さんが食べたんだろ」
「味見だ」
台所から父親の声が飛んでくる。
「味見の量じゃない」
「美味しくできてたから」
「明日の分なのに」
琴音は蓋を閉め、冷蔵庫へ戻る。
黒豆が少し減った程度で困ることはない。それでも、琴音は付箋に書いた予定どおり進めたいらしい。
今日の俺の席も、最初から三人分として数えられていた。
昨日までなら、そのことをいつもの延長として受け取っていた。今は、琴音が父親より先に俺を呼んだと知っている。
同じ食卓でも、見え方が少し違った。
琴音が手ぶらで戻り、ソファへ座る。今度は先ほどよりも少し離れた位置だった。
「何で戻ったんだ」
「何が?」
「座る場所」
「近かった?」
「そういう意味じゃない」
「じゃあ、どんな意味?」
答えられず、テレビへ視線を戻す。
琴音も、それ以上は聞かなかった。
年越し中継が終わり、画面は別の番組へ切り替わった。父親が戻ってきたとき、琴音はテレビ欄を開いていた。
「颯馬、見たい番組ある?」
「特にない」
「お父さんは?」
「ニュースが始まるまで何でもいい」
「二人とも、選ぶ気ないね」
「琴音が見たい物でいいだろ」
「私だけで決めるの?」
「今までも琴音が変えてた」
「颯馬の家ではね」
琴音はテレビ欄を見下ろした。
「ここは私の家だから、颯馬が選んでもいいよ」
「理屈が逆じゃないか?」
「お客さんなら、見たい物を聞くでしょ」
「さっき客じゃないって言っただろ」
琴音の指が、リモコンのボタンの上で止まる。
「じゃあ、颯馬が決めなくてもいい」
「何でそうなる」
「家にいる人なら、見たいときに自分で変えるから」
リモコンがソファの中央へ置かれた。
俺からも琴音からも手が届く位置だ。
結局、どちらも取らなかった。
父親が戻るまで、知らない芸人が今年の抱負を話す番組をそのまま見続けた。
零時二十五分になり、立ち上がる。
「帰る」
琴音は時計を見て、今回は止めなかった。
「送る」
「隣だぞ」
「玄関まで」
「それは見送りだろ」
「外まで」
父親が冷蔵庫を閉める。
「行ってきたらいい。鍵は俺が閉めるから」
「お父さんまで」
「数十秒だろ」
コートを着て手袋をはめる。琴音も上着を羽織った。
相沢家の玄関を出ると、夜の空気は音を吸い込んだように静かだった。遠くで車が一台走り、どこかの家からテレビの笑い声が漏れている。
高瀬家の門までは、本当に数歩しかない。
「明日、一時」
「覚えてる」
「おばさんが起きなかったら?」
「起こす」
「無理そうなら連絡して。お父さんと先に待ってるから」
「先に行けばいいだろ」
「四人で行くって決めたでしょ」
決めたのは数分前だ。
それでも琴音は、変更する余地のない予定のように言った。
「分かった」
門の前で鍵を取り出す。
琴音は相沢家へ戻らず、その場に立っていた。
「もう着いたぞ」
「鍵が開くまで」
「子どもじゃない」
「夜だから」
「隣だって言ったのは琴音だろ」
「それとこれは別」
扉の鍵を開ける。
玄関の照明をつけ、振り返った。
「これでいいか」
「うん。おやすみ」
「おやすみ」
琴音はようやく相沢家へ戻り始めた。
数歩進んだところで足を止める。
「あけましておめでとう、もう一回言っていい?」
「さっき言っただろ」
「家の前では言ってない」
「場所で回数が増えるのか」
「今年、最初にここへ来たから」
まだ日付が変わって三十分も経っていない。琴音は高瀬家へ入っていないし、玄関の外に立っている。
それでも、来たことにはなるらしい。
「あけましておめでとう、颯馬」
「あけましておめでとう、琴音」
「今年も、帰ってきていい?」
以前、春以降の話はした。
来ればいいと答えた。最近は金曜日以外にも、琴音は何度もうちへ来ている。
今さら確かめる必要はないはずだった。
「今まで確認してなかっただろ」
「年が変わったから」
「年が変わっても家は変わらない」
「じゃあ、いい?」
「来るなら連絡しろ。夕飯が必要な日は早めに」
琴音は一度頷いた。
「分かった」
「それだけか」
「明日も来るから」
迎えに来るという意味だろう。
琴音は今度こそ相沢家へ戻り、玄関の中へ入った。扉が閉まる直前、こちらを向いて小さく手を上げる。
俺も玄関へ入り、鍵をかけた。
室内は照明をつけたばかりで冷えている。母さんがいないため、物音もない。
リビングへ行くと、一人分の食器だけが食器棚に残っていた。夕飯は相沢家で済ませたから使わない。
冷蔵庫には母さんの作り置きがあり、明日の朝食にも困らない。
それでも、つい数分前まで三人でいた相沢家に比べると、家の中が広く感じた。
テレビをつける気にはならず、自室へ向かう。
手袋を机の上へ置いたところで、スマートフォンが震えた。
琴音から写真が一枚送られてくる。
食卓に並んだ年越し料理だった。父親が撮ったのか、画面の端に三人分の箸が写っている。
『今日の写真、これしかなかった』
料理だけで、三人は写っていない。
『明日は四人で撮るって、お父さんが言ってる』
『母さんが起きたらな』
『起こして』
『分かってる』
既読がつき、返事は来なかった。
代わりに、さっきの食卓の写真がもう一度目に入る。
俺が使った短い箸は、琴音の箸の隣に置かれていた。
大晦日はもう終わった。
それでも三人で過ごした食卓は、写真の中で新年最初の記録になっていた。




