第13話 文化祭のあとで
文化祭が終わって最初の月曜日。
相沢琴音は、朝から何度も右手を握り直していた。
痛むわけではない。
指先に何かが残っているわけでもなかった。
それでも教科書をめくるときや、ペンを持ち替えるとき、その手を颯馬に引かれたことを思い出した。
廊下の人混みを前に、颯馬が差し出した手。
最終上映へ間に合わせるためだった。
琴音が遅れないように、ただ引いてくれただけだ。
三階へ着いたあとまで離さなかったことにも、きっと深い意味はない。
颯馬は、そういうところだけ妙に鈍い。
昼休みになっても、右手のことは頭から消えなかった。
「琴音、右手どうかした?」
向かいの席から声をかけられ、琴音は右手を机の下へ下ろした。
「何が?」
「朝から気にしてるから」
「気にしてないよ」
「今、隠したけど」
紺色の弁当箱を開けながら言ったのは、三浦美咲だった。
文化祭準備のころから、琴音の友人として颯馬の前にも何度か姿を見せている。琴音が普段、ミサと呼んでいる女子だ。
その隣では、小宮山栞が紙パックの紅茶へストローを差していた。
写真部に所属しており、文化祭当日も首からカメラを下げて校内を歩いていた。琴音は彼女を、しおりんと呼んでいる。
「昨日、手をつないで走ってたから?」
栞が紅茶を一口飲んでから言った。
琴音の指が、弁当箱を包んでいた布の結び目で止まった。
「どうして知ってるの?」
「見た人がいたみたい」
「誰?」
「そこまでは聞いてない」
「走ってただけだよ」
琴音は結び目をほどこうとした。
けれど指へ力が入りすぎたのか、布は逆に固く締まった。
「走るときって、手をつなぐものだっけ」
美咲が尋ねる。
「人が多かったから」
「琴音から?」
「何が?」
「手をつないだの」
「……颯馬からだけど」
「へえ」
「何、その言い方」
「別に。高瀬君からなんだと思って」
「だから、走るためだよ」
「分かってるって」
美咲は笑いながら、琴音の手元を指した。
「それ、貸して」
「自分でできるよ」
「できてないから言ってるの」
琴音は仕方なく、結び目の固くなった弁当箱を渡した。
美咲は少し指を動かしただけで、簡単に布をほどく。
「はい」
「ありがとう」
「それで、どこまでつないでたの?」
「どこまでって?」
「人混みを抜けるまで?」
「三階まで」
「階段も?」
「危ないから、ゆっくり上がったよ」
「離さずに?」
「ミサ、さっきから何が聞きたいの?」
自分でも分かるくらい、声が少しだけ上ずった。
美咲は琴音の顔を見て、それ以上笑うのをやめた。
「嫌だったのかなと思って」
「嫌じゃないよ」
答えは、考えるより先に出た。
琴音は一度口を閉じる。
「嫌では、なかったけど」
「けど?」
「……何でもない」
弁当箱の蓋を開ける。
朝寝坊したせいで、中に入っているのはコンビニで買った小さなパンとサラダだけだった。
いつもなら颯馬に見つかれば、足りないと言われる。
購買へ行かなかったのか。
朝も何も食べていないんじゃないか。
きっと、いつものように細かく聞いてくる。
「高瀬君は、何か言ってた?」
栞が尋ねる。
「手のこと?」
「うん」
「何も」
「琴音からも聞いてない?」
「何て聞くの?」
「昨日、どうして手をつないだのって」
「そんなの、聞かなくても分かるよ。急いでたから」
「なら、気にしなくてもいいんじゃない?」
もっともな答えだった。
琴音も、朝から何度もそう考えている。
急いでいた。
人が多かった。
はぐれないためだった。
三階へ着いたあとに手を離すまで、颯馬はいつもと変わらない顔をしていた。
「そうなんだけど」
琴音はパンの袋を開けた。
開けただけで、すぐには口へ運ばない。
「子どものころは、普通だったの」
「手をつなぐのが?」
「道路を渡るときとか、お祭りの人混みとか。どっちからつないだかなんて、気にしたこともなかったし」
「今は気になる?」
美咲に聞かれ、琴音はパンの端を小さくちぎった。
「昨日は、気にならなかったよ」
「昨日は?」
「急いでたから」
「今日は?」
ちぎったパンを口へ入れる。
いつも買っているものなのに、少し乾いている気がした。
「……朝、颯馬に会ったときに思い出しただけ」
「高瀬君を見たら?」
「たまたま」
「何回くらい?」
「何が?」
「今日、思い出した回数」
「数えてないよ」
「数えられないくらい?」
「ミサ」
「ごめん」
美咲は謝ったが、声には少しだけ笑いが残っている。
琴音はサラダの蓋を開け、付属のドレッシングを端から丁寧にかけた。
普段なら一度で全部入れるのに、今日は袋の中身がなくなるまで、何度も指で押した。
「私だけ昨日のことを気にしてたら、少し恥ずかしいでしょ」
ドレッシングの空袋を折りながら言う。
美咲と栞は、すぐには何も返さなかった。
その沈黙が落ち着かず、琴音は言葉を足した。
「颯馬は、たぶん何とも思ってないし」
「それなら、気にしてないふりをすればいいんじゃない?」
栞が言った。
「ふり?」
「高瀬君が何とも思っていないなら、琴音が覚えていても分からない」
「そういうことをしたいわけじゃないよ」
「じゃあ、気づいてほしい?」
「違う」
否定した声が、思ったより大きくなった。
近くの席にいた女子がこちらを見る。
琴音は姿勢を小さくし、声を落とした。
「気づいてほしいとかじゃなくて、颯馬が忘れてるのに私だけ覚えてるのは、その……」
言葉が続かなかった。
恥ずかしい。
悔しい。
少し寂しい。
どれも合っているようで、どれも口にはしたくなかった。
「ずるい?」
美咲が言葉を引き継いだ。
琴音はサラダへ視線を落とした。
「そうかも」
「じゃあ、聞いてみたら? 昨日のこと、覚えてるって」
「無理」
「即答だね」
「だって、手をつないだことだけ気にしてるみたいでしょ」
「気にしてるんじゃないの?」
「気にしてないよ」
「さっきから、それだけは何回も言うね」
美咲に指摘され、琴音は口を閉じた。
栞は会話へ割り込まず、紙パックの側面についた水滴を指で拭っている。
「しおりんは、どう思う?」
「何を?」
「私、変かな」
「何とも思っていない相手と手をつないでも、翌日まで何度も思い出すことは少ないと思う」
琴音は栞の方を見た。
「それって」
「その先は、琴音が考えることでしょ」
栞はそこで話を切り、紅茶を飲んだ。
答えを言われなかったことに、少しだけ安心した。
美咲が頬杖をつく。
「でも、高瀬君の方も何とも思ってないとは限らないんじゃない?」
「颯馬は普通だったよ」
「どんなふうに?」
「朝、廊下で会ったら、おはようって」
「それだけ?」
「それだけ」
「琴音の手は見てなかった?」
「見るわけないでしょ」
「琴音は見たのに?」
「見てないよ」
「自分の右手は見てた」
「ミサ」
美咲は笑いながら自分の弁当へ戻った。
「ごめんって。でも、琴音がこういう話をするの、珍しいから」
「相談したつもりはないよ」
「じゃあ雑談?」
「そう」
「手をつないだ幼なじみのことを、朝から気にしてるっていう雑談?」
「もうこの話は終わり」
琴音はパンを少し大きくちぎり、口へ入れた。
美咲はそれ以上からかわなかった。
栞も会話へ割り込まず、紙パックの紅茶を飲んでいる。
昼休みは、まだ半分以上残っていた。
今日は颯馬の教室へ行く約束をしていない。
文化祭の準備も、相談することも、もう何もなかった。
以前は美咲や栞と昼を過ごしていた。今日もそのまま三人でいればいい。
それでも、颯馬が隣の机へ鞄を置いているかどうかだけは気になった。
「行かないの?」
美咲が尋ねる。
「どこへ?」
「高瀬君のところ」
「今日は行くって言ってないよ」
「行かないとも言ってないんでしょ」
琴音は残ったパンを袋へ戻した。
「今日は行かない」
「そう」
美咲はそれ以上尋ねなかった。
栞が別の話題を出す。
「文化祭の写真、今日から整理する」
「もう見られる?」
「全部は無理。撮影日時で分けるところから」
「私たちが写ってるのも?」
「たぶん何枚かある」
「しおりん、変なのは消してね」
「記録だから、選別が終わるまでは消さない」
「颯馬が変な顔してるのは?」
「それも残す」
「私には見せて」
「本人の前で見ればいいでしょ」
本人の前。
その言葉で、また颯馬の顔が浮かんだ。
文化祭当日の受付では、名前を呼ばれた。
校門の外まで追いかけてきた。
俺が琴音と回りたいから、と言った。
そうして、手を差し出した。
手をつないだことだけを思い出していたはずなのに、それより前の言葉まで続けて戻ってくる。
「琴音」
美咲に呼ばれ、顔を上げる。
「また止まってる」
「何が?」
「手」
右手には、パンを持ったままだった。
食べることも置くことも忘れていたらしい。
「本当に、疲れてるだけだから」
「そういうことにしておく」
美咲は深く追及しなかった。その代わり、琴音のサラダを見る。
「それだけで足りる?」
「大丈夫」
「高瀬君に見つかったら言われそう」
「何を?」
「昼が少ないって」
「言うと思う」
「少し嬉しそう」
「普通だよ」
琴音は残ったパンを袋へ戻し、弁当箱を包み直した。
今度は結び目を一度で作る。
「写真のこと、颯馬にも伝えておく」
「まだ整理できてないよ」
栞が言う。
「整理を始めることだけ」
「理由を作らなくても、話しかければいいんじゃない?」
「理由じゃないよ」
琴音は弁当箱を鞄へ入れ、椅子から立ち上がった。
「颯馬に関係あることだから、伝えるだけ」
「今から?」
「昼休みが終わる前に戻ればいいでしょ」
美咲と栞は顔を見合わせなかった。
そのことに少し安心しながら、琴音は教室を出た。
廊下には、昼食を終えた生徒が増え始めている。
颯馬が昨日のことを覚えているのか、聞くつもりはなかった。
手をつないだことも、追いかけてきた理由も、何も確かめない。
写真のことを伝えるだけ。
そう言い聞かせ、颯馬の教室へ向かう。
廊下を半分ほど進んだところで、昼休みの終わりを知らせる予鈴が鳴った。
周囲の生徒が、それぞれの教室へ戻り始める。
琴音も足を止めた。
颯馬の教室は、廊下の先に見えている。
今から行っても、話せるのはほんの少しだけだろう。
「放課後でいいか」
誰に聞かせるでもなくつぶやき、琴音は来た道を戻った。
急ぐ必要はない。
文化祭は終わっても、颯馬と話す理由までなくなったわけではなかった。




