30.リーベンタールの教え
エミリア様から放たれる圧に、私は気圧されていた。
「ごめんね、リカ」
そう言ってドレスの袖で私の顔を拭おうとする。
「ダメです、エミリア様。エプロンがありますから」
「そう?本当にごめんなさい。ちゃんと守ってあげられなくて……」
先ほど怒っていたのが嘘のように、元のエミリア様に戻った。
今まで散々バカにされてきたのに、なぜ急にエミリア様は怒ったのだろう。碌に口答えできずヘラヘラと困ったような顔をしていたのに。
今日だって途中までそんな感じで、またかと私は思っていた。大公夫人としての教育をしてきたけれど、結局なんの意味もなかったとがっかりしたところで……
そういえば、前回ニコラ様と会った時も、私がバカにされた時は言い返そうとしてくれていた。
(もしかして、この人は人の為になら怒れる人なのかもしれない)
自分は傷つけられても良いけれど、大切な人が傷つけられるのは我慢ならない人なんだ。
私も異国人として今まで散々バカにされてきた。
実力を付けて見返そうと思ってきたけれど、人のために何かできるほど強くはなれていないかもしれない。
「エミリア様、いえ、奥様。ありがとうございます」
泥の汚れをすっかり拭き取った私がお礼を言うと奥様は困ったように笑った。
「そんなに気を遣わなくていいって言ったの忘れたの?今更奥様なんて、息が詰まるわ」
私は、エミリア様のこういうところが好きだった。
*
中に入ると、ロビーでお父様が待っていた。
家の中はひどいものだった。歩くたびに絨毯から埃が舞い、照明も汚れで薄暗く感じた。
しんと静まり返っていて、人の気配がない。使用人がほとんど辞めさせられたのだ。
食堂では、哀れっぽくお母様がテーブルを拭いていた。
「エミリア……!よく帰って来てくれたわね!」
待っていたわ!!!と歓待してくれる。お母様が今まで私にこんな顔を見せたことがあっただろうか。
「そこに座りなさい、エミリア」
お父様の声は硬い。
席にはすでにエリーゼ姉様が座っていた。お母様も席に着く。
私も席に着くと、お父様が話し始めた。
「見ての通り、我がリーベンタール家は未曾有の危機に瀕している。エミリア、お前が役に立つ時が来た。大公様に資金を援助するように言いなさい」
「お断りします」
「断る権限などお前にない。これは命令だ」
「あなたには、私に指図する権限はございません」
ピシャリと私は言い放った。
「いつからそんな口を利くようになったのだ!」
「リーベンタール伯爵、私が大公夫人であることはお分かりですか?」
「貴様!!!誰が嫁がせてやったと思っている!!!」
「あなたが嫁がせました。そして私は大公夫人となりました」
ギリギリと歯軋りする音が聞こえるようだった。
「この家でずっと役立たずとして生きていたくせに、偉そうにするな!」
「私はヴォルトブルグ家に嫁いだ身です。もう伯爵令嬢ではありません。」
私は初めてお父様を正面から見た。
「私はエミリア・ヴォルトブルグ。バーデン大公夫人です。リーベンタール家と何の関わりもございません」
出された紅茶に手も付けず、私は立ちあがろうとした。
「待って!!!」
金切り声をあげ、涙を流しながらお母様が追い縋ってきた。
「ごめんなさいエミリア。もっと優しくしてあげれば良かった。母として情けなかったわね。今からでも何かできることはない?」
「もう何もありません。……もっと早くその言葉を聞きたかったわ」
ショックを受けたお母様の顔はひどいものだった。涙で化粧が崩れている。
「ごめんなさい」と謝り続けるのを聞かないフリをした。
「エミリア!お前は今や役立たずなどではない!!!大公夫人として我が家を救ってくれ!!!頼む!!!」
お父様が急に下手に出てきた。
悲しかった。ここまで醜い人だと思わなかった。私はこの人は曲がりなりにも自らの力で領地経営をし、家を支えているところを凄いと思っていた。
だから、役立たずと言われても仕方ないと思ってきたのに。
「もう話は終わりです」
私が冷たく言い放つと、お父様が焦る。
「おい!エリーゼ!!!お前からも何か言え!!!現領主として頭を下げなさい!!!」
それを聞いたエリーゼ姉様がすっくと立ち上がった。
彼女の目は、以前と変わらなかった。私の事を睨んでいた。
ひどくプライドを傷つけられ、悔しさで震えている。
お母様が私を止めようと縋り付く。
お父様が土下座をするように謝ってくる。
混沌を極めていた。
薄暗い部屋も、汚れたテーブルクロスも、なんの音もしないキッチンも。
全てがおかしくて、何もかも変わってしまって、現実感がない。
もう取り返しがつかない状況になっていた。
左手に輝く指輪だけが現実を思い出させてくれる。
帰ろう、この人達を振り切って。
帰ろう、フリードリヒ様の元へ。
私の居場所はもうここにはない。
「お母様、どいて……」
リカがお母様を懸命に引き剥がそうとする。
立ち上がったお姉様が、ついにこちらへ来た。
彼女の言葉を最後に聞いて帰ろうと思った。
「出ていきなさい」
「な、何を言っているんだ!エリーゼ!!!大公夫人に向かって……!!!」
「出て行きなさい、エミリア。あなたの居場所はここではありません」
「お前!!!家のためになるように今まで散々教えてきただろうが……!」
「家のために貢献しなさい。くれぐれも、大公様にご迷惑をおかけしないように」
「エリーゼ!!!」
お父様が吠える。
「家のために役に立つ。それが我が家の教えです」
「お姉様……」
お父様はついに何も言わなくなった。
滅びゆく家で、唯一エリーゼ姉様だけが誇りを持っていた。
それがこの家を衰退させたと思うと悲しかったが、彼女だけが最後まで何も変わらずこの家にいた。
お姉様は人にも自分にも厳しい人だった。だから私のことも見下していた。
彼女からすれば、私は家のために努力しない落ちこぼれの役立たずだった。
お姉様の顔はもう冷たくなかった。暖かくもなかったが、見下すような目ではなかった。
(認められたんだ、お姉様に)
私を自らの家のために努力し役に立つ人間であると認めたのだ。
「次に会うときは大公夫人です。もうあなたは妹ではない」
高すぎるプライド。
エリーゼ姉様は頑として謝らず、追い縋ることもなかった。
31話はエピローグです。




