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5話(1)

 日が傾くと、家の中の空気は更に冷えて行く。それなのにアリジスは、額に脂汗を浮かべ、時にうめき声を上げて、痛みに顔をしかめて横たわっていた。たちの悪い子供たちに怪我をさせられた後すぐに、周囲の大人の手を借りて自宅まで運びこんで貰った。近所の人が気を利かせて、慌てて医者を呼びに行ってくれた。訪れた白髪交じりの医者は、アリジスを診た後で、落ち着いた声で

「肋骨が折れているかもしれません。幅広い布があったら、少しきつめに巻いておくと良いでしょう。触ると熱もあるし、全身の打ち身が酷いので、安静にしている事が大切です。水分は十分にとらせてください。それから……」

など様々な注意をして帰って行った。

 家族だけになり、重苦しい沈黙の時間が続く。それを破ったのは、お父さんだった。

「ちょっと出掛けてくる」

その表情は、今迄見たことの無い厳しいものだった。

残されたお母さんと私は二人きりで、赤い目をして座っていた。痛みに苦しむアリジスの額を水で濡らした布で汗を拭い、熱をもった部位を冷やす。布が濡れ過ぎていると体が冷え切ってしまうので、適度に絞らなくてはならないが、非力な私には丁度良い加減で絞る事は出来ない。

(こんな事すらできなくて、本当に情けない)

そう思うと、一層悲しくなる。水を飲ませた方が良いと言われたので、お母さんが水を口元まで運んであげる。余程喉が渇いていたのだろう、アリジスが勢いよく飲もうとして、間違ってムセてしまった。

「痛い・痛いよ」

激しく咳き込んで、胸の痛みが、益々強くなってしまい、アリジスは涙を流しながら悶絶してしまう。

「どうしよう。ごめんなさい、ごめんなさい……」

お母さんは大粒の涙を流しながら、咳が治まるまで謝り続けた。その痛々しい姿を見て、私も一緒に、小さな声を上げて泣いてしまう。何も出来ない自分は、本当に役立たずだと痛感していた。

 やがて彼は寝息を立て始めた。痛みが多少落ち着くと共に、疲れてしまったのだろう。そんな中お母さんは、アリジスの手を握り続けていたが、その瞳から涙が消えることは無かった。

 どれくらい時間が経ったのだろう。お父さんが帰宅して、寝ているアリジスの元にやってきた。お母さんはお父さんの方に頭を下げて、震える唇を動かした。

「御免なさい。私が眼を離して子供達だけにしたから……みんな私のせいなんです。何かあったら、もう私は生きていけない」

自分の不注意で起きてしまった事だと思って、どんなに自分を責めても足りないのだろう。そんな言葉を聞いてお父さんは、首を横に振った。そしてお母さんを抱き寄せて、優しく話しかけていた。。

「普通なら、ああいった事が起きる場所ではないし、相手も子供だから、まさかと思うのは解るよ。それに、今自分を責めても仕方が無いよ。そんな事を言ったら、いつも子供の面倒を任せきりにしている僕にも、大きな責任はあるんだ。全部背負い込まなくても良いんだよ」

お母さんは、お父さんの顔を見上げたかと思うと、すぐに俯いてしまった。

「今は、この時に出来る事だけを考えようね」

それを聞くと今度は、お母さんは何度もうなづきながらお父さんの腕の中で、声を忍ばせて泣き崩れていた。

 夜の足は近づくのは速く、通り過ぎる時はゆっくりである。灯火が揺らめいて影を踊らせている。油は貴重品で、こんな夜更けまで使う事は滅多に無い。でも今は、全てを惜しんでいる時では無かった。アリジスは寝ていたかと思うと、痛いと言いながら薄目を開けるという事を繰り返していた。幸いにも熱は下がっていた。

 お父さんは、明日も仕事があるので、それに備えて別室で休んでいた。本当は付き添いたいと言ったのだが、お母さんに

「明日も高い所での作業があるんでしょう?だったら、十分に寝ておかないと危ないわ。絶対に大丈夫という事は無いんだから、私を悲しませる様な事はしないで!」

そう言われては、別室に引きこもらざるを得なかったのだった。

 薄暗い中でアリジスを見つめる、お母さんの目はどんよりとしている。顔色が青白く見えるのは、泣く事と看病で疲れたせいだろう。その隣で私も横になっていた。とても疲れていたが、目がさえて眠るどころでは無かった。お母さんと同じく、私も無言で、彼を見つめていた。

(そもそも一番悪いのは、あの男の子たちなのに、なんで私達の家族が苦しまなければならないのだろう)

そう考えると、悲しさと同時に悔しさや怒りがこみ上げ、思わず拳を握ってしまう。そんな事を何度も考えるうちに、ふと気が付く。

(あの子供達が狙ったのはアリジスじゃ無くて、私の筈だったわ。それを、かばって貰ったばかりに怪我をしてしまったのじゃ無かった?)

そう思うと、目の前で苦しむアリジスの姿を見て、ますます胸が苦しくなってくる。

(体の大きな自分は全くの無傷で、代わりに小さな彼が、大けがをしてしまった……)

自分を責める考えは、私の中で少しづつ大きくなって行く。

(私がいなければ、こんな目にあうことは無かったのじゃないの?)

その考えに至った時、今までの自分の身の周りで起こった不幸な事が、次々と思い出されてくる。あれだけ可愛がってくれた本当の両親は、火事で命を落としてしまった。私の事を家で待っていたのかもしれない。どれだけ、熱くて苦しい思いをしたのだろうか……その後で今のお父さんは、私と出会ってしまったばかりに、意地悪な親戚に殴られる羽目になった。あの時も、私の身代わりとなってしまったのだった。そして今、本来私が受けるべきだった痛みと戦っている彼が、目の前にいる。思わず背筋が寒くなる。自分を大切にしてくれる人が立て続けに、不幸に見舞われている事を改めて思い知ったからだった。

(私がいると悪いことが起きるんだ……)

一度そう考えると、黒い想いは止まらなくなってしまう。悪いことを呼び込むだけでなく、自分の身代わりとなって周りの人が傷つき、次々と倒れてしまっているという現実があった。頭の中でグルグルとまとまらないそんな考えは、私の心を削り取って行く。訪れる不幸の芯の部分に自分がいるのだという、そんな想いは、いつの間にか口から漏れ出る。

「お母さんは悪くないの。私がいけないの……ごめんなさい。私がいなければ、こんな事は無かったの。生まれてこなければ良かったのに。本当にごめんなさい。ごめんなさい……」

お母さんは、目を見開き驚いて、私の顔を覗き込んだ。私はもう一度繰り返した。

「私がいて、ごめんなさい」

そう言い終わるや否や、お母さんに抱きすくめられる。

「そんな事言わないで!違うのよ!」

「でも……私がいなければ、からかわれる事もなかったし、代わりに怪我をしなかったはずだから……私さえいなければ……」

「ネイ、そんなこと言わないで!アリジスもネイも、何も悪くないのよ……母親である私こそ……」

気が付くと、頭上から涙の雨が降っていた。互いにそれ以上は言葉にはならなかった。そして二人で抱き合い、共に泣き続けた。

 アリジスの熱が、再び上がる事はなかった。お母さんは少し安心したのだろう、うつらうつらと微睡んでいた。溜息をついて私は考える。まだ日は短いけれど、家族として一緒に過ごした日々は本当に楽しかった。優しさ、温かさを自分に与えてくれた。自分が出来なかった事が出来るように導いてくれた。だからこそ、この大好きな家族を巻き込んでしまっている事が、本当に苦しい。

(このまま私が一緒に暮らしていれば、また必ず、悪い事を呼び込んでしまう。私以外の誰かがまた、傷ついてしまう。これ以上巻き込んで、苦しめてはダメ……)

今私には何が出来るのだろう。故郷であるコーミーで、今は亡き父母と一緒に灰になってしまえば良かったのかもしれない。もし生き延びたのだとしても、あの家から脱げ出さなければ良かったのかもしれない。あの夜「命を奪うか、売り飛ばす」と言われたが、その運命に従っていれば、今こうやって迷惑を掛けなかった。故郷の道端で、お父さんに助けられず干からびていれば、みんなが苦しむ事は無かったに違いない。そんな後ろ向きの考えが心の中で、広がって行く。それはまるで、夜の暗闇が部屋に広がって行くのと同じような気がした。

(今からでも私が居なくなればいいんだ。そうすればきっと、悪いことは無くなる。自分は、あの時に戻るだけなんだから……)

幸せを知ってしまった今、それほど辛い決断は無かった。でも、大好きな人が次々と倒れて行くのは許されないと思う。私は、唇をかみしめる。私が家から消え去ろうとすれば、お母さんは必ず引き留めるだろう。お母さんが、眠りの誘惑に負けている姿を確認すると、心を決めた。

(自分がいなくなるには、お母さんが気が付いていない今しか無いわ……)

本当に悲しい事だけれども、仕方がない事だと思う。ただ一つだけ、アリジスを自分のせいで傷つけてしまった事を、十分に謝って無かった事だけが心残りだった。楽しかった日々を与えてくれた、そして、家族であることの喜びを分かち合っていた彼との別れはつらい。そのまま立ち去るべきがどうか、しばらく躊躇っていたが、意を決して寝ている彼の耳元で、小声でささやいた。

「ごめんね。私のせいで痛い思いをさせて。いつまでも一緒にいたかったけど、私がいると必ず悪いことが起きるわ。だから……さようなら。本当にありがとう。大好きだったわ」

胸が痛かった。失くしてしまったと思った愛情を、もう一度知ってしまうと、それを再び

失うほど辛い物はない事を、この時に初めて知った。そんな皆から貰った温かく優しい気持ちだけでなく、私自信が持っている家族への想いも、振り捨てて行かなければならないという現実。流れる涙の鎖は、消え行こうとする自分をこの場に縛り付けようとしている。でも固い決意の刃で、これを断ち切らなければならない。

(このままじゃダメだ)

そう思って立ち上がろうとした。だが何故か抵抗を感じる。服の裾が引っ張られていたのだ。ふと見ると、アリジスが私の服の裾を掴んでいる。その力は、見るからに弱々しい。

「ダメ……行っちゃダメ。一人にしないで。どこにも行かないで、ここにいて」

痛みに耐え、消え入りそうな声。私を見上げる瞳は濡れていた。それは痛みによるものでは無い、別の思いが込められているのが解る。そんな姿を見せられてしまっては、無理に振り捨てて行ける人はいないだろう。それでも、家族に呪いをかけるような私の存在を、この大切な家にとどめておくことはできないとも思う。

「アリジス……私がいると、みんなに悪いことが起こるの。だから居ない方がいいの」

私の本心を、彼に伝えなくてはならないと思った。けれど、その言葉に彼は首を横に振り、悲しい顔をした。そして、数回の荒い呼吸をしてから、彼は再度口を開いた。

「お願い、そばにいて……。どこにも行かないで。ネイがいなくなったら、僕はきっと死んじゃうよ……」

顔をしかめながらも、裾を掴んで決して離そうとはしない。そう言われてしまっては、動くことは出来ない。

(どうしたら良いの……)

困ってしまい、私はペタリと座り込んでしまう。彼はまだ、私の服の裾を握ったままだった。そして

「どこにも行かないで」

と、もう一度繰り返す。そこまでの彼の願いを振り切って、家を出て行くことはできないと思った。

「わかったわ。どこにも行かない……」

私はそう告げると、裾を掴んでいる彼の指を、そっとほどいた。そして

「もう行かないから」

そう繰り返し、彼から離れない証として指を絡ませた。彼は、安心したように、目を閉じたまま少しだけ笑みを浮かべた。

 動く事も話す事もしない、二人だけの時間が流れて行く。薄暗い中で暫く彼を見つめているうちにふと、引き止めてもらった事を心のどこかで喜んでいる自分がいる事に驚いた。

(ついさっきまで、自分はこの世から消えてしまえば良いと思っていたのに……本当は私も生きて、この家族と暮らしていきたいんだ。それにもしかすると、もう悪い事は起きないかもしれないし、そうあって欲しい…)

そういう小さな希望と期待が残っていたことに気が付いたのだ。誰かに止めて貰いたかった自分が、心の片隅にひっそりと眠っていたのだと気づかされた。

(今はアリジスのために、ここに残ろう)

瞬く灯火が作る私たちの影は、ユラユラと時を描いている。それは、引き留めて貰って嬉しいという気持ちと、それで良いのだろうかという揺れる思いと似ていた。そのまま夜は更けていった。

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