第6話:情報屋は、銀の重箱の値段を知っている
私の大好きな食べ物は点心です。そして何より、この物語を読んでくださる読者の皆様に、心から感謝申し上げます。
セシリアの「毎日の弁当」が始まって、一週間が過ぎた。
初日はハンバーグ。
二日目は、香草をまぶした魔鶏のロースト。
三日目は、白身魚のムニエルに、瞬間凍結で作ったレモンのシャーベットが添えられていた。
四日目の卵のサンドイッチは、パンの耳まで妥協なく、ふわふわに仕上がっていた。
五日目の金曜には、焼き魚と根菜の煮物という、渋くて素朴な献立まで登場した。
毎回、中庭の柵の向こうで、ブラムが涙を流しながらこちらを眺めている。
見かねて一切れ分けてやったら、
「これは人生が変わる味だ」
と膝から崩れ落ちた。
大げさな奴だ。
***
俺の感想戦も、少しずつ進化している。
図書室で借りた『食材と味覚の語彙辞典』のおかげで、「しっとり」「香ばしい」「後を引く」といった単語を使えるようになった。
セシリアは毎回、革のノートに俺の言葉をすべて書き留めている。
この前、ちらりと見えた項目名は『レナード語録・第十二集』だった。
変化は他にもあった。
俺は朝、自然に目が覚めるようになった。
夜は、研究が長引いても、
「弁当のために、明日は早く起きたい」
という謎の意識が働いて、日付が変わる前に寝るようになった。
おかげで魔力の巡りが、驚くほどいい。
「……レナード。貴方、最近、絶好調ではありませんこと?」
木曜の昼。
欅の下で、セシリアが疑わしげに目を細めた。
「そうか? 確かに、頭は軽いな」
「今朝の簡易測定で、貴方の魔力指数、また〇・三点伸びていました。差は、〇・九点にまで開いています!」
「ああ、それは……」
「わたくしが作った料理で、ライバルの序列を押し上げてどうしますの! 本末転倒ですわ!」
彼女は悔しそうに拳を握りしめた。
けれど、決して弁当を作るのをやめようとはしない。
彼女の矛盾に、俺は気づかないふりをして、出汁巻き卵を頬張った。
***
そんな平和な昼休みに、異変は、思わぬところからやってきた。
「よう、レナード。ちょっといいか」
食後の教室で、ケイレンが声をかけてきた。
革のノートを小脇に抱え、榛色の瞳がいつもより一段、ぎらぎらしている。
「何だ」
「学院中で、面白い噂が三つ流れてる。一つ目、『アストレア公爵家がレナードを毒殺しようとしている』」
「毒? 毎日うまいものを食わされてるのにか」
「二つ目、『レナードが公爵家のシェフを個人契約で雇った』」
「雇えるほどの金は、ない」
「そして三つ目」
ケイレンは、ここで声を潜めた。
「『二人は、こっそり付き合っている』」
「付き合ってはいない。あいつはただの、毎日弁当をくれるライバルだ」
「だから、それを世間では、な」
ケイレンは天を仰いだ。
何かを飲み込むような、切実な表情だった。
「まあいい。俺は情報屋だ。事実の確認をしたい。ちなみに『序列一位の意外な食卓』の記事は、上手く売れば銀貨三十枚にはなる」
「売るな」
「冗談だよ、半分は。で、その弁当箱、ちょっと見せてくれ」
机の上にあった銀の重箱を、俺は素直に差し出した。
ケイレンは白い手袋をはめ、それを手のひらに載せ、光にかざした。
じっと観察して、一分。
それから、ゆっくりと、顔を上げた。
「レナード。これ、値段を知ってるか」
「知らない」
「王都の名匠、ミルドレッド工房の一点物だ。蓋に彫られてる紋様は、アストレア家の家紋。だが見てみろ、この縁の部分」
彼が指さした先には、極小の文字で、何かが彫り込まれていた。
目を凝らして読む。
『L.V.』
「……俺の、イニシャルか」
「予備の箱と、取り違えないための目印だろ」
「お前ってやつは……本当に」
ケイレンは眉間を押さえて、深く長いため息をついた。
「そうだ、と言いたいところだが。しかも、この彫りは既製品じゃない。彼女は、貴族のお抱え細工師に、わざわざ特注したんだ。金額にして、この学院の年間授業料の半分くらいかな」
「そんなに!?」
俺は思わず、重箱を両手で持ち直した。
手の中の温かさが、急に恐ろしく重く感じられる。
「貴族が平民に、これだけの品を、毎日惜しげもなく貸してるんだぞ。ただの『余り物の処理』でこの投資はあり得ない。俺は情報屋の勘として、これは相当、特別な」
「ケイレン・ソーン」
氷のように冷たい声が、教室の入口から響いた。
ケイレンの背筋が、ぴんと伸びる。
振り返ると、腕組みをしたセシリアが、氷点下の視線で立っていた。
手にはいつもの扇。
だが今日は、閉じたそれが、まるで抜き身の剣のように見える。
「ひっ、これはこれは、アストレア様。ご機嫌麗しく」
「わたくしの重箱に、何か、ご用ですの」
「いえ、ただの、学術的な興味で」
「貴方のノートに、今、何が書いてあるのか。見せていただけるかしら」
「そ、それは企業秘密で」
「そう。では、燃やしましょう」
セシリアの指先に、小さな炎が灯る。
ケイレンが、革のノートを胸に抱きしめて後ずさった。
「待って待って、待ってください! 誤解です! 俺は、事実を正確に、世間に広めようとしているだけで」
「事実、ですって?」
「はい。『アストレア様とヴァンスは、序列一位と二位として、美食魔法の共同研究を行っている』。これが、公式見解ということでどうでしょう」
セシリアの炎が、ぴたりと止まった。
「……共同、研究」
「はい。研究、です。あくまで」
「悪くありませんわね」
彼女はゆっくりと扇を開き、口元を隠した。
目だけが、満足そうに細まっている。
「良いでしょう。その方向で、広めて差し上げなさい。ただし、余計な脚色は不要ですわよ」
「もちろんです!」
情報屋は、九十度のお辞儀を残して、教室から一目散に退散した。
その背中を見送りながら、俺は小さく息を吐いた。
「あいつ、なんで急に怯えたんだ」
「貴方が、鈍感すぎるからですわ!」
「鈍感? 何にだ」
「もう結構です!」
セシリアはそっぽを向いてしまった。
そのくせ、去り際に、俺の手の中の重箱をちらりと見て、小声で言い添えた。
「……その箱、大切に、扱いなさい。落としたら、承知しませんわよ」
「ああ。気をつける」
***
その日の午後、俺は研究棟に籠もり、昼の弁当をつい放置してしまった。
気づいたのは夕方。
蓋を開けると、料理はすっかり冷めていた。
それでも一口食べて、俺は思ったままを、翌日、彼女に報告した。
「少し、冷めてた。でも、うまかった」
「冷めて……いた……?」
セシリアの琥珀色の瞳に、何かが、めらりと燃え上がるのが見えた。
「許せませんわ」
「弁当の温度管理という、盲点を見逃しておりました。今夜から、新しい術式の研究に入ります」
その夜、彼女は魔導図書室の閲覧席に陣取り、保温陣と保存陣に関する論文を五本、一気に借りていったらしい。
翌日、ケイレンがそう教えてくれた。
ついでに、
「あの人は本気だ」
とも。
……どうやら明日から、俺の弁当箱は、さらに強化されるらしい。
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