三十五話
「あ、その前に本を読ませてもらってもいいかい?」
拍子抜けもいいところだ。
アノーに殴りかかったティリアを責める者はきっといないだろう。僕も殴りたかったし。雪葉さんも拳を握りしめているし。
「いだっ! 痛いよっ!?」
「殴ってるんだから当然よ!」
「あー、今のでど忘れしちゃったなぁ。その本を読めば思い出す気がするけどなぁ……」
殴られた頬をさすりながら、アノーが指差したのは浩次の持つあの本。
僕達は、ティリアの堪忍袋の緒が切れるのを聞いた。
「やっぱり、読みたいだけでしょうがぁぁぁぁー!」
「ぐはっ!」
アノーの体は黒こげの本棚に突っ込み、少ししてからよろよろと這い出てきた。
「やれやれ、今日は散々な目に遭ってる気がするなぁ……」
そう言いながらアノーは頬を摩りながら立ち上がった。
そして僕らに向き直って面倒くさそうな顔をしながらため息を吐いた。
「それで精霊から人間に戻る方法だっけ? そんなの簡単じゃないか」
「! 本当か?」
「話を聞く限りでは誰も犠牲にせずに君を人間に戻して……全てを元通りにすれば君達は何の不満もないわけだ。そうだろう?」
「ああ。……でも、そんな方法、本当にあるのか?」
クスリ、とアノーが笑い、口元をつり上げる。
その笑みを僕は知っていた。
その笑みはあの時と同じ笑みだと。
あの時──おっさんが僕に身代わりの話を出した時の、悪魔にも似た笑み。
アノーが笑みはまさしくそれだった。
僕は咄嗟に「やめろ」と言おうとした。
だけどアノーはティリアを指差し、既にその言葉を口にしていた。
「願いでティリアを身代わりにすればいい。──そうすれば、全て解決だ」
※※
あまりの事に誰も口を開く事が出来なかった。
僕も、雪菜さんも、ティリアも、浩次も、冷静な神子川でさえも。
皆、呆然とし、言葉を発する事が出来ないでいる。
そんな中、アノーは追い打ちをかけるように言葉を並べる。
「君達だって身代わりの事は分かってたんじゃないの? なら、元々精霊であるティリアを身代わりにする事くらい誰かが言い出さなかったの? それとも思いつきもしなかった? ……そんなわけないよねぇ」
やめろ。やめてくれ。
必死に心の中で聞こえてないフリをしながら、僕はやっとの思いで声を振り絞り、アノーに訊ねた。
「他に……方法はないのか?」
「うん、ないね。少なくても、自分は他の方法を知らないよ」
さらりとアノーが言い、場の空気が更に重くなった。
……何だよこれ。何なんだよ、これは。
ふざけるな、おかしいだろ、とかそんな言葉を僕は叫びたかった。
皆僕に協力してくれて、やっと思いでここまで来て、方法があると期待して……。
そして──結局は選ぶ事のなかった選択肢をまた目の前に突きつけられた。
こんなのって……こんなのってあるか。
きしりと胸が痛んだ。
まるでいきなり深い谷底に突き落とされたかのような感覚だった。
「ティリアは元精霊だ。君達がランプを開くまでティリアはずっと封印されていた。なら、もう一度封印したって何の問題はないよね? 精霊なんて、元々君達とは何の関わりも関係もないんだからさ」
同じ言葉に、同じ台詞。
僕はこれを聞くのは二度目だった。
だけど一度目と同じくらい……いや苦労をした分、一度目以上に僕は絶望を味わった。
それしかない。それ以外ない。
そんなふうに見えない誰かに言われているようだった。
……僕は本当に選ばなきゃいけないんだろうか。
そんな風に僕が苦悩している時だった。
「そんなの……嫌に決まってるじゃないですかっ!」
雪菜さんが涙目になりながら、叫んだ。
「ティリアさんを犠牲にするなんて、そんなの嫌です! 出来ません!」
叫ぶ雪葉さんを見て、ティリアは「雪葉……」と呟き、アノーは鼻で笑った。
「優しいね。じゃあ、彼が精霊になってランプに閉じ込められてもいいって言うのかい?」
「そ、そういうわけじゃ……!」
「でも、そういうことでしょ? 君の言ってることはさ」
「別の方法を探して……」
「だから、言ってるでしょ。他に方法はないってさ。全部全部ハッピーエンド。──現実はそんなに甘くないんだよ」
アノーの放ったその言葉はずっしりと重く、雪葉さんを黙らせるには十分だった。浩次はギュッと拳を握っており、神子川は下唇を噛んでいた。部屋の中はシンと静かになり、誰も話す気になれなかった。
その沈黙を破ったのはティリアだった。
「……いいわ」
「ティリア?」
「その方法、実行してちょうだい」
ティリアのその発言に、雪葉さんは息を飲み、浩次は俯き、神子川は目を見開いた。
僕はただじっと、ティリアを見つめていた。
見つめている事しか……出来なかった。
「お、乗り気だね」
「……ええ。アノー、あなたの言う通りよ。私がもう一度、精霊になって閉じ込められても何の問題もない。それが最善策だわ」
「ティリア……」
何を言えば分からなくて、最終的には名を呼ぶことしかできなかった。
ティリアが僕の方を向いて、笑う。その笑顔は今まで見てきた中で一番綺麗で、悲しそうだった。
「もう、ブサイクな顔しちゃって……そんな顔しないでよ。別に無理して言ってないわ。自分を卑下してるわけでもないわ。ただ外に出て、あなたの周りで過ごしてみて、素直に感じたの。あなたはこの世界に必要なんだ、って」
ティリアは真っ直ぐに、僕を見つめていた。
「あなたは見ず知らずの私を文句を言いながらも面倒みてくれた。とても、優しいわ。それだけじゃない。ここにいる皆は、あなたを助けるためにここに来てくれている。あなたは信用されているの。そして、あなたはその皆にこれから感謝して、恩返ししないといけないのよ」




