閑話・屈強少年奇譚
力というものは厄介だ。全く厄介だ。力なんて使う人次第だ、なんて言葉もよく耳にはするがはっきり言って同意しかねる。
何故と言えば、力をつけた者というのはほとんど例外なくそれを発揮したがるからだ。つまるところ、他人にそれをぶつけてみたくなるというわけだ。
格闘技を習う者の中で、暴力を振るいたい欲求を抑え切れなくなる者が出るのは珍しくない。俺の過去の友人にもそんな連中は沢山いた。だから使う人間次第なんて言葉はどうにも無責任に感じる。
まあなんにしても、柔道部に所属している俺の言えたことではないのかも知れないが。いや、柔道部だからこそきちんとそれを認識して、言葉にするべきなのかも知れない。しかし柔道を始めた動機が動機である。どうもその辺を意識すると俺の声も尻窄みになる。
俺が柔道を始めた切っ掛けは正義のヒーローになりたかったからだ。子供染みていて笑えるが、柔道を始めた時分、実際俺は子供だったのだから仕方がない。今でこそ大会で好成績を残すことを目的としているが、子供の頃は本気だった。
ともかく俺は正義感から柔道を始めたのだ。これは正直いただけない。だって力で守れるものなど何もないのだから。俺たちを、俺たちの大切な人を守ってくれているのは腕力ではなく法律と国家権力だ。怪人を倒す為のに腕力なんて必要ない。一一〇番さえあれば充分なのだ。それに気付いたときの俺の心に沸き起こった虚しさたるや。きっとこの虚しさを感じてアウトローに身を落とす者もいるのだろう。
だから胸を張って使う人次第だとは言えない。正義を振りかざして暴力を振るうことと、悪意を振りかざして暴力を振るうことは同じようなものだ。いや、ともすれば正義の方が厄介であるのかもしれない。押し付けるだけの正義は悪よりも小汚い。
嗚呼、ナーヴァスだ。
俺は愛宕橋の欄干に腕を乗せながら項垂れた。
完全に変人だろう。大体、変人以前にこんな所で黄昏れているのは迷惑極まりない行為だ。幸い人通りも少なく車もほとんど通っていないから人目にはつかないが、それでもやはり迷惑行為だということに変わりはない。
こんな無様をあの人に見られたらどうしよう。あの精悍な、俺の尊敬する先輩。「力は愛する為にある」と恥ずかし気もなく大真面目に言ってのけた、あの最高にカッコいい先輩。彼女は空手部だったが、同じ、力を持つ者として俺はあの人を尊敬していた。いや、今でも尊敬している。
そんな彼女にこんな姿を見られたら死ねるな。
「早まってはいけません!」
突然に声をかけられた。驚いて欄干から飛び退く。
声の方を向くと、三つ編みを頭の両サイドから垂らしている女性がもの凄い剣幕で俺を睨みつけていた。
三つ編みというと、ファッションに疎い俺からすれば古風な髪型であるという認識なのだが、そうでもないのだろうか。
そして更に奇妙なことには、彼女は夏だというのに随分と厚着をしている。サマーセーター?
「若い命を散らすのはいけないことです!」
三つ編みの女性は言う。
「い、いや若い命は散りませんけど……」
面食らった俺はおずおずと彼女に応えた。
「え? そうなんですか?」
「はい。散りません」
「そうですかあ。嗚呼、よかった」
ホッと胸を撫で下ろす彼女。
「深刻な顔をしておられましたので、もしや自殺志願者ではと勘繰ってしまいました。ご無礼を」
「はあ。いや、こちらこそお騒がせしまして……」
丁寧過ぎるほど丁寧なので気後れしてしまう。
丁寧か。世咲さんを彷彿とさせるな。おっといけない。女性に緩んだ顔を見せるのはそれこそ失礼だ。
俺は世咲さんを想うと完全に恋する乙女状態になってしまう。全く悪い癖だ。
「浮かない顔です。わたくしでよければお話を聞きましょう。さあ」
さあ、と言われても。初対面の女性にいきなり悩みを打ち明けろというのは無理のある話である。
「いえ、大したことではないので」
「小さなことも積上れば大事です」
優しい人だ。冴木にも見習って欲しい。
「まあ、本当に大したことではないのですが」
と言いつつも彼女の気迫に圧されて話してしまう俺である。全く迂闊なことだ。しかしこんなことは知人に気軽に話せるものではないし、結局他人に話す以外に吐露の方法など思いつかないのも事実だ。
俺が神経質になっている理由は一つである。
今日、他校での合同練習が行われた際、次の団体試合で負けろと脅された。信じられないかも知れないが、こう言うことは確かにあるのだ。ただ、その脅し方と言うのが稚拙で、多勢で暴力を振るうだけという全くお粗末なものだった。
勿論その程度の脅しに屈するつもりはない。しかしこの出来事は俺の信じてきた誠意だとか正義だとか誠心だとか、そういう真心への理想を砕くものだった。
真心を持たない人間が存在するのはそりゃあ当然のことだ。俺だって何処で他人を裏切っているのか判ったものではないのだから。だがあれはあまりに露骨で卑劣で幼稚で、最早滑稽と言っていいほどみっともない。知性の伴わぬ謀略を仕掛ける人間が柔道に身を置いているというのは同じ柔道家として恥ずべきことで、俺は力というものが人を堕落させるのではないかと悶々としていたわけである。
「まあ、皆が皆良心を持たぬというわけではないので、そこまで落ち込むことでもないのですが……」
「酷いことをする人がいるものです」
「そうですね。他人に期待するのも間違ってはいないのでしょうが、相手次第、自分次第なのでしょう」
粗暴な人間に期待しても無駄である。
「力を持つものは堕落する、ですか。しかしあなたはそうではないのでしょう?」
「判りません。俺も他人を威圧しているかもしれません。このガタイですから、小さい子供などには怖がられます」
「しかし脅かしているわけではない。故意ではないのなら何の問題もないように思います」
まあそうなのだろう。俺の悩みなど俺の悩み以上のものではない。全体を自分と同一視するのは流石に行き過ぎなのだろう。コミュニティのなかには当然悪もある。
「そうですね。そう考えれば自分の悩みが一層小さなことであると思えてきました」
うむ。何だか自分を取り戻してきた。
「ありがとうございます! おかげで吹っ切れました!」
頭を下げる。
すると女性は驚いたように目を見開いた。大きな声を出し過ぎたか。
「た、立ち直りが唐突ですね」
「はい! それだけが取り柄ですから!」
脳みそ筋肉と言ってもらって構わない。でも脳みそだって引き締まっていた方がいいと俺は思うのだ。
「お礼をさせてください。俺もあなたのお役に立ちましょう! 出来る範囲ではありますが、微力ながら力をお貸しします!」
「は、はあ……」
完全に戸惑っている。いけない。こうやって一方的に捲し立ててしまうから相手を威圧してしまうのだ。悪い癖である。
「しかし、わたくしはあなたのお役に立てたでしょうか? あなたはわたくしが出しゃばらずとも一人で解決してしまったのでは?」
「いえいえ、俺は小さい男です。一人ではなかなか解決出来なかったでしょう! 試合まで悩み抜いて、集中力を欠いていたであろうことは明白です! 大変助かりました。ですから遠慮せず。さあ!」
「まあ、そこまで言うなら、聞いて頂きましょう」
彼女は微笑んだ。よかった。やはり女性は笑顔であるべきだ。どんな醜女も笑顔であれば美人になるとはお婆ちゃんの言であるが、これは至言であると俺は思う。笑顔の似合わぬ女性など存在しないのだ。
おっと話が逸れた彼女の話を聞かねば。
「わたくし、随分前からお付き合いしている男性がいるのですが、彼が暴力を振るうのです」
存外重かった。俺の手に負えるだろうか。
「しかし彼は優しい人です。ただちょっと神経質なだけなのです。障りを溜めやすい性癖があるというだけなのです。ですからわたくしとしては見守っていきたいところなのですが、どうも最近はわたくしの体も限界というか……」
見たところ外傷は見当たらないが、なるほど夏にも関わらず厚着をしているのはそういうわけか。体の方に暴力は向いている。
「嗚呼、いけませんね。やはりこんなことを人様に話すのはいけません。忘れてください」
彼女は頭を振る。
「いや、忘れません。それは警察に行った方がいいですよ。警察でなくても、専門の相談所なんかに持ち込んだ方がいいと思います」
「大事にはしたくないので」
ドメスティックバイオレンスを受けいている女性の典型的な反応だ。
「既に大事でしょう。暴力が日常化するなんて、それはもう異常です」
日常的に暴力を隣に置いている俺からすれば、彼女の置かれている状況はかなり危険なものだと思わざるを得ない。
「それに、あなたはこのままでは不幸に突っ込んでいくことになると判っているのでは?」
判らないはずがないだろう。暴力を振るう人間を酷い人だと言った彼女に、判っていないはずがない。
「ですが、わたくしは彼が好きなのです。愛しているのです。普段は優しい方なのですから……やはり相談するのも不毛でした。わたくしがこんなに頑ななのではあなたを困らせるだけですし」
確かに頑なだ。ならば、残酷ではあるが、一つ嫌な可能性を提示するしかないか。
「あなたが恋人を愛していても、恋人の方はどうでしょうか?」
「どういうことでしょう?」
「俺は全く色恋に疎いので、愛というものがどういうものかはよく判りません。しかし、一つだけ言えることが」
「なんでしょう?」
「あなたの恋人はカッとなって暴力を振るっているわけではない」
それはきっと間違いのないことだ。
「こんなことは言いたくないですが、恋人はあなたに暴力を振るいたいから振るっているのではないかと思うのです」
「何故そんなことが言えるんです?」
彼女は俺から目線を外す。思い当たる節があるのだろうか。
「あなたの顔に傷がないからです。日常的に突発的な暴力を受けているのだとしたら、あなたの恋人がいきなり激昂して暴力を振るう人間なのだとしたら、顔に傷がなければおかしい。きっとあなたの傷は服の中にあるのだろうと思います。体を狙った執拗な暴力というのは、それが露見することを避けるような冷静な人間のすることです」
追い詰められて、その末に切れる人間というのは見境がない。自分を見失ってしまうのだから顔も体もないのである。いや、むしろ容易に手の届く顔の方に手が出やすくなるのではないだろうか。
だから、体を狙う暴力とは冷静でなければ成立しない。
「あなたの恋人はそういう人間ではないでしょうか」
「そうですね。その可能性も考えないではありませんでした。顔に傷のないのは彼が暴力を振るう時、わたくしがうずくまってしまうからだと思いこんでいたこともありました」
一層体を縮める彼女。認めるのは辛かろう。
「それに腕の隙間から、彼がわたくしを蹴りながら笑っているのを見てしまったことだってあります。それも見間違いと思い込みました。彼が暴力を愉しむような人間であるはずなどないと。決定的であるのに、見てみぬ振りをしました」
彼女は目を伏せたままで言う。
自分より弱い人間に暴力を振るいながら笑う人間か。
怪人染みている。はっきり言ってまともじゃない。彼女は一刻も早く一一〇番をするべきだ。
「しかし、認める他ないのでしょう。いえ、既に認めておりました。それでも別れを切り出さなかったのは、わたくしが彼のことを諦め切れないからです。こればかりは仕様がありません」
「俺には仕様がないなんて思えません。どうすればいいかは判りませんが、とにかく恋人とは距離を置くべきでしょう」
俺が言うと、彼女はしばらく顎に手を当てて考えていた。思うところはあったのだろう。だからこそこんなことを話したのだ。やはり相談すべきは善良なる他人だ。自分が善良だとは少しばかり褒め過ぎかも知れないが、少なくとも俺に悪意はない。それだけは胸を張って言える。
「判りました。折角お話ししたのです。あなたの為に、わたくしも決心致しましょう」
やはり彼女は優しい。優しいが、自分が主体にならないことは危険かも知れない。それでは周りに振り回されてしまう。
とは言え、俺の言葉も無駄ではなかったようである。
「実はわたくし、自殺を決意してここに来たのです」
彼女は突然に剣呑な話を持ち出してきた。
俺は息を飲む。
「知っていますか? 最近この辺りの子供たちの間で五橋の七不思議なるものが流行っているのだそうです」
「は、はあ……」
七不思議。怖い話か。正直苦手だ。それが彼女の自殺とどう関係あるのだろうか。
「その中に愛宕橋の幽霊という話があります」
相槌を打つ。
「なんでも、ここで自殺した女性の霊なのだとか。彼女は自身の姿を見た人に微笑んで、橋の欄干から飛び降りてしまうんだそうです」
なるほど。
「わたくしは彼女と一緒に飛び降りてみようと思ったのです。一人で死ぬのは寂しいですからね」
まあ、一人が寂しいというのは道理なのだろう。自殺志願者の気持ちはよく判らないが。
「彼が暴力を愉しむ異常者であるというのは認めざるを得なかった。でも好きなものはどうしようもない。だから死のうと思い立ったわけです。一人ではなく、二人で」
「そうですか。しかし、あなたはそのような幽霊話を信じているのですか?」
怖いとは言え、俺はそういった話を信じてはいない。幾ら怖くたって、簡単に信じることが出来るような話ではない。
「ええ。一度見たことがありますから」
「そ、そうなんですか……」
寒くなってきた。
「しかし、自殺は見送りです。あなたの為に。この度は本当にありがとうございました」
「いえ、どう致しまして!」
またも頭を下げる俺。とりあえずは何よりである。彼女の自殺を止められたというのなら、俺もなかなかどうして捨てたものじゃないな。まあ、俺を自殺志願者だと思って、それを止めようとした彼女である。その辺の理解が早いというだけなのだろう。
「よかったら幽霊を見ていきませんか? 今日なら多分見られると思いますよ」
不味い。変な方向に話が進んでいる。いや、信じてはいないが、ここまで自信満々だともしやと思ってしまう。
「い、いえ。遠慮しておきましょう」
「怖いですか?」
彼女は悪意のない表情で訊く。
「そういうわけではないです。けど、幽霊なんて……」
否定しようとしたとき、彼女が言った。
「あ、出ましたよ!」
彼女の指差した方を見る。
確かにいた。橋の欄干の上に立つ、髪の長い女。
女はこちらを見やる。綺麗な人だ。しばし見惚れてしまった。
女は微笑んだ。微笑んだ後、そのまま広瀬川にその身を投げた。水音はしなかった。
やはりアレは人間ではないのか。
「ね?」
震える俺に彼女が声をかけた。
「な、なんですか、アレは!」
「幽霊です。害はないそうですよ」
まさか実在するとは。いやしかし、見間違いと言うこともなきにしもあらずで、もしかしたら本当に人が飛び降りたのかも知れないし——。
駄目だ混乱している。そもそも水の音はしなかったのだ。その時点で——ああ、遂に見てしまったのか。今まで一番存在を否定したかったものを。
項垂れる俺。そんな俺の肩を彼女が優しく叩いてくれる。
もしかしたら彼女は保育士か何かをしているのかも知れない。噂も子供の間で流行っているものらしいし。
顔を上げると、彼女は少し悪戯っぽく笑っていた。
それはやはり優しい笑顔で、俺は彼女が生きるべきだと改めて思った。




