閑話・分身少女奇譚
五橋駅は空いていた。別段何処へ行こうというわけでもないが四年間もこうして宛のない放浪を続けていると、ほとんど無意識に足が外へと向いてしまう。もう私の問題は解決したのだからこうして度々外出することに意味はない。
しかし、問題が解決したからと言って人生が終わるというわけでもない。例えば小説や映画ならば物語が終わった時点で何もかもが終わりなのだろうが、私のいる現実世界ではそうではない。物語が終わっても日常は続く。だから習慣も続くのである。だからこうして今でも放浪を続けるのである。
――物語。私の物語は恋物語で七年にも渡る長編ではあったものの、それは甘酸っぱさとは無縁の血腥くて陰惨な物語だった。登場人物はママと竜二くん。二人は主役級だ。そこに沙村さんという名脇役を加えて構成されていた。あ、それからあの子。私のような私でないようなあの子。あの子こそ当事者、それこそ主役級である。
あの子には悪いことをした。散々脅かした挙げ句、失恋という重荷を背負わせてしまったのだから。結果的にあの子は消えてしまった。私が人間になるのと引き換えに消えてしまった。被害者だ。バッドエンドの被害者である。
どう言い訳しても彼女を嵌めたのは私である。そういう意味でもやっぱり私の物語は陰惨だった。
暗澹としていると、電車がホームに到着した。これには乗らない。あまりに空き過ぎている。人ごみでなければ乗る意味はない。
と電車を見送ってからはたと気付いた。
別にもう竜二くんを探しているわけではないのだから人ごみに拘泥する必要はないのだ。
やはり習慣が抜けていない。どうも今でもあの子に引き摺られてしまう。しかし、それもまた愛おしいと言えば愛おしい。まだ残っていると判るから。完全に消してしまうにはあの子は可愛過ぎた。
物語が終わっても残っている。私の頭の中に蓄積されている知識だって彼女が得たものであるし、部屋のクローゼットに仕舞ってある大人しめの服も彼女の物だ。あの子に関する悉くを私は捨てられずにいる。
まだ全然吹っ切れていない。あれだけ意地悪を言って追い詰めておきながらあの子を追い出すことが出来ない。
あの子の趣味は私とは全く合わないものなのに捨て切れない。靴なんか特にかさ張るのにも関わらず捨てられない。今日だってあの子が好んで履いていたスニーカーを着用している。スニーカーは趣味ではない。私はヒールを好んで履く。三センチから六センチのスタンダードな物が特に好きだ。
だからこんなペタンコなスニーカーなど本当は履きたくないのだ。でも、履かなければ何時かママに捨てられてしまうかもしれない。そう考えると履かずにはいられない。
しかしどうだろう。捨ててしまえば案外楽になるんじゃないかとも思う。その辺に未だ葛藤がある。
全く私も煮え切らないな。
――いらぬならおくれ。いらぬならおくれ。
声がしたような気がする。辺りを見回してみるが、私以外に人はいない。
五橋駅は地下鉄だから、音が反響する。もしかしたらホームの向こう側には人がいるのかも知れない。
――いらぬならおくれ。いらぬならおくれ。
まただ。今度はちゃんと聞こえた。意外と近くだ。しかしやっぱり周りに人影はない。
どうしたことだろう。また何か物語でも始まるのだろうか。もう駅での流血沙汰は勘弁願いたいのだけれど。
――こちらだよ。こちらだよ。
声がした。今度はさっきとは声色が少し違う。はっきりとして聞き取りやすい声だ。私の座っているベンチの前方からだ。
声のした方を見ると、ホーム下から二つの顔がちょこんと鼻から上だけを出してこちらを見ていた。
戦慄した。何だあれは。またぞろあそこに落ちなければならないのか。いや、落ちたのはあの子であって私ではないか。ならば私も落ちなければならないような気がしてくる。
――いらぬならおくれ。
私から見て左側のヘルメットを被った方の顔が言う。
「な、何を?」
「足。足。足おくれ」
「あげられないよ、そんなの」
まるで現実感がない。あの子はこんな気持ちで私を見ていたのか。不安定でそれこそ足が地に着かないような感覚。怪異に遭うとはこんな感覚か。
「その足。その足。その足、君のじゃない」
足を欲する怪異か。あの子の蓄えた知識を紐解けば、カシマさん、テケテケ、さっちゃん辺りが有名であるらしい。これらに共通しているのは皆一様に下半身がないということなんだそうだ。
まあ、その辺は私自身も知っているが、どうやらカシマさんは北海道出身でテケテケは沖縄出身であるという説もあるのだそうだ。これは知らなかった。流石は怪異研究家である。皮肉でしか言ったことのない言葉ではあるが、彼女の知識のおかげで冷静に対処することが出来たのだからとりあえずは感謝だ。
「私のだよ」
「嘘。いらないって言った。言った。言った」
私から見て右側の髪の長い(と思う)方が耳に障るような高音で言った。
「物語がオワったからいらないって言った。言った。言った」
「駄目。あげられない。終わってもあげられないよ」
私には口に出して言った覚えなどないが、まあ不思議なものというのはそういうものだ。
「ケチ。ケチ。ケチはよくない。独り占めはよくない」
ヘルメットが私を非難する。独り占めも何もない。足は持ち主のもので、それは誰かにあげられるようなものではない。取り返しのつかないものだ。
「もしかして、君はまだオワってないのじゃないか? ないか? ないか?」
終わっていないとはなんだろう。
「どういうこと?」
「だってオワっているなら必要ないはずだ。はずだ。はずだ。必要ならばオワっているというのはおかしいじゃないか。ないか。ないか」
長髪は眉をひそめて言う。終わっていないのか。私は終わっていないのだろうか。
ああ、考えてみればそうだ。あの物語はあの子の、また竜二くんの物語であって、私はただ彼女に付き添うお化けみたいなものだったじゃないか。苦しんでバッドエンドに到達したのはあの子。私の話はあの子のバッドエンドから派生した後日談。始まったばかりで何処が終わりなのかもまだ見えていない。
「そうかも。終わってないのかも……」
「そうか。そうか。そうか。でもいらないんだろう? 捨てようとは思っているんだろう? それなら、それなら、それなら、僕らが貰ってあげるよ。君の、君の、君の旅立ちを祝して」
ヘルメットの方は譲らない。随分貪欲だ。
「駄目。あげない。足がなければ旅立てないでしょう?」
「そうだよ。無理矢理はよくないよ。よくないよ。よくないよ」
長髪の方はどうやら理解があるらしい。
「判った。判った。判った。じゃあ君がオワりたいと思ったら、再び僕らを呼んでくれ。そしたら、そしたら、そしたら足を貰ってやるからさ」
どうやら落とし所を見つけてくれたらしい。
「あら? 青木ヶ原さんじゃない?」
二人に返事を返そうと身を乗り出したと同時に、今度は横から声をかけられた。
はっとしてそちらを向くと、そこにいたのは沙村さんだった。慌てて前方を見るがそこにはもう誰もいなかった。二つの顔は最初からそこにいなかったかのように綺麗さっぱりなくなっていた。
なんだろう。幻覚でも見ていたのだろうか。何だか夢心地な、起床したときのようなぼんやりとした感覚がある。非現実からいきなり現実に引き戻される感覚。
「こ、こんにちは」
おどおどと挨拶する。
「こんにちは。偶然ね。どうしたの? 顔色が悪いわよ?」
「いや、大丈夫だよ」
「ふうん? そう? 前会ったときは夜だったから顔色とかよく判らなかったけれど、何時もそんな顔色なのかしら?」
大日如来のお祭りの折に彼女とは言葉を交わしている。というかそれが出会いだ。こうも早く再会出来るとは思わなかった。竜二くんのときはあんなに苦労したというのに。苦労したのはあの子だが。
「うん。白過ぎるってよく言われるね」
「羨ましいわね。でもそんなに肌を出していたら焼けちゃうわよ?」
「私は気にしない。それに焼ければ、ちょっとは健康的に見えるかも知れないでしょ?」
「まあ確かにね」
沙村さんは口元に手を当てて微笑み、私の隣に座った。気怠そうな目は今日も健在だ。沙村さんは気怠そうな割に猫目で、何だか不思議な雰囲気のある女性だ。そう、少女というより女性といった風な人だ。
「何処か行くの?」
「ううん。ただの散歩だよ。まあ、地下鉄を使うのを散歩というのかは疑問だけれど。沙村さんは?」
「私もよ。普段はあんまり外出しないんだけれど、今日は何だかそんな気分なの」
そうなのか。外見はとても凛々しい彼女である。髪が長いから体育会系ではないというのは判るけれど、しかし出不精なイメージはなかった。何だかその辺の喫茶店で本でも読んでいそうな印象を受ける。
「あ、そういえば」
沙村さんは何かに気付いたようにはっと顔を上げた。
「お祭りの日、私たち確かに会ったわよね? いや、会ってなけりゃ今こうしてフランクに話もしてないか……じゃあ竜二には会った?」
「会ったよ」
「そう。でもね。竜二と私があなたに会ってた時間ってのがほぼ同じなのよ。あなたが双子でもない限り、同時に会うのは無理でしょう?」
「それは、まあそういうものだよ。不思議ってのは何処にでもあるものだと思うな」
それが精一杯の言い訳だ。人間青木ヶ原海樹子である私から言えることはそれが精一杯なのである。
「納得いかないわ」
口を尖らせる沙村さん。こういった仕草は少女らしくて可愛いと思う。
「私もその辺はよく判らないかな。沙村さんにも会ったし、竜二くんにも会ったよ。でも時間までは覚えてない」
「そう。ま、そこまで言われちゃ確かめる術もないわね」
沙村さんは引き下がる。私がはぐらかしているというのは筒抜けているだろうが。
「沙村さんはお化けとか信じる?」
そろそろこの話題も苦しいところだ。無理矢理にでも話題を変えなくては。
「お化け? いいえ。信じてないわ」
「そうなんだ。でも、世界には沢山の怪奇譚があるよ? その全てが嘘ってのは現実感を欠かない?」
これはあの子が竜二くんに言った言葉だ。私の言葉ではない。どこまでもあの子に引き摺られてしまう。なんか虚しいな。
「怖い話とか超能力の話ってのは本当にあったから伝えられているわけではないんじゃないかしら? そういうのって面白いから伝えられているのだと私は思うわ。怪談とか都市伝説ってのは、その時代の抱えている問題を含んでいるって竜二が言ってた。現代の抱える問題を、昔の話のプロットを使って表現するのがスタンダードなのだとか。そう考えたら、幽霊話ってのは場所に残る因縁を膜で包んで語り継いでいる話なのであって、本当にそこに幽霊が出るという事実を語っているものではないと思うのよ。そしてそれが恐怖を呼べば長いこと伝えられる。話のネタに出来そうなものが残っていく。そういうことなんじゃないかしら?」
どこまでも現実的だ。竜二くんも大概現実主義ではあるが、沙村さんも負けてはいない。いや、むしろ勝っているのか。だから竜二くんは沙村さんが好きなのか。
「青木ヶ原さんは信じてるのかしら?」
「否定は出来ないかな。だって認識ってのは大事だよ。幽霊がそこにいるのを見たなら、それは存在として認めるしかない。他の人には見えていなくたって自分には見えている。他人には見えないからと言ってそれがいないなんてことにはならない」
「ふうん。それはまた話が変わってくるわね。例えば水木しげるの家にお手伝いとして来ていた景山ふさという老婆は妖怪について随分と詳しかったそうだけれど、彼女が認識していた世界と私たちが認識している世界ってのは全然違うものなのだと思うわ。同じ世界にいながら、見ている景色が全く違うというのは実際にあることかもね」
沙村さんも詳しいな。竜二くんの影響だろうか。何にしても懐が深い。相手を無条件に否定することをしない人だ。あの子を否定し糾弾し続けてきた私とは大違いである。
「青木ヶ原さんはドッペルゲンガーを気にかけていたんだっけ?」
どきりとする。どうやら墓穴を掘っていたようだ。あの子がお呪いで掘ったように、私も自分を嵌める穴を知らず知らずのうちに。
幽霊の話となれば当然そちらに話題が飛ぶことは予想出来たというのに。
迂闊だった。幽霊話を振ったのは完全に迂闊だった。しかし、返事は返さなければならない。
「そうだね。随分長いこと気にしてはいたけれど、もう大丈夫だよ。そのことは全部解決しちゃったから」
気にしていたのはあの子であって私ではないのだが。
「そうかしら? 幽霊話を主観の認識の上で捉える辺り、あなたはまだドッペルゲンガーから離れ切っていないように私には思えるのだけれど」
沙村さんは人差し指を頬に当てながら眉をひそめている。
しばし沈黙する。そして意を決して言葉を吐く。
「服がね、捨てられないの」
「うん?」
「ほら、私って結構露出の多い服を着るじゃない? でもこれは私の趣味であって、青木ヶ原海樹子の趣味ではないの」
全く意味不明である。自分でも何を言っているのやら判らない。青木ヶ原海樹子は私だ。私の趣味であって私の趣味でないというのは矛盾を通り越して荒唐無稽だ。
「靴だってそう。本当はスニーカーじゃなくてヒールが履きたい。でもスニーカーだって好きなんだ」
またも支離滅裂。スニーカーが好きなら文句を付ける必要はない。
「そう。やっぱりあなたは自分があやふやなままなのね」
不筋な私の言い分を少しも訝しむことなく沙村さんは言う。
「ドッペルゲンガーを過剰に恐れるあなただけれど、ドッペルゲンガーは他人ではないわよ? 少なくともあなたにしか見えないと言うのなら、それは自分でしょう?」
自分。確かに私は私だ。でもあの子は私を自分だとは認めなかった。いや、それも当然。私は自分を取り戻すことに精一杯で、あの子を追い出すことしか考えていなかったのだから。結局私があの子を認めなかったからあの子も私を認めなかった。
――それも違うか。あの子には私が見えていたのだから私はあの子に認められていた。あの子には幽霊が見えていた。それにこうして完全に私を認めて人間になった。しかしこれは同化ではない。異化だ。一方的に私が彼女を私にしたのだ。彼女の意志を私は過去のものとしている。
「そう、だね……」
認めよう。認識しよう。私はあの子の一面に過ぎないと。
「まあ、よく判りもしないでこんなことをいうのも空々しいわね。よし! 長町に行きましょう」
沙村さんは提案する。長町に何かあるのだろうか。まあ、私も目的地のあるわけではないから不都合はないが。
「長町に何かあるの?」
「ザ・モール長町店よ。服を買いに行きましょう。あなたの趣味を私に見せて頂戴」
服か。私は何を選べばいいのだろう。大人しめの服か。扇情的な服か。いや、どちらもだ。どちらも選ぶべきだ。あの子を、青木ヶ原海樹子を認めると言うのなら。青木ヶ原海樹子を取り戻したいというのならどちらも選ぶべきだ。
「うん。いいよ。行こう」
私は頷く。
電車の到着を告げるアナウンスがホームに鳴り響く。
沙村さんが立ち上がる。
それに続いて私も、自分を呼び戻す為にお気に入りのスニーカーでもって立ち上がった。




