忌憚奇譚10
墓村夕子は考える。邪悪、邪悪、邪悪って何だろうと。
邪で拗じくれていてその上悪い。そう考えれば五月乙香こそ邪悪の権化として相応しいと思える。しかし、邪悪と言うにはどうも彼女は他人を許す姿勢が見られる。クラスの嫌われ者、人類の親の敵、そんな立ち位置にある彼女でも夕子を許し光太郎を慕っている。それでも性格の悪いことに違いはないが、邪悪というほど悪虐ではない。
乙香は邪悪ではない。乙香ですら邪悪ではない。なるほど邪悪とは生半可なものではないということか。では、乙香が樹を邪悪と言うのにはどういう意図があるのだろう。それは自分よりも奸悪で非道であると言っているのと同じだ。まさか自分が善い人間であるとは乙香も思っていないだろう。乙香には自分が悪であるという自覚があるはずだ。それはそれで悲しいが。まあ、それはそれだ。今は樹である。杉川樹。夕子の物差しで測れば彼女には無垢という言葉を当て嵌めるのが正当であると言える。
純真。邪悪とは全く逆の概念。
あの眩しい笑顔。年不相応な無知さ。悪意とは全く無縁である。樹はサンタクロースさえ知らなかったのだ。年不相応に無知であるというのは何だか神秘的な印象を受ける。だから夕子は樹は無垢であると思う。樹に見る白さは間違いなく純真なのだ。
それでも乙香は譲らない。あんなのは嘘だと言う。あんなのは冒涜だと言う。
「何がそんなに気に入らないってのよ?」
「だから——言ってるでしょ? 白々しいの。あの子、私たちの前ではいい子ぶってる。ぶりっ子ほどムカつくものはないよ。というか、樹ちゃんの場合、やり過ぎててムカつくというよりは怖い」
怖いとは。乙香にも恐れる心があるのか。
「言い過ぎだよ。普通の可愛い女の子じゃない」
「普通ね。夕子がそれを言うんだ……」
溜息を吐いて外を見る乙香。ここはスーパーマーケットの四階である。エスカレーターの近くに設置されているベンチからは並木通りが望めるようになっている。
「でも残念ながら樹ちゃんは普通じゃないでしょ。サンタクロースを知らない人間が何処にいるっていうの? 普通は知ってる。知ろうと思わなくたって誰かが知らせてくる。そんな知識を知らないなんてことがあるわけないでしょう」
「むう……でもさあ、嘘を吐いてるようには見えなかったじゃん」
全く見えなかった。嘘なんて、存在すら認識していないように見えた。乙香にはそうは映らなかったのだろうか。
「冷静に考えてみてよ。樹ちゃんが七不思議を語ってた時のこと。あれだけ言葉巧みな人間が、ものを知らないなんてことはないでしょ? 猫のスープの作り方とか、ドン引きだったよ」
猫のスープの作り方。確かにあれは異常な発想だ。どこまでが兄に吹き込まれたもので、どこからが樹のオリジナルなのかは判然としないが、あんなショッキングな内容をああも流暢に語る人間が世間を知らないというのは確かに説得力を欠いている。
「まあ私も引いたけど……でもなあ」
得心の行かない夕子。どうも第一印象というのは拭い切れないものだ。強烈にあの天真爛漫な笑顔が頭の中に焼き付いて離れない。
「夕子はお人好しだね。胸糞悪い」
「何でよ!? 私にだって疑う心くらいはあるもんね」
夕子はむっと頬を膨らませる。
「いい子ぶってるってわけじゃないからまた一層癪に触るよね」
「言いたい放題だな……」
「樹ちゃんを見習えとは言わないけれど、せめて私のことくらいは見習って欲しい」
「馬鹿野郎。友達いなくなっちゃうよ」
何気なく樹を批判する乙香。これは説得の仕様もない。完全に頭の中で樹を悪者にしている。悪者は乙香本人だというのに。
「はあ……思い出すだけで胸が悪くなるよ、共用トイレの話は。よくあんな話を思いついたもんだよね。樹ちゃんのお兄さんって相当性格悪いよ」
「会ったこともない人間を批判するなよ……」
「兄妹揃いも揃って。全く、親の顔が見てみたい」
「あんたが言うなよ」
実際乙香はどんな育てられ方をしたのだろう。相当甘やかされたか、若しくは雪乃のように過ぎた躾を押し付けられたか、どちらかだろうと夕子は考える。だってそうでなければこうも極端な性格にはなるまい。
少し聞き辛いことだが、それとなく聞いてみる。
「私の両親? 普通だよ。褒められることもあれば叱られることもあるし、我が侭が通ることもあれば通らないこともある。私が何か問題を起こせば当然お説教」
「ええー。じゃあ何であんたはそんななのよ」
叱られれば当然改善しなくてはならない。そうしなければ両親も心配するし、同じ間違いを繰り返して再び説教をされるのは乙香も本意ではないはずだ。
「少しは改善したんだよ? 虫は殺さなくなったし、暴力も振るわなくなったし、汚言もちょっとは控えるようになったしね」
「そうだとしたらあんたの性格の悪さは天性のものだな。ご両親は相当に苦労をなさったのね。察するに余りあるよ。大体、汚言は全然治ってないじゃない」
「ま、そこは仕方ないよ。改善し切らないことだって当然ある。ほら、配られたカードで勝負するっきゃないって、犬っコロも言ってるじゃない」
「スヌーピーを犬っコロ呼ばわりするな」
偉大な犬である。敬意を表するべきだ。
「知ってる? 今の有名な台詞を訳したのは谷川俊太郎なんだよ?」
「へえ、谷川俊太郎って『春に』とか書いた人だよね? やっぱ素敵な感性を持った人なんだなあ」
乙香にも見習って欲しい。
「『春に』は代表作として挙げるにはちょっと短絡的」
「いや、代表作なんだからそれでいいでしょ」
そこに文句をつけられるとは思いもよらなかった。
「谷川俊太郎といえば、もっと有名なのがあるよ」
「何よ?」
谷川俊太郎と言えば『春に』が最も有名だと夕子は思う。合唱曲にもなっている程だ。夕子も中学生の頃、合唱コンクールで歌った覚えがある。
「聞きたい?」
頷く夕子。
「じゃあ教えてあげる——『なんでもおま——」
「ちょっと待った! それは公共の場で言っていい言葉じゃないね!?」
夕子も一度耳にしたことがある。それまでの谷川俊太郎のイメージを完膚なきまでに砕いた詩だ。確か桃香が言っていたのだったか。その詩を元に曲を作ろうとかいう話だった。
「夕子が聞きたいって言うから……」
悪怯れる様子もなく平生の無表情で言う乙香。かなり太い神経をしている。
「まさか斜め上、いやむしろ下からくるとは思わなかったんだよ……」
「合唱曲になるといいよね。純粋な目をした小中学生が混声合唱で歌うの」
「地獄絵図だ……」
学年主任が更迭されるレベルである。
「地獄絵図か。大丈夫だよ。仏教の戒めに淫語を禁止するような文言はなかったはずだし」
「何が大丈夫なんだよ……っていうかさ、乙香ってそういうのやたら詳しいね。オカ研とか入ったらよかったんじゃない?」
「やだよ、あんな荒み切ったサークル」
荒み切ったとは言い過ぎだ。乙香は針小棒大に物を言う癖がある。
「荅川先輩と一度話したことがあるんだけれどね、あの人何か汚いんだよ、全体的に。ワイシャツはよれてるし、頭はくしゃくしゃだし、目は死んでるし、顔に生気はないし」
「苛烈な評価だけど判らないではないよ。でも、六朗先輩——は奇人だしなあ……でもでもっ! 雪ちゃんはちゃんとしてるよ!」
雪乃のこととなると擁護も必死な夕子である。
「世咲先輩か。オリエンテーションの折に話したっけ。夕子に連れられて。まあ、あの人はまともっぽいっちゃあまともっぽいけど。どうかな。夕子が思ってるほど、ううん、言っているほどちゃんとした人ではないよね?」
「そんなことないっ!」
カッとなって言い返す。言ってから自分が随分と大声を発していたことに気付き、夕子は身を縮めた。
「ごめんね。私もそこまで世咲先輩を貶めるつもりはないから。二三言葉を交わしただけなんだし、知った風なことは言えない。でも、世咲先輩が随分と自意識過剰であるっていうのは見てて判ったよ」
乙香が謝罪を返してきた。どうやら両親の努力は無駄ではなかったようである。
「世咲先輩は悪意に弱い、というのが私の評価。だから悪意一〇〇パーセントの私が入部するわけにはいかないでしょ」
やはりそういう自覚はあるらしい。しかしその割には気を遣うことは出来るようだ。乙香もただ純然に悪ではないということか。
考えてみればそれも当然である。こうして夕子と人間関係を維持しているのだから何処かで乙香なりに折り合いをつけているのだろうというのは明白だ。
「……ばつが悪い」
「大丈夫だよ。これくらいのことで夕子から嫌われるとも思ってないし、夕子は世咲先輩のこと大好きだから、怒るのも当然だよ」
「私は、あんたのことも結構好きだよ……」
気まずさに合わせて弁解してみるが余計に気恥ずかしくなる。大体、乙香は自分に好かれる要素がないことを理解しているだろうから、こんな弁解に説得力があろうはずもないのだ。
「で? 私たちは何を話していたんだっけ?」
気まずさを打ち消す為に話題を変える。
「臆病者……樹ちゃんが異常者だって話だよ。ま、それはいいじゃない。結局、私の言ってることだってただの印象なんだから。本当に樹ちゃんは何も知らない馬鹿な子供なのかも知れないよ」
「身も蓋もないないなあ……」
しかしそれもまた事実である。どちらが正しいということもないのだ。
まあ樹とは家も近い夕子だ。近所付き合いがあれば会うことも可能だろう。彼女の人間性を考えるのはもう少し仲が深まってからでいい。
しかしそれでも乙香が正しいか自分が正しいか確かめてみたいと、そんなことを思った夕子は情報を集める為に動いてみようと考えた。




