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忌憚奇譚2

 墓村夕子は考える。善と悪というものは一体全体どういう線引きをされることで明確なものとなるのかと。

 と言うかまず、善とはなんだろうか。そもそも善いとか悪いとか、そんなものは人の置かれる立場や状況によって様々に変化するものなのではないだろうか。とするならば、明確に線引きをすることなど不可能だ。しかしそう言い切ってしまっては元も子もない。それでは言葉が存在する意味がなくなってしまう。ならば善とは何であるかを、しっかりと判りやすい形で表現しなければならない。

 例えば、歩きタバコをしている人間に対して、危ないからやめろと警告するのは善い行いであると言える。イジメをしている人間に対して、嫌がっているのだからやめろというのも同じく善行だ。なるほど、善行とは簡単だ。社会で生きるものとして、社会の決められたルールやモラルを遵守し、それに反するものがあれば忠告をする。それだけで善は成り立ってしまうような気がする。

 では悪はどうだろう。もし、歩きタバコをしている人間やイジメをする人間に悪意がなかったら。歩きタバコはともかく、イジメに関しては、加害者に悪意がないというのはそれなりに現実感のある問題ではないだろうか。

 自分はこいつを殴ることで愉悦を覚えることが出来るからやっているんだとか言われたら、夕子はすかさず、自分がされて嫌なことは人にするなと反論するだろう。

 しかし、ここで、こいつは悪いヤツだからいいんだよだと返されれば、夕子は何も言えなくなってしまうと思う。相手が苛めている人間を悪であると断じているのなら、そう断じた理由があるはずだがその理由がなんであれ、それを悪であるとした価値観を否定する術を夕子は持たない。大体、人をイジメて喜ぶという発想そのものが、かなり普通でないことは言うまでもないのだ。世界を否定して、世界の外側から鉄槌を振り下ろしてくるような輩には、いつだって自分たちは成す術がない。

 仮に被害者を悪だというのが夕子を言い包めようとする言であったとしても、夕子には口出しが出来ない。きっとそういう人間は何を言ってもやめないだろうし、外側に声は届かないのだろうから。

 とするならば、悪とはなかなか難しい。まあ言い包めようとしてくる人間は自分が悪であると理解しているのだろうが、本気でそれを言っている人間は悪と断ずることが出来ないのではないだろうか。悪とは善によって正されるべきであるのだ。それが善と悪という言葉の意味なのだ。だから相手が非を認めなければ、それは悪とは認められず、行使された善行も無効となってしまう。ただ時間の無駄だけが結果として残るだけだ。

 考えてみれば、そうなった場合、善行も意味をなさなくなるのだから、善もここでは消えてしまう。

 善も悪も一筋縄ではいかないということか。難しい。


「夕子、なにポカンとしてるの? 馬鹿っぽいよ?」

 空前絶後の悪口少女が口を開いてしまった。この少女、五月乙香さつきいつかの悪口を発端としての思考であっただけに夕子としては釈然としない。

「うるさいな。私は今、凄く哲学していたんだよ」

「夕子が哲学? なにそれ、笑える」

 乙香は持ち前の能面でペラペラと悪口を言ってのける。

「じゃあ笑いなさいよ。乙香が笑ってるところ、見てみたいなー」

 挑発である。

「夕子の前ではいつも笑ってるよ」

「嘲笑ってるところしか見たことない」

「嘲笑ってるんだよ。夕子のことを」

 槻や銀杏の葉で日陰の多い五橋公園であるにも関わらず、夕子の体温はどんどん上昇する。

 そして爆発した。

「チクショー! なんであんたはそうなんだ! 口を開けば汚言雑言! 笑えば嘲笑! 見返る姿は天照! ムカつく! 凄くムカつく!」

「私って見返り美人なんだ……」

 夕子の目には眼鏡をかけた女性の見返り姿がとても綺麗に映る。これは夕子特有の嗜好である。

 乙香は癖っ毛なうえに肩甲骨辺りまで髪が伸びている為に、陰気な印象を人に与えるが、顔に愛嬌があるのでそれが動物的で愛らしく見えることがあるのだ。つまり、それなりに美人なのだ。

 何をとっても普通、標準という評価を受ける夕子からすれば、それは少し妬ましいところである。

「美人はどうでもいい! あんた、誰に対してもそうやって口汚く接してるでしょ? だから私くらいしか友達がいないんだよ」

「夕子は友達なんだ」

「あたぼうよ!」

 標準サイズの胸を叩く夕子。幾ら罵られようとも、夕子は乙香の友人であることをやめようと思ったことは今まで一度もなかった。

 もしかしたら自分はマゾなのかも知れないと思ったこともある。

「相変わらずハッピーな脳みそだね。ウニでも詰まってるの? それともプリン? そっか、夕子の脳は回転寿司みたいなものなんだね。ハッピーなはずだよ」

 しんみりと雰囲気を作ってみせる乙香。勿論演技である。夕子を馬鹿にしているのだ。

「折角カッコいい感じだったのにー!」

 キーキーと不満たらたらな夕子を差し置いて乙香は言葉を続ける。

「それにしても、こーちゃん遅いね。もう十分も遅刻だよ。後でシバいておかなきゃ」

「物騒だなあ」

「物騒と言えば——」

 乙香は何かを思い出したように夕子を見る。

「あのね、最近この辺で猫の死体が何体も見つかってるんだって」

「何それ? 初耳」

「ニュースで少し話題になってた」

 夕子はあまりニュース番組を観ない。と言うかテレビもあまり観ない。

 毎日、鬼のような先輩から部活の課題を出されるのでなかなか観る機会がないのだ。特に最近はサボり過ぎたのが原因で、課題地獄は苛烈を極めている。

「危ないよね。そういう頭のネジが飛んじゃってる人って、その内、人にも手を出し始めるって言うし」

「怖いなあ。まあでも、どうせすぐ捕まるよ。何だかんだで警察は優秀だからね」

「知った風なことを……イラっときた。殴らせて」

 無表情で拳を振り上げ、無茶苦茶を言う乙香である。

「ちょっと! やめてよ!」

「冗談に決まってるじゃない」

 絶対に嘘だ。気分に依っては本当に殴られていたに違いない。五月乙香とはそういう女だ。

「全く! あんただって充分危ない人間だよ。人のこと言えないね!」

「私が苛めるのは夕子だけだよ?」

「何の言い訳にもなってないよ!」

「それに殺生はしないよ?」

「うっそだー。あんたってカエルに爆竹詰めたり、トンボの羽を捥いで喜ぶタイプの子供だったでしょ?」

 夕子と乙香は幼馴染という訳ではないので、全て夕子の想像である。

「え? 何で判るの?」

 図星だったらしい。

「冗談のつもりだったんだけど……乙香って結構判りやすいね」

 まあ判りやすいというのは結構なことだ。相手がどういう人間なのか見極める時間は短ければ短いだけ楽だ。

「でもあんまり外では遊ばなかったから、捕まえてから家に帰って苛めてたよ」

「なんか想像に難くないわー」

 あんまり想像したくないけれど。

「まあでも昔の話だよ。今は虫とかカエルとか触れないしね。今は夕子だけ」

「それってあんたの言う、頭のネジが飛んでる人のセオリーに沿った育ち方だよね。きっちり加虐が人間に向いてるよね。私はいつの日かあんたに殺されるんじゃないかって気が気でないんだけど」

「人を殺す罪悪感と虫けらを殺す罪悪感は別物だよ。一寸の虫を殺しても、魂が五分しかないなら、罪悪感も五分で済んじゃうものだよ。だから虫は殺しても夕子は殺さない」

 屁理屈だ。そんなのは言葉遊びに過ぎない。全ての命が平等であるとは思わないが、だからと言って生きているものの命を蔑ろにしていい訳はない。それは夕子だけが持つ道徳観ではないだろう。

 しかし、一方こうも考える。例えば夕子が、かつての乙香のように虫を苛め殺すような行為に及んでいる子供を見たなら、勿論注意すると思う。だがそれは殺されようとしている虫の為ではなく、虫を殺している子供の為に叱るのだ。残虐行為によって人格が歪んでしまっては大変だと考えて叱るのだ。

 そこに命への配慮があるとは思えない。否、あるのだろうが、どうしても二の次になってしまう。虫からすれば堪ったものではないだろう。自分の命を道徳教育に使われているのだから。


 そんなことを考えると夕子は乙香に対して何も言えなくなってしまう。程度の差こそあれ、自分も小さな命を軽視しているように感じるからだ。五月乙香とは何とも手強い相手である。

 乙香は間違いなく悪だ。自分が善だとは思わないけれど、彼女には無表情、無慈悲、無感動の三拍子が揃っているうえに、幼少から加虐趣味を極めているのだからこれはもう純然たる悪だ。それにあの悪舌を見せつけられてしまったなら、最早疑いようがない。

 そんな乙香を前にすると、どうにも自分の小悪が目についてしまう。乙香の振る舞いが自分の悪い振る舞いを浮き彫りにさせるのだ。生まれついての反面教師といったところか。

「あ、来た」

 夕子が問題児に頭を悩ませていると、その問題児が公園の入り口を指差した。

「へ?」

 乙香の指差した方を見ると、善良な友人である助川光太郎すけがわこうたろうがこちらへ走って来るのが見えた。随分焦っている。それはそうだろう。約二十分の遅刻だ。乙香に殺されても文句は言えない。

「ごめんなさい! 寝坊しました!」

 開口一番で謝罪。腰が調度九十度に曲がっている。綺麗な低頭だ。

「土下座しろ」

 乙香が無表情で凄む。

「まあまあ。そこまで求めなくても……」

 夕子が窘めるが、何せ相手は巨悪である。そう簡単に考えを変えようはずもない。

「甘やかしたら駄目だよ」

「乙香には謝ってない! 俺は墓村さんに謝ってるんだよ!」

「ちょ、拗れるってば……」

 二人は腐れ縁で、小学生の頃から付き合いがあるらしい。つまり光太郎は乙香との関係においては酸いも甘いも噛み分けているのである。否、酸っぱいところしか噛んでいないのである。故にこうして乙香に対して反抗的な態度に出ることが出来るのだ。それが得策だとは夕子にはとても思えない。しかし、よく考えてみれば夕子も同じような態度で乙香に接しているかもしれないので改めようかと考えた。考えて、否決した。乙香の思惑に流されているとどんな目にあうか判ったものではない。

「とりあえず、こーちゃんも頭を下げているし、ここはこの辺で手打ちとしよう!」

「私は全然謝罪されてないよ」

「仕方ないなあ。こーちゃん。ほら、乙香にも謝って」

 乙香を納得させるにはこうするしかあるまい。

「まあ、墓村さんがいうなら……」

 光太郎はバツが悪そうに頭を下げる。明らかに不服そうだ。

「じゃあお昼奢って。それでチャラにしてあげる」

 乙香が言うと恐喝に見えなくもない。

「恐喝かよ!」

 光太郎からすれば恐喝以外のなにものでもないらしい。

「よし! 何とかなった! じゃあ改めて——何処行く?」

 全てをなかったことにしようと試みる夕子。

「え? 決めてなかったの? 無計画もここに極まれり。何で誘ったの?」

 酷い言われようだ。完全に悪舌の矛先が夕子に向いている。

「だって昨日までずっと部活だったんだよ? 桃香先輩からどれだけの地獄を見せられたと思ってるんだよ。やっと手に入れた夏休みなんだから、暇でも外に出たいじゃん」

「地獄を見たのは部活をサボった夕子が悪い」

「まあいいじゃないか。どうせ乙香だって暇だろ?」

 光太郎がフォローを入れる。

「まだ五冊くらい読みたい本があるんだけど」

「そんなの夏休み中に読めるだろ。それにたまにはお前も外出た方が良いぜ?」

「外には出てるよ。通学の時とか」

「それは出てるって言わない」

「でもそれを言ったらこーちゃんだってあんまり外出ないよね。バスケは室内競技だし」


 あれやこれやと会話を交わす二人。これが異性の幼馴染というものかと夕子は感慨深い目で二人を見る。以前光太郎は、乙香のことが嫌いなのだと言っていたが、もしかしたらそれは嫌よ嫌よも好きの内というヤツなのかも知れない。

 こうして自然と二人は結ばれていくのだろうなと妙なことを考えてみる夕子だった。

「墓村さんは何処か行きたい所とかある?」

 光太郎が質問する。妙なことを考えていただけに、反応が少し遅れる。

「へ? あー、そうだなあ。じゃあまずは楽器屋に行きたい!」

「結局楽器……地獄を見せられたんじゃなかったの?」

「その地獄の所為で弦はボロボロだし、指板も手垢だらけなんだよ」

「シバン?」

 光太郎が質問する。

「指を乗せる所。弦の下の板ことね」

「へえ。じゃあとりあえず楽器屋に行こうか。乙香もいいだろ?」

「別に私は何処でもいい。外のことはよく判らないから」

「完全に引き蘢りの発言だな」

 外に出ない乙香。たまには連れ出してみるのもいいものだ。

「何とでも言うがいいよ。あ、私トイレ行ってくるからちょっと待ってて」

 乙香はそう言って公園の入り口付近にある男女共用トイレに入っていく。

「あいつ、何だかんだで付き合い良いんだな」

 ぽつりと光太郎が呟く。

「ん? こーちゃんは乙香と長いんでしょ? よく一緒に遊んだりしたんじゃないの?」

「いや、全然だよ。あいつ中学生のころからいじめられっ子だったし、俺は俺で自分のことで精一杯だったし」

「小学生のころは?」

「うーん、ちょくちょく遊んだりしてたけど、あの口の悪さだから凄く取っ付き難かった。あと異常に虫を殺したがるヤツだったよ。蜘蛛の解体の仕方から蟻の焼き方まで、あいつには色々教わったけど、何一つ役に立つことはなかったな」

 口の悪さは生まれつきなのか。しかも虫の殺し方を人に教えるとは、随分な趣味である。


「何か……邪悪な子供だったんだね」

「だから嫌いなんだよ。理由もなく邪悪なのって嫌われる為に産まれてきたようなもんだろ」

 あからさまに顔をしかめる光太郎。きっと積年の恨みみたいなものがあるのだろう。

 しかしそれにしたって言い過ぎではないだろうか。幾ら口が悪かろうとそこまで言われる筋合いはないはずだ。

「こーちゃん、そこまで言ったら流石に乙香が不憫だよ」

「そうだね。だから今でも付き合いをやめないんだよ。あいつが不憫だから。凄く不健全な理由だって言うのは判るけど、何か可哀想なんだよ」

 拗れているなと夕子は思う。しかしまあ男女関係とはそういうものかも知れないし、幼馴染とは付き合いが長い分、多少関係が歪んでいても不思議ではないとも思う。実際に自分がそうであるから何となく判る。

 夕子と同様に、この二人にも色々あるのだろう。そのことをいちいち突っ込んで聞こうとは思わないが、それでも二人は友人なのだから少しは橋渡し的な役割もしてみたいと夕子は思う。


「とは言え、こーちゃん、何だかんだで乙香のこと好きでしょ? そうじゃなかったら今日だってここには来ないんじゃないかな」

「まさか。俺はあいつのこと、嫌いだよ。ホントに嫌いだ。世界一嫌いだって言い切れる」

「言うなあ。じゃあ何で乙香と関わるの? 嫌いな人がいたら出来る限り無視するのが普通でしょ?」

「いやあ、どうかな。さっきも言ったように、何か可哀想で見てられないんだ。だったら見なきゃいいんだろうけど、家も近いし、学校は同じだし、クラスまで同じだから無視するにも距離が近過ぎるって言うか……まあそれでも関わる理由としちゃ薄いかもしれない。うーん……上手く言えないなあ」

 光太郎は男らしい太さの腕をがっちりと組んで、うんうんと唸っている。かなり込み合っているらしい。これは一筋縄ではいかない。

「そっか。こーちゃんって見た目の割に繊細だよね。この前だって随分口裂け女のこと怖がってたし」

「いや、それは……なんて言うか、アレだよ」

「何?」

「アレさ」

「アレなの?」

「アレなんだよ」

 光太郎ははぐらかす。自分の感情の理由が判らないから口ごもっているのではなく、判ってはいるがそれを言葉にすることを憚っているような感じだ。

 思わせぶり、といった所か。

「まあこーちゃんにも色々あるってことで、ここらで勘弁してやろう」

「あはは、ありがとう」

 光太郎は苦笑いを返し、気まずそうに視線を外した。

 夕子は何となく視線の先を追ってみる。

 光太郎が見ているのは今乙香が使用している共用トイレだった。

 そこにはいつの間にやら小学生くらいの子供たちが集まっていた。人数は六人。楽し気にしている者もいれば、おどおどと落ち着かない者もいる。男女の比率は半々。

 何をしているのだろうか。トイレの前で統一されていないリアクションを見せる彼らは、宗教の礼拝者にも見える。

「あれ、なんだろう?」

 状況が逼迫している子がいるのだろうか。それを見たお調子者がちょっかいをかけているという画にも見える。と言うかそう考えるのが普通か。

「乙香も災難だな。あの子たちの話し声、多分中に聞こえてるだろうから出辛くて堪らないだろ」

 確かにそうだ。乙香のことだからかなりフラストレーションを溜めているに違いない。

 それは不味い。こちらとしてはあまり刺激しないでほしいと夕子は思う。

 内心ヒヤヒヤしながら見守っていると、一人の男子がこちらにも聞こえるくらいの声で言葉を発する。

「花子さーん、遊びましょ!」

 花子さん。それはあの有名なトイレの花子さんだろうか。こんな昼間から肝試しとは、可愛らしいものである。何だか微笑ましいと夕子は感じた。

 一方、光太郎は唖然としている。この後の乙香の機嫌を想像して絶望しているのかも知れない。

 乙香がトイレから出てくる気配はない。それはそうだろう。誰だって出難いに決まっている。

 子供たちは何も起こらないことに痺れを切らしたのか、トイレの扉をガンガンと蹴り始めた。気の弱そうな女の子がびくびくしながら控えめに止めているが、元気にはしゃぐ子供たちの説得には至っていない。

 自分たちが言って聞かせるべきだろうかと夕子は思う。やはり公共物を蔑ろにする子供を放っておく訳にはいかない。少しおばさん臭いような気もするが、ここは一人の善良な市民として注意しておかなければお天道様に面目が立たない。

 夕子がその場を立とうとすると、トイレの扉がガラリと開いた。

 もの凄い形相をした乙香が子供たちを見下ろしている。トイレの花子さんが実在するとしたらきっとあんな感じなのだろうなと夕子は思う。

 子供たちは黄色い声を上げて逃げていく。逃げていく子供たちの気持ちはよく判る。遠目に見ているこちらにも怨念が届いているのだから、近くにいる子供たちからすれば恐怖以外の何でもないだろう。

「凄いな、アレ」

 光太郎が独り言ちる。

 子供たちが去っていくのを見送った乙香は、顔を生来の無表情に戻してこちらに歩いてくる。

 少し怖い。

 戻ってきた乙香は、はあと溜息を吐いた。災難だったと言わんばかりに肩を落としている。

「だ、大丈夫だった?」

 夕子は怖ず怖ずと声をかける。

「大丈夫。顔は覚えたから」

「いやいや! そこはお互いの為に忘れようよ!」

「クソガキども……絶対に許さない」

 口が悪くなっている。表情は戻っているものの、眼鏡の奥にある瞳はギラギラと憎悪に燃えている。

「相手は子供なんだから気にするなよ」

 光太郎も説得するが、乙香は全く引かない。

「悪いことをしたんだもの。お仕置きしないと」

「やめて。あんたがするのはお仕置きじゃなくて復讐でしょうが」

「そうとも言う……でもあの子たちには土下座してもらわないと私の気が済まないよ」

「子供にまで土下座を要求しないでよ……」

 夕子まで溜め息を吐く。

「乙香、やり返してしまったらそれはもう喧嘩だよ。殴り返したらまた殴り返されて、そんで堂々巡りだ。それにやり返せば不利になるのは乙香の方だぜ? 相手は子供なんだから」

 光太郎は乙香を諭す。しかし傍若無人な乙香に対して正論が通じるとも思えない。

「じゃあ私の怒りの矛先は何処に向かうの?」

「忘れろよ。子供の悪戯だ。気にするな」

 乙香の背中をぽんぽんと優しく叩く光太郎。なるほど、流石は幼馴染だ。あまり付き合いがなかったと光太郎は言ったが、誰からも疎まれる乙香と誰よりも長く接してたのは、他でもない彼なのだろう。きっと誰よりも理解があるに違いない。

 何だか夕子の目にはいい雰囲気のように見える。

「もう子供じゃないんだから、その手には乗らないよ」

 舌打ちをしながら光太郎の手をぞんざいに振り払う乙香。本当に不機嫌そうに顔をしかめている。これは火に油だったかもしれない。

 現実とは非情である。この冷酷な女には人の温もりというものは届かないのだろう。


 夕子は物悲しい気持ちになる。こんな調子で乙香はどうやって生きていくのだろうか。一人で生きていける人間は少ない。生きていくことの出来る一握りの人間だって、幸せになれるとは限らない。乙香が何を糧に生きているのかは知らないが、もう少し人の気遣いというものを素直に受け取らないことには近い内に行き詰まるような気がする。

 ここは本人の為にも加勢に入ったほうがいいかもしれない。

「まあまあ。乙香、そんなに熱くならないで。こーちゃんの言う通り、気にするだけ損だよ」

「無視は出来ない。私ってそういう質だから……でも、夕子が代わりに殴られてくれるなら怒りも少しは収まるかも」

 理不尽ここに極まる。しかし、それで気が済むなら——とも思う。結局乙香は怒りを収める気が全くないのだから、誰かがそれを受けなければ落ち着いてくれそうにない。

 仕様がないと夕子は覚悟を決める。

「判ったよ……それで乙香の気が晴れるならいいでしょう」

「いやいや、それはちょっと酷過ぎるんじゃないか? やめときなよ、墓村さん」

 光太郎があたふたと止めに入る。乙香はそれを無視して拳骨を作っている。

「友人のサンドバッグになるのも青春っぽいじゃん?」

「全然青春っぽくないよ! そういうのって殴り合ってこそ成立するんじゃないの!?」

 そんなことは夕子も判っている。しかし、もう既に頭は差し出してしまっているのだ。女に二言はない。根性を見せなくては。


「では、お願いします!」


 歯を食いしばり、拳骨を迎え撃つ夕子。しかし、頭部へ来た衝撃は以外にも小さなもので、コツンという音が夕子の頭蓋骨の中で可愛らしく鳴っただけだった。当然痛みもない。

「ほえ?」

「自己犠牲なんてかっこ悪い。馬鹿馬鹿しいよ、夕子」

「はあ……?」

 きょとんと首を傾げる夕子と光太郎である。

「そういうの、何処で影響されてくるの? 常代野先輩とか?」

「え? いやあ、むしろ桃香先輩はそういうの嫌いそうだけど……」

 乙香とは違う種類の傍若無人である常代野とこよの桃香ももかであるが、自己犠牲が馬鹿馬鹿しいと思っているのは乙香と同じだろう。

 軽音楽サークルは三人で構成されている。つまり、バンドのメンバーは三人。一人がミスをすれば全体に関わるのである。そんなスリーピースバンドのシビアな面をよく知る桃香は犠牲を払うことを許さない。メンバーは一心同体でなくてはならないと考えている。

 その辺は入部当初から耳にタコが出来るほど聞かされた。

「そうなんだ。あの人、無駄に熱いから夕子も影響されたのかと思った。まあ何にせよ、そういうのは辞めた方がいいよ。胸糞悪いから」

「えー……じゃあどうすりゃいいのさ。て言うかあんたが殴られてくれって言ったんじゃん」

「そんなの冗談に決まってるでしょ。殴ったら私も痛いし、流石に八つ当たりはしないよ」

「どの口が言うんだよ……」

 しかし、そうともなるとどうやって乙香の怒りを収めたものか。

「ま、いいや。冗談が長くなっちゃったね。そろそろ行こう」

 乙香は何でもないように言う。

「は?」

 光太郎がやっと会話に入ってくる。一言だけではあるが。

「『は?』じゃないよ。楽器屋、行くんでしょ?」

「ちょっと待って、冗談が長くなったって、何処からが冗談だったの?」

「子供たちに土下座を要求しようと提案した辺りからだけど?」


 頭痛がしてきた。随分と振り回されたようである。結局乙香の怒りはとっくに消沈していたのだ。

「このアンポンタン! 私たちがどれだけヒヤヒヤしてたか判ってんの!?」

「まさか本気にされるとは思ってなかっただけに、面白くて続けちゃった。テヘッ」

「可愛いけど許さん!」

「お前、馴れないことするなよ……ホント紛らわしい」

 なるほど、中学生の頃はいじめられっ子だったのだから冗談を言う暇もなかったのだろう。紛れもなく『馴れないこと』である。

「もう……顔が本気過ぎて全然判らなかったよ……」

「本気になったら土下座じゃ済ませないよ」

 それは結局土下座させるのは本当だったと言っているようなものではないだろうか。

「はいはい。判ったから、もう行こうぜ。随分時間食っちゃったよ」

「そうだね。ほら夕子、もたもたしないで」

「誰の所為だよ!」

 夕子はもう何度目か判らない溜め息を吐く。疲れがどっと体に伸し掛る。一日分くらいの疲労感だ。

 三人は楽器屋の方へ足を向ける。

 その足は背後からの声で止められた。

「花子さん?」

 振り返ると、一人の小さな少女が乙香を見つめている。

 蒸し返されたと夕子は思った。



 *


 一触即発の雰囲気を引き摺っている公園のベンチ。高校生に挟まれながらちょこんと座っている小学生というのは、一体通行人の目にどう映っているのだろうか。

 左端に光太郎、左中央に夕子、右端に乙香、そして右中央で夕子と乙香に挟まれているのが、無謀にも乙香に声をかけた少女、杉川樹すぎかわいつきだ。

 乙香は黙って樹を見ている。見ているというか、凝視している。穴が空く程見ている。ガンをつけている。

「乙香、やめなさい」

「やめない」

 子供にすら容赦しないとは流石だ。情に縁のない人生を送ってきただけのことはある。樹といえば、目を伏せて夕子に縋るようにやや左に寄っている。

「あの……花子さんは、お友達がいるんですね……」

 樹はおどおどと乙香に声をかけた。

 そろそろこの子の勘違いを解いておかなければと夕子は思う。

「樹ちゃん、このお姉ちゃんは花子さんじゃないんだよ」

「えっ。そうなんですか?」

「当たり前だろ糞ガキ……そんなモンがこの世にいる訳ないでしょ? 樹ちゃん、何年生?」

「三年生です……」

「あのね、後学の為に教えておいてあげるけど、花子さんってのはただの噂話だし、サンタクロースはお父さんなんだよ」

 とんでもない暴露。小学三年生ともなれば、サンタクロースが父親であるというくらいの事実なら悟っていてもおかしくないはないが、この純情そうな少女に限ってはそんな無粋など知っていそうにない。

「このドリームブレイカー! 余計なことまで吹き込まないで!」

「さんたくろーすって何?」

 これはまた予想外だ。まさかサンタクロースを知らない人間が存在するとは夕子も思っていなかった。

「樹ちゃんサンタクロース知らないの?」

「判んない……」

 俯いてしまった。

「いやいやいや、そりゃあ知らないこともあるよね! 大丈夫! 私もついこの間までカスタネットとクラリネットの違いが判らなかったし、誰にでも知らないことっていうのはあるよ」

「はは、墓村さん可愛いね」

 可愛いと言われると少し照れるけれど、この後飛んでくる嘲罵を考えると素直に頬を赤らめてもいられない。

「馬鹿っぽくて可愛いよね。何時の時代も馬鹿ほど可愛い」

 ほら見たことか。

 最早いちいち反応するのも面倒だと夕子は考えた。

「だから気にしなくてもいいんだよ。因にサンタクロースっていうのは、赤い服を着てるちょっと太めの体つきをしたお爺さんのことだよ」

「そうなの? それで、サンタクロースさんはお父さんなの?」

「そうだよ」

 乙香が即答した。

「でも、私のお父さんはお爺さんじゃないよ?」

「そうだよ! 乙香、何言ってんのよ。サンタクロースはお爺さんなんだから、樹ちゃんのお父さんな訳ないじゃん」

 幾ら知らぬと言えども、そこは一人間としてフォローしておきたいと思う夕子である。

「あっそ。もういいよ……で? 樹ちゃんは何で戻ってきたの? 折角逃げられたのに」

 そうだ。すっかり忘れていた。樹が公園に戻ってきた理由をまだ聞いていなかった。

「うん。あのね、本当にトイレの花子さんが出たと思ったから、お話したくて戻ってきたの」

「お話し? でもトイレの花子さんってお化けだよね? 樹ちゃんは怖くはないの?」

 光太郎が聞く。

「花子さんは怖くないんだよ? 一緒に遊んでくれるの」

「あんなにイタズラしたくせに遊んでもらおうとか考えてたの? 随分虫のいいことを言うね、樹ちゃん」

 また脅している。

「ごめんなさい……」

「乙香、樹ちゃんはやってないよ。むしろ、一生懸命止めようとしてくれてたんだ。ね、墓村さん」

「うん。だから樹ちゃんが責められる理由はない」 

「でも私が扉を開けるまで止まらなかったよ?」

 男の子は元気だからねえと夕子はしみじみ言う。

「ふうん……ま、そういうことなら見逃してあげるよ。私も無実の人間を貶めるほど鬼じゃないし」

 嘘こけと夕子は思った。

「そっか。遊んでもらう、か。ねえ、樹ちゃんには遊んでくれる友達がいるのに、何で花子さんに遊んでもらう必要があるの?」

 乙香が質問する。

「あの子たちは友達じゃない……」

「そうなの? じゃあ何で一緒にいたの?」

「花子さんとお話しようと思って公園に来たら、あの子たちに見つかっちゃったの」

「なるほど。それで樹ちゃんはあの子たちに花子さんのことを話したんだね?」

「そう。でも馬鹿にされちゃった」

 乙香は、そりゃそうでしょと当たり前のように言ってのける。相変わらず遠慮を知らない。今更だが、相手は子供なのだからもう少し配慮してもいいだろうと夕子は思う。

 樹はいかにも正直そうな子供である。咄嗟に嘘が吐けなかったに違いない。否、嘘を吐こうという発想すらなかったのかも知れない。正直者が嘲笑の的になるというのは遺憾なことであると夕子は思うが、先日幼馴染に言われた言葉を考えると、何とも言えない気持ちになる。だから、下手な助言すら出来なかった。

「して、馬鹿にされた樹ちゃんはムキになっちゃったわけだね。そこまで言うなら確かめてみようと提案して、皆でトイレの花子さんを試した」

「スゴい! 当たり! 乙香お姉ちゃん、探偵さんみたい! 何で判るの?」

 一転、怯えの表情から尊敬の眼差しで乙香を見る樹。

 樹の驚きも尤もだ。夕子だって驚いている。人の心中などお構いなしの乙香が何故ここまで人の心を想像出来るのか判らない。

「ドア越しに聞こえたよ。男の子が樹ちゃんのことを嘘吐き呼ばわりしてるの」

 なるほど。確かに子供たちの声を一番近くで聞いていたのは乙香だった。

「おい乙香、知ってたなら何の為の質問攻めなんだよ?」

「ここに戻ってきた理由は聞いてないから、そっちがメイン。あとの半分は憂さ晴らし」

 あくまで無慈悲である。

「ホントにあんたは最低人間だな」

「酷い。折角夕子とこーちゃんの為に尋問したのに」

「言葉を選べよ……」

 尋問という言葉だって間違ってはいないが、ここは法廷でも何でもないので、質問と言ってほしい。

「でも何か乙香お姉ちゃんってカッコいいね」

 意味が判らない。突然樹が意味不明なことを言いだした。子供の感性というのは時に異常に映る。

「樹ちゃん、間違ってもこんな人間なっちゃ駄目だからね……」

 光太郎が窘める。かなり切実そうな表情だ。勿論夕子も同じ気持ちである。

「幼馴染に対する言葉じゃない……こーちゃんはもっと私を愛するべき」

 夕子は一瞬ギョッとするが、どうせまた言葉の裏に何かあるのだろうと考え直した。まさか乙香が愛を語るなんてことはあるまい。

「乙香お姉ちゃんはお兄さんのことが好きなの?」

「……」

 何も言わない乙香。沈黙は金とは言うが、乙香の性格とこの状況の場合、沈黙が雄弁になり、金か銀かは問題ではなくなる。

 つまり——

「えっ! あんたホントに好きなの!?」

「そ、そんな訳ないよ、墓村さん。こいつは俺にだって容赦なく酷い目にあわすんだから」

 言いつつも光太郎の目は泳いでいる。

「私はこーちゃんを嵌めたことは一度もない。暴力を振るったこともない。そもそも私が苛めるのは夕子だけだよ。他の人には優しく接しているよ」

「嘘こけー! あんた、散々樹ちゃんのこと、苛めてたじゃない」

「あれはスキンシップの内」

 あんな苛烈なスキンシップがあってたまるか。

「……でも確かに、あんまり嵌められたことはないかも。思い付きに振り回されてきただけで、そこまで酷いことは……いやいや! そりゃ、人と比べての話であって、お前が俺にしてきたことだってそこそこ酷いぞ!」

 必死になる光太郎だが、赤面しているところ見ると満更でもなさそうである。やはり、嫌よ嫌よも好きの内、というのは勘違いではないように思える。

「人と比べてってところが重要なんだよ。私はこーちゃんに対して結構優しく接しているつもり……」

「ぐっ……」

 言葉に詰まる光太郎。

「まあでも、こーちゃんが好きとは一言も言ってないけどね」

 沈黙。光太郎は真っ白になって項垂れてしまった。

「お前、碌な死に方しないわ」

「よく言われるよ」

 誰に言われるのだろうか。

「乙香お姉ちゃんは好きじゃないのに、好きになってもらいたいの?」

 子供故の素朴な疑問。しかし、尤もな疑問でもある。

「そうだよ。何故なら、こーちゃんは私のことが嫌いだからね。もう少し私に好意を持ってもいいはずなの」

「だったらその性格を改めろよ……」

「今更?」

「……確かに今更かも知れない。と言うか、乙香が普通の女の子になったらそれはそれで怖い」

 それは確かに。きっと今までにない恐怖を感じるに違いないと夕子は思う。


「そっかー。それって私のお兄ちゃんと似てるかも」

「樹ちゃん、お兄ちゃんがいるんだ?」

 夕子が拾う。

「うん。お兄ちゃんはお父さんが嫌いなんだけど、お父さんには好きになってもらいたいんだって」

「ううん? どういうこと? 嫌いな人に好きになってもらいたい? んー、確かにそれは乙香に似ているけど、乙香はむしろ嫌われてる側の人間だよ。樹ちゃんのお兄ちゃんはお父さんのことが嫌いなんでしょ?」

「うん。だから似てるなって」

「夕子、『似てる』っていう言葉に『同じ』って意味は含まれていないんだよ」

 乙香に正論を言われた。夕子は少しショックを受ける。

「なるほど。まあ似てるっちゃあ似てるのかなあ」

「あくまで似ているだけだけどね。私は単純にこーちゃんに嫌われてるのが嫌なだけだけど、樹ちゃんのお兄さんからは思春期特有の面倒臭さを感じる。お兄さんって何年生?」

「六年生だよ」

 小学六年生といえば、反抗期が来ていてもおかしくはない年齢である。樹の兄も健全な男児の例に漏れず、難しい時期を迎えたということか。

「樹ちゃん、お兄さんから苛められたりしてない? そういう時期の男の子って、周りのこととか全く考えてないから、苛められているなら距離をとった方がいいよ」

「あんたに言われたら終わりだな……」

「お兄ちゃんは優しいよ! ご飯とかも作ってくれるし、色んなお話も聞かせてくれるんだ。トイレの花子さんもお兄ちゃんから教えてもらったんだよ」

 反抗期ということなので、割と捻くれているかと思いきや、意外にも善き兄であるらしい。

「そっか。それにしても、何で学校じゃなくて公園の共用トイレなんだろう?」

 夕子が疑問を投げかける。

「学校? どうして学校なの?」

 樹が疑問で返してきた。

 この娘は少し世間知らずなところがある。何故トイレの花子さんが共用トイレに出没するのか、という夕子の疑問にもピンと来ていないようだ。

「んーとね、普通トイレの花子さんって言ったら学校の七不思議っていう怖い話に出てくるもんなんだよ。だから、何で学校じゃなくて公園なのかなーと思ってさ」

「学校の七不思議……そういうのがあるんだ」

 初めて聞いたなあと樹は口元に人差し指を当てて空を仰いでいる。

「私がお兄ちゃんから聞いたのは、五橋の七不思議だよ」

「五橋の七不思議……」

 真っ白になっていた光太郎がようやく反応する。少し顔が青い。

 クラスメイトから恐がりとしていじられているだけあって、本格的な怖い話となると震え上がってしまうらしい。

 トイレの花子さんだけならば、問題なく聞き流すことが出来ていたようだが、七不思議となると駄目なようだ。基準が判らない。

「五橋って言うと調度この地域だね」

 乙香が促す。

「うん。五橋の怖い話が全部で七個あるの。私、震え上がっちゃった」

 とは言うものの、樹は笑顔である。この笑顔を見るだけで、杉川兄妹の仲のよさを知ることが出来る。

「なるほどなるほど。樹ちゃん! お姉ちゃんたちにもその七不思議、教えてよ!」

 夕子の中の何かに火が着いた。

「夕子……悪い癖だよ」

「いいじゃん! 楽器屋に行くよりは面白いって!」

 尚も白い目で夕子を見る乙香だったが、諦めたように溜息を吐くと、好きにしなよと言って目線を光太郎に映した。

 乙香の目線の先の光太郎の顔は白から青に、そして一周回って白に戻ってきたようだった。

「じゃあ樹ちゃん、ヨロシク!」

「うん。あのね、私がお兄ちゃんから聞いたのは——」

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